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2020年02月20日00:06

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1883年、小説家の志賀直哉が生まれました。白樺派を代表する小説家のひとり。「小説の神様」と称せられ多くの日本人作家に影響を与えました。代表作に「暗夜行路」「和解」「小僧の神様」「城の崎にて」など。1971年(昭和46年)10月21日午前11時58分に肺炎と老衰により関東中央病院で没しました。享年88。
1886年、詩人、歌人、評論家の石川啄木が生まれました。戸籍上は工藤一(くどうはじめ)。歌集は『一握の砂』『悲しき玩具』。1908年(明治41年)6月23日から25日にかけ「東海の小島…」「たはむれに母を背負ひて…」など、後に広く知れ渡る歌を作り、続いて作った246首とともに翌月の『明星』に発表。1910年5月下旬から6月上旬にかけて小説『我等の一団と彼』を執筆。1912年(明治45年)4月13日午前9時30分頃、小石川区久堅町にて肺結核のため死去。妻、父、友人の若山牧水に看取られています。26歳没。「友がみな 我より偉く見ゆる…」など、いかにも東北人らしい劣等感の持ち主でした。あまり友人に持ちたくないですね。
1894年、俳優の左卜全(ひだり ぼくぜん)が生まれました。1914年(大正3年)、「帝劇歌劇部」に第3期生として入り、オペラ歌手として歌唱法やダンスを学びました。当時は舞踏家を目指していましたが、帝劇洋劇部が解散したことにより断念。小さな劇団を転々としました。1920年(大正9年)、関西に移り「新声劇」に入ります。1926年(大正15年)、「松旭斎天華一座」に入り、三ヶ島天晴(みかじま てんせい)の芸名で活躍。満州、中国まで巡業に出ました。1935年(昭和10年)、東京へ戻り、経営者の佐々木千里に誘われて新宿の「ムーランルージュ新宿座」に入ります。以来、左卜全の芸名で老け役の喜劇俳優として活躍しているところを松竹に引き抜かれて「移動演劇隊」に入りました。しかし、この頃から左脚に激痛を伴う突発性脱疽を発症してしまいます。医者からは脚の切断を勧められましたが、俳優以外に天職が無いと考えていた卜全はあえて激痛を伴う脱疽と共に生きる決意をし、以後は生涯にわたり撮影時以外は移動に松葉杖を使うようになっていきました。1945年(昭和20年)、敗戦後に水の江滝子の「劇団たんぽぽ」に加わりました。フリーとなってからはとぼけた老人役で手腕を発揮し、笠智衆と並ぶ老け役の名手として活躍しました。黒澤明に重用され、『生きる』『七人の侍』など、計7本に出演しました。自他共に認めていた代表作は『どん底』でのお遍路役でした。
1970年(昭和45年)、日本グラモフォン(現・ユニバーサル ミュージック合同会社)より『老人と子供のポルカ』で歌手デビューを果たしました。1971年(昭和46年)、癌のため5月26日に77歳で没しました。
1915年、女優、映画プロデューサー、タレントの水の江瀧子が生まれました。1928年に東京松竹楽劇部(後の松竹少女歌劇部、松竹歌劇団)に第1期生として入団。日本の女性歌劇史上初めて男性様に断髪した男役で「男装の麗人」の異名を取り、「ターキー」の愛称と共に1930年代から1940年代にかけて国民的人気を博しました。1942年の松竹退団後は劇団主宰、映画女優などを経て1955年に日活とプロデューサー契約。日本初の女性映画プロデューサーとなり、石原裕次郎を筆頭に、浅丘ルリ子、長門裕之、岡田真澄、和泉雅子、赤木圭一郎ら数々の俳優や、中平康、蔵原惟繕といった監督を発掘・育成し、『太陽の季節』、『狂った果実』など70本以上の映画を企画、日活の黄金時代を支えました。また、『NHK紅白歌合戦』の司会を2度務めたほか、『ジェスチャー』(紅組キャプテン)、『独占!女の60分』といった番組に携わりました。50年以上に亘り芸能活動を続けましたが、1984年に甥の三浦和義が妻の不審死に関わったのではないかとしてマスメディアを賑わせた「ロス疑惑」のスキャンダルに巻き込まれ、芸能界を引退しました。その後は隠居の傍ら、ジュエリー作家として活動したほか、1993年に自身の生前葬を大々的に催し話題をとりました。出生名は三浦 ウメ子でしたが、ロス疑惑の後、法的に水の江瀧子を本名としました。2009年11月16日、94歳で没。
