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mixiユーザー(id:5138718)

2020年02月18日00:07

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2月18日が忌日である人々

1405年、チャガタイ・ハン国の軍事指導者で、ティムール朝の建国者、ティムールは遠征先では病に罹り、オトラルで病没。68歳。中世アジアを代表する軍事的天才と評価され、中央アジアから西アジアにかけてかつてのモンゴル帝国の半分に匹敵する帝国を建設しました。しばしば征服した都市で大規模な破壊と虐殺を行う一方、首都のサマルカンドと故郷のキシュ(現在のシャフリサブス歴史地区)で建設事業を行う二面性を持ち合わせていました。日本でこの人のことがあまり認識されていないのもむべなるかな。
1546年、ドイツの神学者、教授、作家、聖職者、マルティン・ルターが1546年2月18日に62歳で生まれ故郷のアイスレーベンでこの世を去りました。1517年に『95ヶ条の論題』をヴィッテンベルクの教会に掲出したことを発端に、ローマ・カトリック教会から分離しプロテスタントが誕生した宗教改革の中心人物です。「聖書に書かれていないことは認めることができない」というルターの言葉は、重税を負わされて苦しい生活を送っていた農民に希望を与えることになりました。そもそも農民が領主に仕えることも聖書に根拠を見出せないというのです。かつてルターの同志であったトマス・ミュンツァーはこういった人々のリーダーとして社会変革を唱えるようになっていました。ドイツの農民暴動自体は15世紀後半から頻発していましたが、ルター説を根拠に農民たちが暴力行為に走ると、ルターはミュンツァーと農民たちを批判し、二人は互いに攻撃しあうようになりました。さらに再洗礼派の過激な教説も農民暴動の火に油を注ぐ結果となりました。1524年、西南ドイツのシュヴァーベン地方の修道院の農民たちが、賦役・貢納の軽減、農奴制の廃止など「12ヶ条の要求」を掲げて反乱を起こし、これは隣接地域へ瞬く間に広がっていきました。これが1524年から1525年にかけて起こったドイツ農民戦争です。ルターは初めはローマ殲滅戦を煽動していましたが、次第に路線をめぐり党派に分裂するなか、ルターは反乱側にではなく、市民・貴族・諸侯の側について暴徒の鎮圧を求め、民衆には平和な抵抗を訴えるようになります(この平和な抵抗の路線についてはすでにさかのぼること1520年『ドイツ国民の貴族に与う』で示されていました)。ルターは路線変更後の1525年、『盗み殺す農民に対して』において「親愛なる諸卿よ、やれるものは誰でも彼ら(農民)をたたきつぶし、絞め殺し、刺し殺せ。(…)狂犬を撲殺しなけらばならない」と農民の殺害を煽動するほどでした。宗教改革を成功させるためには、世俗の権力と金力が必要でした。ルターの鎮圧支持を受けた領主たちはシュヴァーヴェン同盟を中心として徹底的に農民暴動を鎮圧し、首謀者たちを殺害しました。ミュンツァーも捕らえられて処刑されました。これにより反乱の主要地域であった南ドイツにおいてはルター派は支持を失い、またルターの説からそもそもこの反乱がおこったこともあって、ドイツ農民戦争時におけるルターの言動は結果として彼の評判を傷つけることになりました。ルターはこの苦い経験から教会と信徒に対してやはり何らかのコントロールが必要であると考えるようになりました。こうして領邦教会という新しい教会のあり方が生まれていったのです。ルターはその後、各地のルター派諸侯の間を回りながら領邦教会の成立を進めていきました。このころ、信仰教育のためにルターが書いたのが信徒向けの『小教理問答』および教師向けの『大教理問答』でした。同じころ、ルターの改革と国家教会というシステムはドイツを越えて北欧にまで波及するようになっていました。1529年にはカール5世包囲網を作り上げようとしたヘッセン伯フィリップのもくろみによって、ルターとフルドリッヒ・ツヴィングリは合同のための会談を行いましたが、聖餐理解に大きな違いがあったため決裂しました。