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2020年05月31日00:23

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5月31日が誕生日である人々

1750年、ドイツの政治家、カール・アウグスト・フォン・ハルデンベルクが生まれました。ハインリヒ・フリードリヒ・フォン・シュタインに続いて自由主義的諸改革を実施した開明的な政治家。プロシアの近代化に尽力しました。1822年11月26日、当時サルデーニャ王国領であったジェノヴァにて死去。72歳。
1773年、ドイツのロマン主義を代表する詩人、作家、編集者のルートヴィヒ・ティークが生まれました。風刺小説『ツェルビノ王子、または美味を求める旅』(1799年)とヴァッケンローダーの協力による中世ドイツ賛美の小説『フランツ・シュテルンバルトの遍歴』(1798年)を出版。また『ロマン詩集』(1799-1800年)、悲劇『聖女ゲノフェーファの生と死』(1820年)、民衆本に想を得た喜劇『皇帝オクタヴィアヌス』(1804年)などを次々と発表し、ロマン主義的な思潮を全面的に推し進めました。最も重要なものに『絵画』『旅人』『山の老人』『田舎の社会』『婚約』『音楽にまつわる苦悩と歓喜』『人生の流れ』などが挙げられます。歴史的ノヴェレでは『ギリシア人皇帝』『詩人の死』、そして完成しなかったものの『ツェヴェネの反乱』が非常に重要な作品として挙げられます。これらのノヴェレ全てにおいて、簡潔で優雅な描写だけでなく多様で生き生きした典型的な登場人物と詩想の深さが陶酔を誘います。散文的ノヴェレにおいてもティークは円熟の筆致を見せてくれます。その最後の大作『ヴィットーリア・アコロンボーナ』(1840年)は新フランスロマン主義の影響の下に成立しましたが、その色彩豊かな描写にもかかわらず苦悩の印象をより強く与えられるのです。ほかに『長靴をはいた牝猫』。編集者としての彼は1826年のアウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲルによるシェイクスピアのドイツ語訳、ハインリヒ・フォン・クライストの遺稿(1821年)全集(1826年)、ヨーハン・ゴットフリート・シュナーベルの『フェルゼンブルク島』(1827年)、レンツ全集(1828年)、『シェークスピア前派』(1823-1829年)などの校訂・編集を行い、また劇団文芸員としての批評は『文芸部員通信』(1826年/1852年)としてまとめられました。1853年4月28日に死去。
1835年(天保6年5月5日)、新選組副長の土方歳三が生まれました。新選組時代には、局長・近藤勇の右腕として組織を支え、戊辰戦争では旧幕軍側指揮官の一人として各地を転戦し、またいわゆる「蝦夷共和国」では、軍事治安部門の責任者に任ぜられて指揮を執りました。明治2年(1869年)5月11日、戊辰戦争の最後の戦場になった箱館五稜郭の防衛戦で戦死。享年34。
1838年、イギリスの哲学者、倫理学者のヘンリー・シジウィックが生まれました。1874年、初めて大学外での評判を勝ち取った『倫理学の諸方法 The Method of Ethics』(第6版1901年には、彼の死の直前の修正が含まれています)を出版しました。1875年、トリニティの道徳・政治哲学の講師に指名され、1883年に哲学のナイトブリッジ教授に選ばれ、さらに宗教上の制限が取り除かれたので、1885年に大学側はもう一度彼をフェローシップに推挙しました。シジウィックは教職員や著述家としてだけでなく、大学の運営や、多くの社会・慈善事業に積極的に貢献していました。かれはその設立の1882年から1899年まで the General Board of Studies のメンバーでした。彼はまた、the Indian Civil Service Board の上院の評議会、大学試験・講義機構 (the Local Examinations and Lectures Syndicate) のメンバーであり、the Special Board for Moral Science の議長でした。英国心霊現象研究協会の設立者の一人であり初代会長で、形而上学協会 (the Metaphysical Society) の会員でもありました。