1927年、アメリカの俳優、シドニー・ポワチエが生まれました。黒人俳優としての先駆者的存在のひとりで、男優としては初めてアカデミー主演男優賞を受賞しました。1968年『招かれざる客』、『夜の大捜査線』など社会的かつ人種差別問題を真正面から提起する重い題材に挑みつづけ、多くのファンの支持を獲得しました。こうして、黒人俳優というひとつの道を開拓したのです。同年、かつて生徒役で登場した『暴力教室』のリメイク版『いつも心に太陽を』に主演。サッカレー先生役で登場し、日本でも広く知られました。近年の主な代表作は1988年の主演作『リトル・ニキータ』や『影なき男』でのタフガイ刑事、豪華スターが結集した1997年『ジャッカル』でのFBI副長官役、2001年に主演したTV作品『希望の大地』での知的で温厚なレンガ職人などが名高いです。1990年代後半から2000年代以降はTVドラマでの活躍を軸に演技を披露、更なる新境地を開いています。中でも南アフリカのアパルトヘイト時代の終焉を描いた1997年の大型TVドラマ『マンデラとデクラーク』で、主人公ネルソン・マンデラを演じました。また1998年主演作『デビッド&リサ〜心の扉〜』では、心に傷を持つ少年と少女を優しくかげながら見守るミラー医師役で抑制のきいた演技をみせました。
1929年、作曲家の黛敏郎が生まれました。現代音楽界を代表する音楽家の一人。東京藝術大学作曲科講師として後進の育成にもあたりました。映画音楽も数多く携わりました。1968年、『題名のない音楽会』と『NNNワイドニュース』の司会に対して、第5回ギャラクシー賞を受賞。1958年には、石原慎太郎、江藤淳、大江健三郎、谷川俊太郎、寺山修司、永六輔、福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保改定反対運動に参加しました。1970年、日本万国博覧会のテーマ館サブプロデューサーを含め、パビリオンの音楽、お祭り広場の音楽、開会、閉会式の音楽他を担当しました。1986年、4月16日、バレエ《The KABUKI》初演。同作品はパリ・オペラ座、ミラノ・スカラ座、ウィーン国立歌劇場、ベルリン国立歌劇場、ボリショイ劇場、マリインスキー劇場等海外の劇場でも喝采を受け、世界中で150回以上の上演回数、22万人が鑑賞しています。1997年4月10日、68歳で没。
1931年、女優の浅香光代が生まれました。女剣劇浅香流家元。愛称は「ミッチー」。内縁の夫はコメディアンの世志凡太。野村沙知代に剣劇を教え舞台で共演したものの、TBSラジオ『大沢悠里のゆうゆうワイド』の降板前最後の回(1999年3月31日)において、沙知代を批判をしたことがきっかけとなり、沙知代の逮捕(2001年12月)まで続くミッチー・サッチー騒動へと発展。連日に渡り「ミッチーVSサッチー」と民放各局のワイドショーで取り上げられたことにより、浅香のこれまでの高年齢者にシフトしていた知名度が若い世代でも認知されるようになりましたが、2004年、沙知代に対する名誉毀損で110万円の支払い命令を受けています。2014年、雑誌(『婦人公論』2014年2月7日号)にて20代で出産した隠し子がいることを公表しました。子の父親は既婚者の政治家で総理大臣、副総理を歴任した人物(故人)であり、子に対しても名を明かしていないということです。2018年、2月20日で90歳になり5月11日都内のホテルで卒寿を祝う会を行いお祝いに駆けつけた萩本欽一、山東昭子、深谷隆司、亀井静香ら約300人を前に「浅香光代、これからも頑張ります」としっかりとした元気な声であいさつしました。