1529年の帝国議会ではカトリック教会の破壊などの行き過ぎを反省し、ルター派支持諸侯たちの立場を認めながら、カトリック教会の立場も保全するという布告が行われました。(一方でアナバプテスト(再洗礼派)とツヴィングリ派は禁止されました。)しかし、ザクセン選帝侯を初めとするルター派諸侯はこれに対し抗議を行いました。このことからルター派諸侯と諸都市は「プロテスタント(抗議者)」と呼ばれるようになり、やがてルター派の総称となりました。1530年に行われたアウクスブルクの帝国議会でもカール5世はなお、プロテスタント諸侯との和解の道を模索していました。この議会にはルター自身は法的立場によって参加できませんでしたが、盟友のメランヒトンが参加していました。この議会においてプロテスタント側は共同して『アウクスブルク信仰告白』を皇帝に提出しました。これはプロテスタントによる初の信仰宣言であり、大部分がメランヒトンの手によると言われます。内容を見ると教義についてはプロテスタント側の一致を主眼にしたため、妥協的でわざと曖昧にされた部分が多く見られ、ルター自身は物足りないと感じていたと言われています。
1831年(天保2年1月6日)、曹洞宗の僧侶、歌人の良寛が72歳で入寂。出家後、安永8年(1779年)22歳の時、備中玉島(現・岡山県倉敷市)の円通寺の国仙和尚を"生涯の師"と定め、師事。良寛は故郷を捨てましたが、この世にあらん限りは父母の言葉を身に包み生きよう、と誓いました。円通寺の格式は高く、その入門には厳しい戒律を通過しなければなりませんでした。そして経を学ぶことより、勤労に励むことを第一としていました。「一日作らざる者は、一日食わず」国仙和尚は日を変え言葉を変えて良寛に説きました。その教えは後の良寛の生き方に強い影響を与えます。修行4年目の春、良寛は母の訃報に接します。しかし帰郷は許されるはずもなく円通寺の修行は12年も重ねました。寛政2年(1790年)印加(修行を終えた者が一人前の僧としての証明)を賜ります。翌年、良寛34歳の時「好きなように旅をするが良い」と言い残し世を去った国仙和尚の言葉を受け、諸国を巡り始めました。父の訃報を受けても放浪の旅は続け、義提尼より和歌の影響を受けます。48歳の時、越後国蒲原郡国上村(現燕市)国上山(くがみやま)国上寺(こくじょうじ)の五合庵(一日五合の米があれば良い、と農家から貰い受けたことからこの名が付けられた)にて書を学びます。『秋萩帖』はその手本として自ら選んだもの。五合庵の良寛は何事にもとらわれず、何者にも煩わせることもない、といった生活でした。筍が顔を覗かせれば居間を譲り、子供にせがまれれば、日が落ちるまで鞠付きに興じるのでした。良寛は歌に「この子らと 手鞠付きつつ遊ぶ春 日はくれずともよし」と残しています。書は良寛にとって己が鬱勃たる心情の吐露でした。また書を学ぶうち、従来の書法では自身の心情を表せることが出来ず、良寛独自の書法を編み出します。それは、上手に見せようとするのではなく、「一つの点を打つ」「一つの棒を引く」その位置の僅かなズレが文字の命を奪う。そんな際どい瀬戸際に筆を運んで良寛の書は出来上がります。五合庵での階段の昇り降りが辛くなり、61歳の時、乙子神社境内の草庵に居を構えました。円熟期に達した良寛の書はこの時に生まれています。良寛の名は、子供達を愛し積極的に遊んだという行動が人々の記憶に残っています。良寛は「子供の純真な心こそが誠の仏の心」と解釈し、子供達と遊ぶことを好み、かくれんぼや手毬をついたりしてよく遊んだということです(懐には常に手毬を入れていたという)。名書家として知られた良寛でありましたが、高名な人物からの書の依頼は断る傾向がありましたが、子供達から「凧に文字を書いて欲しい」と頼まれた時には喜んで『天上大風』(てんじょうたいふう)の字を書きました(現在でもその凧は残っている)。 ある日の夕暮れ時にも、良寛は隠れん坊をして子供達と遊んでいて、自分が隠れる番になり、田んぼにうまく隠れ得ました。