彼の名がもっとも知られているのは、女性の高等教育の促進への貢献です。彼は、女性のための高等試験 (the higher local examinations for women) と、その準備としてケンブリッジで催された講義の開始を助けました。彼の提案と手助けによってクロウが学生のために寮を開き、これが後にケンブリッジ大学のニューナム・カレッジに発展。1880年、ノースホール (North Hall) が加わった際、1876年にエレナ・ミルドレッド・バルフォア(アーサー・ジェイムズ・バルフォアの兄弟)と結婚していたシジウィックは、妻とともに二年間そこに住まいました。1892年のクロウの死後、シジウィック夫人はカレッジの長となり、シジウィックと彼が死ぬまでそこに住まいました。この全期間、シジウィックは大学の福祉に強い関心を持っていました。政治上、彼は自由党員で、1886年に自由連合党員 (Liberal Unionist) になりました。1900年初頭、彼は病気により教授職の辞職を余儀なくされ、その数ヵ月後の1900年8月28日に死去。
1910年、上方の落語家、漫才師の三遊亭小圓が生まれました。1917年ころ、8歳で7代目桂文治に入門し桂文彌を名乗ります。その後初代橘ノ圓一門の橘ノ圓治郎門下に転じ、橘ノ圓きんに改名。1922年ころ、二丁鼓という珍芸を得意としていた三遊亭圓子の門下で三遊亭小圓(のち、三遊亭小円)に改名。落語の多くは初代桂春團治、4代目桂文團治に学びました。1928年ころ、道頓堀弁天座で開催された「萬歳大会」において、三遊亭小圓治(東京ののちの8代目金原亭馬生とは別人)と組み、漫才に転向。1937年7月に夫人の木村栄子と漫才コンビ「三遊亭小円・木村栄子」を組みました。小円・栄子は三味線を用いた漫才で、戦後は松竹芸能に所属しました。私、この二人の高座を大阪の角座で見ています。晩年は落語に回帰し『親子茶屋』『紙屑屋』などを和朗亭などで披露しました。肺がんのため、1975年11月30日、兵庫県神戸市の神戸博愛病院で死去。65歳没。
1914年、作曲家の伊福部昭が生まれました。ほぼ独学で作曲家となりました。日本の音楽らしさを追求した民族主義的な力強さが特徴の数多くのオーケストラ曲のほか、『ゴジラ』を初めとする映画音楽の作曲家として、また音楽教育者としても知られます。他に世界的評価を得た『日本狂詩曲』。2006年(平成18年)2月8日、多臓器不全のため死去。91歳没。伊福部の死去に対して、「日本の作曲界を牽引した功績はとても大きい」(作曲家・池辺晋一郎)、「映画音楽の大山脈をなした方でした」(映画監督・熊井啓)など、各界から追悼のコメントが寄せられました。
1930年、アメリカの俳優、クリント・イーストウッド(本名:Clinton Eastwood Jr.)が生まれました。俳優として数多くの西部劇やアクション映画に出演。自身最大の当たり役であるハリー・キャラハン役を演じた『ダーティハリー』シリーズでスーパースターの地位を不動のものとしました。監督としても『許されざる者』『ミリオンダラー・ベイビー』でアカデミー作品賞とアカデミー監督賞を2度受賞するなど、ハリウッドで長年活躍してきた俳優、映画監督です。『荒野の用心棒』『夕陽のガンマン』『続・夕陽のガンマン』はドル箱三部作と称されました。一方、カリフォルニア州カーメル市市長を1期(2年間)務めました。2008年の『グラン・トリノ』をもって「もう積極的に役は探さない。いまの映画の役は、みんな若い役者向けに書かれているから。」と語り、実質的な俳優引退宣言を行いました。今後は監督業をメインに活動するとスポーツニッポンのインタビューで語りました。しかし後に日刊スポーツのインタビューでは「演じたい役があれば(俳優に)戻ってくるかもしれない」ので、自身からは“ 引退 ”という発言は積極的に用いないという趣旨の発言もしており、揺れ動く心情を吐露しています。2012年には上記の発言を裏付ける様に、『人生の特等席』で老いたメジャーリーグスカウトマン役として、4年ぶりに映画に出演しました(監督兼務ではない出演者としては19年ぶり)。