1936年、プロ野球選手、監督だった長嶋茂雄が生まれました。読売ジャイアンツ終身名誉監督。日本プロ野球名球会顧問。血液型はB型。愛称は「ミスタージャイアンツ」「ミスタープロ野球」「ミスター」「チョーさん」「燃える男」他。長きにわたり巨人の4番打者として活躍しました。同時代に活躍した王貞治とはともに「ON砲」として称され、二人のバッティングは巨人のV9に貢献しました。2001年より株式会社よみうり (現: 株式会社読売巨人軍) 専務取締役終身名誉監督。2013年、国民栄誉賞を受賞しました。日本のプロ野球において400本塁打・2000安打の同時達成は大卒では史上初です。自宅に押し掛けたスポーツ記者の取材に応じなかったので、「この朝鮮野郎!」と叫ばれると、一升瓶を持って現れ、「まあまあ、そんなこと、言わないでよ」と取材に応じたそうです。巨人軍監督時代は球団の後押しもあって、金づくで他球団の看板選手を引き抜き、「なんでも欲しがるチョーさんは…」と揶揄されましたが、4番打者をずらりと並べても結果は残せませんでした。現在は病気のせいでヨイヨイ状態。
1937年、西ドイツの生化学者、ロベルト・フーバーが生まれました。1988年に、光合成に必要なタンパク質複合体の三次元構造を明らかにした功績により、ハルトムート・ミヒェル、ヨハン・ダイゼンホーファーとともにノーベル化学賞を受賞しました。現在、イギリスのカーディフ大学に在籍し、構造生物学の部門を統括しています。
1937年、似顔絵作家、風刺漫画家、イラストレーター、笑芸プロデューサーの山藤章二が生まれました。タレントや話題の人物を現代の世相に合致させた作風が特徴とされます。1971年から「世相あぶり出し」などのイラストによる世相風刺で話題を集め、1976年から「山藤章二のブラック=アングル」(後に「山藤章二のブラック・アングル」)を『週刊朝日』(朝日新聞社→朝日新聞出版)に連載、「週刊朝日を最終ページから開かせる男」の異名をとりました。また1981年から『週刊朝日』誌上で「山藤章二の似顔絵塾」を開講。塾生にはプロのイラストレーターに育った人も多いのです。1983年菊池寛賞を受賞。この間、1975年に胃潰瘍で倒れ、胃の3分の2を切除しました。
1943年、元プロレスラー、参議院議員のアントニオ猪木が生まれました。師匠の力道山から「この移民野郎!」といじめられたり、同期入門のジャイアントに激しいライバル意識を抱いたり、豊登の誘いに乗って東京プロレスを立ち上げたり、モハメッド・アリなどと異種格闘技戦を敢行したりと、数々の逸話があることは皆さんもよく御存知でしょう。元プロレスラーのザ・グレート・カブキ(高千穂明久)によると、ブラジルへ渡ったのは猪木本人ではなく、兄であるとのこと。1991年にイラクのシーア派聖地カルバラーにてイスラム教に改宗しており、ムスリム名は「モハメッド・フセイン・イノキ」です。ただし、ワシントン・ポストによると本人は仏教徒とも自認しています。ま、いい加減な人ですから、その辺はどうでもいいのでしょう。なお、本名の猪木寛至で活動中に出演したテレビドラマ『チャンピオン太』での役名「死神酋長」を気に入った力道山は、その名を猪木のリングネームにしようとしたということです。倍賞美津子と離婚した後に迎えた妻が朝鮮総連の幹部の娘だったこともあって、北朝鮮との間に太いパイプを築いています。しかし政治家引退を表明しました。
1948年、漫画家の小山ゆうが生まれました。代表作は『がんばれ元気』『お〜い!竜馬』『あずみ』など。『がんばれ元気』『おれは直角』『お〜い!竜馬』(原作:武田鉄矢)はテレビアニメ化され、『あずみ』は上戸彩主演で映画化されました。
1950年生まれの歌手のばんばひろふみには興味ないのでパス。

今日も長くなったので二部構成。
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