しかし、日が暮れて暗くなり子供達は良寛だけを探し出せないまま家に帰ってしまいました。翌朝早くにある農夫が田んぼに来ると、そこに良寛が居たので驚いて問い質すと良寛は「静かに!そんな大声を出せば、子供達に見つかってしまうではないか」と言ったそうです。このような類いの話が伝えられ子供向けの童話などとして紹介されることで良寛に対する親しみ深い印象が現在にまで伝えられています。70歳の時、島崎村(現長岡市)の木村元右衛門邸内にそれぞれ住みました。無欲恬淡な性格で、生涯寺を持たず、諸民に信頼され、良く教化に努めました。良寛自身、難しい説法を民衆に対しては行わず、自らの質素な生活を示す事や簡単な言葉(格言)によって一般庶民に解り易く仏法を説きました。その姿勢は一般民衆のみならず、様々な人々の共感や信頼を得ることになりました。
最期を看取った弟子の貞心尼が『蓮の露』に良寛の和歌を集めました。良寛は他に漢詩、狂歌、俳句、俗謡に巧みで、書の達人でもありました。
1887年、天理教教祖の中山みきが午後2時ごろに満88歳(享年90)で死去。明治21年(1888年)11月1日に天理教教会本部より出版された「みかぐらうた」複製本の初天保9年10月23日(1838年12月9日)の夜四ッ刻(午後十時)、長男・秀司の足の病の原因究明と回復のために、修験道当山派内山永久寺の配下の山伏、中野市兵衛に祈祷を依頼しました。その時市兵衛が災因を明らかにするためにする憑祈祷の依り坐が不在だったために、みきが依り坐、加持代となります。この時、みきの様子は一変し、まったく別人になったかのような、著しい変化があり、いわゆる憑依状態に入りました。このことを天理教では「月日(神)のやしろ」に召される、と呼んでいます。このときに憑依を悟った市兵衛が「あなたは何神様でありますか」と問うたところ、みきは「我は天の将軍なり」あるいは「大神宮」とこたえたとされます。市兵衛があらためて「天の将軍とは何神様でありますか」というと「我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天降った。みきを神のやしろに貰い受けたい。」あるいは「我はみきの体を神の社とし、親子諸共神が貰い受けたい」と語り、親神(おやがみ)・天理王命(てんりおうのみこと)がみきに憑依し天啓を受けたとされています。版では著者は「奈良県平民 故中山美支」となっていますが、現在の天理教では「中山みき」が公式表記とされます。天理教では、「教祖」と書いて「おやさま」と呼称しています。 教団は拡大していきますが、国家神道と相容れない天理教も戦前は官憲からの弾圧を受けました。神具の没収に続いて信仰差し止めの誓約書の署名を強いられます。この中でもみきは天命を貫き通し、1875年(明治8年)には奈良県庁より呼び出しがあり、秀司らとともに留置されます。そして明治15年には「かんろだい石」の没収、および『みかぐらうた』の一部改変が断行されます。その後もみきだけではなく、信者や家族も度々留置、拘留を受け、1886年(明治19年)には「最後の御苦労」と呼ばれるみき最後の12日間の拘留を受けました。こうした動きを止めようと眞之亮らをはじめ、古参信者らが教会設置公認運動を展開する中、みきは逝去したのです。その後、天理教は「神道直轄天理教会」として東京府より認可を受け『みかぐらうた』・『おふでさき』・『泥海古記』は天理教の根本の教義・教典となり、没後も本席・飯降伊蔵の下、『おさしづ』に基づき天理教として布教が行われました。また教祖年祭として、没後翌年に教祖1年祭を開催(最終的に中止)、5年祭、10年祭と続き、以後10年ごとに執行され、2016年1月には教祖130年祭が執り行れました。1934年(昭和10年)からはみきの誕生を記念して教祖誕生祭が毎年、4月18日に開催されています。1956年(昭和31年)3月8日から、午後2時のサイレンがはじまり、現在に至っています。私が関西にいた昭和40年代前半には、天理市を補講している人の多くが天理教の法被をまとっていました。今はどうか知りませんが。