1936年、喜劇俳優の東八郎が生まれました。中学卒業後にコメディアンを志して歌手の田谷力三に弟子入り、そして浅草公園六区の浅草フランス座などで活躍(この頃のフランス座には、関敬六、長門勇、渥美清、伊東四朗など後に有名になったコメディアンたちが出演していました)。東八郎の芸名はフランス座を経営する東洋興業創業者の松倉宇七にちなんだものでした。テレビの台頭と共に浅草の演劇街が衰退してきたため、1964年に小島三児、原田健二と共にトリオ・スカイラインを結成し、テレビに進出。コントを行い人気を博しました。しかしトリオ・スカイラインは1971年に解散し、以降は単独で芸能活動を行いました。「♪かんばれ、強いぞ、僕らのナ・マ・カ」で有名に。三波伸介とともにNHK『お笑いオンステージ』にレギュラー出演し、全国区の有名なコメディアンとなりました。その後、東八郎劇団を結成して後進の育成にも力を注ぎ、全国各地で喜劇を演じていました。晩年では『志村けんのバカ殿様』の家老役や額に「光」のシールを貼り、BGMにメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲が流れる「ヨード卵光」のコマーシャルが有名でした。なお、萩本欽一は東の預り弟子でした。東の直弟子には他にすず風金魚(すず風にゃん子・金魚)がいます。また人気コメディアンとしてテレビや舞台を数多くこなし、RCAビクターから『娘へのバラード』(1981年)を発売するなど歌手活動も行っていました。『娘へのバラード』は、結婚披露宴で歌われる定番曲のひとつとして広く知られています。また1986年には芸能人養成のために私塾「笑塾」を開きました。しかしそれから間もない1988年7月6日の昼過ぎ、自宅にて眠っている最中に突然脳溢血を起こします。日本医科大学付属病院へ救急車で緊急搬送されましたが、意識が回復することなく同日15時30分に急逝しました。52歳没。次男はお笑いコンビ・Take2の東貴博、三男はタレントの東朋宏。タレントの安めぐみは次男・貴博の妻。
1962年には声優の日高のり子が生まれています。代表作に『タッチ』(浅倉南)、『となりのトトロ』(草壁サツキ)、『らんま1/2』(天道あかね)など。
1965年、アメリカの女優、ブルック・シールズが生まれました。本名はブルック・クリスタ・カミール・シールズ 。わずか生後11か月にして]写真家フランチェスコ・スキャバロに見出され、アイボリー石鹸語のモデルに起用されています。その後、両親が離婚するも、シールズ自身はアメリカで一番の高額ギャラを得る人気子供モデルになりました。
1977年、ホラー映画『Alice, Sweet Alice』で、端役(主人公の妹役)としてスクリーン・デビューを果たします。1978年にはルイ・マル監督の『プリティ・ベビー』で12歳の娼婦を演じてセンセーションを巻き起こし、一躍スターとなりました。15歳の時にはカルバンクラインのジーンズのCMに起用されています。1979年、『ピンボールの青春』と『裸足の天使』に主演。1980年の『青い珊瑚礁』と1981年の『エンドレス・ラブ』が連続でヒットしたことにより、一躍世界の人気スターとなり、若手女優のトップに躍り出ます。美人の代名詞とされるようになります。1996年からはこの年にスタートしたNBCテレビのコメディドラマ『サドンリー・スーザン』シリーズに出演し、再び人気女優の地位を獲得。ブロードウェイ・ミュージカルにも出演しています。1997年4月19日、男子プロテニス選手のアンドレ・アガシと4年間の交際を経て結婚。2人は2年後の1999年4月に離婚。2001年4月、脚本家でNBCテレビのプロデューサーを務めるクリス・ヘンチーと再婚。2004年、バーンスタインのミュージカル『ワンダフル・タウン』(Wonderful Town)の主演などがあり、好評を博しました。
1968年、女優の鈴木京香が生まれました。大学在学中からモデル事務所、仙台SOSモデルエージェンシーに所属し、モデルとして活動していました。1988年、『カネボウ 水着キャンペーンガール』に選出され、グラビア(ビキニ)モデルとして本格的に芸能界入り。高卒者が大半を占める芸能界において、珍しい“高学歴芸能人”の一人です。翌1989年、映画 『愛と平成の色男』で女優デビュー。1991年、1年間にわたって放送されたNHKの連続テレビ小説 『君の名は』でヒロイン真知子役を演じ、“朝ドラ女優”として人気女優となりました。1995年のテレビドラマ、『我慢できない!』(関西テレビ)ではコミカルな演技を披露し、それ以降は人気ドラマに次々と登板しました。脚本家、三谷幸喜の作品では、テレビドラマ 『王様のレストラン』(1995年、フジテレビ)を皮切りに、常連出演者となっています。謙虚な主婦や、豪快な女性刑事から可憐な女性、教育ママ、大人の女性など、さまざまな役柄を柔軟にこなします。故郷の宮城県仙台市(約800人が死亡)が大きな被害を受けた2011年の東日本大震災後は、NHKによる復興キャンペーン「NHK東日本大震災プロジェクト」に参加。同プロジェクトで制作された合唱曲「花は咲く」にも参加しましたが、そのプロモーションビデオでは鈴木のみが歌わずに黙祷する演出がなされ、このプロモーションビデオ『花は咲く』の中心的な存在でした。
1970年、自衛隊員からプロレス入りした杉浦貴が生まれました。プロレスリング・ノア所属。丸藤正道、KENTA、小川良成に次いで4人目となるノアのタイトルであるグローバル・オナード・クラウン4王座すべてを奪取した経験を持ちます。また、ノアのデビュー第1号レスラーでもあります。すでにレスラーとしては高齢ですが、ザ・グレート・カブキによると、「ノアで一番のレスラー」だとのこと。必殺技は「オリンピック予選スラム」。
1974年、タレントの有吉弘行が生まれました。地元の同級生だった森脇和成を誘って二人で上京。1994年、太田プロダクションに所属し、森脇とお笑いコンビ猿岩石を結成、猿岩石のボケ担当としてデビュー。1996年、『進め!電波少年』でのヒッチハイクの旅企画で話題となりブレイク。帰国後、CDや著書が爆発的に売れるも、肝心のお笑いで結果を残すことができず、ほどなくして人気は低迷し仕事が激減。本人によれば「天狗」になっており、あまり人に好かれていなかったようだと言うことです。2004年、猿岩石を解散、ピン芸人として活動を始めます。このころから、『内村プロデュース』に度々出演するようになり(最初の内は猿岩石として、解散後には有吉が一人で)、これが久方ぶりの全国ネット番組への出演となり、復活へのきっかけとなりました。有吉によれば、自身の復活は正しく「内Pのおかげ」であり、「内Pで再デビュー」といった気持ちでもあったということです。なお、内P出演時は基本的にリアクション芸、基本的に裸、でした(そのために、体力も錬成しダイエットも行ったと言うこと)。また、女性ファン層は諦め、同世代の男性に的を絞っていきました。そしてダチョウ倶楽部の協力などもあり、それら一定の成果を収めました。現在、芸能界の先輩も呼び捨てにする毒舌キャラ。

次は忌日。
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コメント

  • mixiユーザー

    mixiユーザー2020年05月31日 08:01
    おはようございます(*^^*)今日もよろしくお願いします(*´∇`)ノ今朝は凄くどしゃ降りでした(^_^;)今は小雨で落ち着いてます
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2020年05月31日 08:09
    > mixiユーザー おはようございます。こちらこそよろしくお願いします。東京・多摩地区は今日いっぱいは空模様ももつようです。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2020年05月31日 11:42
    > mixiユーザー そうなんですね(^_^;)明日ぐらいに降るかも
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2020年05月31日 12:27
    > mixiユーザー そうなんですよ。土砂降りになるかも。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2020年05月31日 12:32
    > mixiユーザー ならなきゃ良いですねぇ(^_^;)

mixiユーザー

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