1891年、公卿、政治家の三条実美がインフルエンザ罹患により53歳で死去。幕末には尊王攘夷・討幕派の中心的な人物であり、明治維新後は元勲の一人として右大臣、太政大臣、内大臣、貴族院議員などを歴任しました。また内閣総理大臣を一時兼任しています。
1901年、経営者の早矢仕有的(はやし ゆうてき)が63歳で死去。丸善、横浜正金銀行の創業者として知られます。明治維新後の明治元年(1868年)に横浜黴毒病院の医師となり、数ヵ月後の11月10日(12月23日)に書店丸屋を開業しますが、当時は仮店舗程度であり、明治2年1月1日(1869年2月11日)付けで「丸屋商社之記」を制定し、正式に横浜新浜町(現・尾上町)に書店丸屋(丸屋善八)を開業しました。創業当初は専ら洋書及び薬品医療器の輸入販売を目標として掲げ、同年には早くも手狭になり、相生町に「玉屋薬局」を書店と併設して移転し、明治4年(1871年)には境町(現・日本大通り近辺)に移転します。丸屋商社は元金社中(出資者)と働社中(従業員)の両者によって構成される近代的会社組織でした。明治13年(1880年)3月、株式会社となり、有限責任丸屋商社とし、明治8年(1875年)の早矢仕有的の東京移転後、事実上の本店になっていた東京支店を正式に本店としたときには、会社定款で書籍、薬品、舶来雑貨の三科を本業とし、裁縫、家具製造の二科を余業としていました。輸入書籍や文具を取り扱う大型書店として発展させる一方、明治12年(1879年)、丸家銀行を創設し金融にも進出。同年の横浜正金銀行の創立願書には、総代中村道太と共に発起人の一人として名を連ねました。丸家銀行は書店業から顧客の信頼を得、産業振興をめざす山形県の有力者などから資本や預金を獲得しましたが、明治17年(1884年)に松方デフレの影響と近藤孝行頭取の乱脈経営によって経営が破綻し、早矢仕は再建を目指して丸善社長を辞して銀行頭取に就任しますが、結局、再建できず責任を取り退陣しました。その後、丸善は文房具、書籍販売の本業に経営の力点を焦点化することで経営を再建しました。先に述べた横浜正金銀行のみならず、慶應義塾門下生が設立した日本最初の生命保険会社である明治生命保険会社設立にも関与し、明治4年(1871年)「細流会社」(保険、積立預金)、9年(1876年)「自力社会」(法律業務を行う共済組織)、13年(1880年)「貿易商会」の設立に関わりました。それまで日本に存在しなかった組織を次々と生み出していきました。明治12年(1879年)から13年(1880年)にかけて神奈川県の県議会議員を務め、明治14年(1881年)の横浜生糸荷預所の設立出願にも加わり、横浜商人の名士の一人でもありました。やがて隠居生活に入りますが、それでも丸善には顔を出し続け、囲碁を打ったり、お茶を飲んだりしていたそうです。
1902年、宝石商、ティファニーを創立したチャールズ・ルイス・ティファニーが90歳で亡くなっています。
1939年、小説家、歌人、仏教研究家の岡本かの子は脳溢血で倒れていたのですが、東京帝国大学附属病院小石川分院で死去。49歳没。16歳の頃、「女子文壇」や「読売新聞文芸欄」などに和歌を投稿し始めます。この頃谷崎潤一郎と親交のあった兄の大貫晶川の文学活動がはじまり、谷崎ら文人が大貫家に出入りするようになり影響を受けますが、谷崎は終生かの子を評価しませんでした。17歳の頃、与謝野晶子を訪ね「新詩社」の同人となり、「明星」や「スバル」から大貫可能子の名前で新体詩や和歌を発表するようになります。漫画家の岡本一平と結婚後、長女を出産しますが神経衰弱に陥り、精神科に入院することになります。その後親鸞の『歎異抄』によって生きる方向を暗示され、仏教に関するエッセイを発表するようになり、仏教研究家としても知られるようになりました。小説家として実質的にデビューをしたのは晩年でしたが、生前の精力的な執筆活動から、死後多くの遺作が発表されました。耽美妖艶の作風を特徴とします。私生活では、夫一平と「奇妙な夫婦生活」を送ったことで知られます。芸術家の岡本太郎は子。
1967年、アメリカの理論物理学者、ロバート・オッペンハイマーが咽頭がんの診断を受け、手術を受けた後、放射線療法と化学療法を続けるも、ニュージャージー州プリンストンの自宅にて62歳で死去。1930年代末には宇宙物理学の領域で、中性子星や今日でいうブラックホールを巡る極めて先駆的な研究を行っていましたが、第二次世界大戦が勃発すると、1942年には原子爆弾開発を目指すマンハッタン計画が開始されます。オッペンハイマーは1943年ロスアラモス国立研究所の初代所長に任命され、原爆製造研究チームを主導しました。彼らのグループは世界で最初の原爆を開発し、ニューメキシコでの核実験(『トリニティ実験』と呼ばれている)の後、大日本帝国の広島市・長崎市に投下されることになりました。弟のフランクが、後日ドキュメンタリー映画『The day after Trinity』の中で語ったところでは、世界に使うことのできない兵器を見せて戦争を無意味にしようと考えていたそうですが、人々が新兵器の破壊力を目の当たりにしてもそれを今までの通常兵器と同じように扱ってしまったと、絶望していたそうです。 また、戦後原爆の使用に関して「科学者(物理学者)は罪を知った」との言葉を残しています。
1983年、脚本家の和田夏十(わだ なっと)が18年間の乳癌との闘病の末に死去。62歳没。本名は市川 由美子(いちかわ ゆみこ)、旧姓は茂木(もぎ)。戦後間もなく東宝撮影所で通訳をしていた頃、脚本の校正をしたのがきっかけで市川崑と知り合いました。市川は文才とアイディアに満ちあふれる茂木を愛し、二人は1948年に結婚。茂木は以後35年にわたって市川の生活を支えるかたわら、脚本家・和田夏十としてその生涯でほとんどの市川作品の脚本を手がけるという、文字通り公私における市川のパートナーでした。『木枯し紋次郎』の主題歌、『だれかが風の中で』の作詞も手掛けています。
1998年、歌舞伎役者の3代目河原崎権十郎が急性心不全により80歳で死去。この人の誕生日は2月11日なので、そちらをご覧ください。ただ、渋谷の東横劇場で数々の大役をこなし、「渋谷の海老様」と呼ばれたことや、生涯で記録的な代役を務めたことだけは書き記しておきます。役者らしい顔立ちでした。

今日の忌日もここまでです。

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コメント

  • mixiユーザー

    mixiユーザー2020年02月18日 07:42
    おはようございます(*^^*)今日もよろしくお願いします(*´∇`)ノど〜こかで〜だ〜れかが〜
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2020年02月18日 07:59
    > mixiユーザー お早うございます。上條恒彦ですね。レコード、持っていました。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2020年02月18日 11:15
    > mixiユーザー レコードまでは持ってなかったですけど、よく聴きましたよ(^_^;)
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2020年02月18日 14:02
    > mixiユーザー 続いて作られた中村敦夫主演の『市川崑シリーズ・追跡』の主題歌、「昨日はもう過ぎ去って」 も上條恒彦が、歌っていました。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2020年02月18日 14:20
    > mixiユーザー へぇ〜( ・д・)それは知らなかったです
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2020年02月18日 15:41
    > mixiユーザー 当時は上條恒彦が好きだったので、このレコードも持っていました。

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