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2020年02月18日00:04

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2月18日が誕生日である人々

紀元前259年、古代中国の戦国時代の秦の第31代王、初代皇帝の始皇帝が生まれました。名は嬴政または趙政。秦王として即位したのち、紀元前221年に中国史上初の全国統一を成し遂げ、初めて「皇帝」と名乗りました。統一後は、重臣の李斯らとともに主要経済活動や政治改革を実行しました。従来の配下の一族等に領地を与えて領主が世襲して統治する封建制から、中央政権が任命・派遣する官僚が治める郡県制への全国的な転換(中央集権・官僚統治制度)を行い、国家単位での貨幣や計量単位の統一、道路整備・交通規則の制定などを行いました。万里の長城の建設や、等身大の兵馬俑で知られる秦始皇帝陵の建設などの後世に残ることになった大事業も行いました。法(法家)による統治を敷き、批判する儒者や書物の弾圧を行った焚書坑儒でも知られます。「始」は「最初(一番目)」の意味です。始皇帝の後継者はその称号を一部受け継ぎ、世代が下がるごとに「二世皇帝」「三世皇帝」という称号を受ける予定にしていました。「皇帝」は、神話的な三皇五帝より二つの漢字を抜き取って作られたもの。始皇帝は中国全土を巡遊していましたが、平原津という土地で病気になりました。症状は段々と深刻になり、ついに蒙恬の監察役として北方にとどまっている長子の扶蘇に「咸陽に戻って葬儀を主催せよ」との遺詔を作成し、信頼を置く宦官の趙高に託しました。紀元前210年7月、始皇帝は沙丘の平台(現在の河北省邢台市広宗県)にて崩御。伝説によると、彼は宮殿の学者や医師らが処方した不死の効果を期待する水銀入りの薬を服用していたということです。こには、始皇帝が黄帝の尊厳や名声にあやかろうとした意思が働いています。漢時代に成立した『史記』「呂不韋列伝」には、政は異人の実子ではなかったという部分があります。韓の裕福な商人、呂不韋が趙姫を異人に与えた際にはすでに妊娠していたというのです。始皇帝の死から2か月後、咸陽に戻った20歳の胡亥が即位し二世皇帝となり(紀元前210年)、始皇帝の遺体は驪山の陵に葬られました。そして趙高が権勢をつかんだのです。蒙恬や蒙毅をはじめ、気骨ある人物はことごとく排除され、陳勝・呉広の乱を皮切りに各地で始まった反秦の反乱さえ趙高は自らへの権力集中に使いました。そして李斯さえ陥れて処刑させました。しかし反乱に何ら手を打てず、二世皇帝3年(前207年)には反秦の反乱の一つの勢力である劉邦率いる軍に武関を破られます。ここに至り、二世皇帝は言い逃ればかりの趙高を叱責しましたが、逆に兵を仕向けられ自殺に追い込まれました。趙高は二世皇帝の兄とも兄の子とも伝わる子嬰を次代に擁立しようとしましたが、彼によって刺し殺されました。翌年、子嬰は皇帝ではなく秦王に即位しましたが、わずか46日後に劉邦に降伏し、項羽に殺害されました。
1530年(享禄3年1月21日)、越後國の戦国大名、上杉謙信が生まれました。関東管領(1561年 - 1578年)。山内上杉家16代当主。戦国時代でも屈指の戦上手とされ、その神懸った戦績から後世、軍神や、「越後の龍」などと称されました。越後守護・上杉家に仕える越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の四男として生まれ、初名は長尾景虎(ながお かげとら)。1561年(景虎31歳)、関東管領・上杉憲政の養子となり山内上杉氏の家督を譲られ(「上杉」姓と憲政の「政」の1字を与えられ)上杉政虎(うえすぎ まさとら)と改名し、上杉氏が世襲していた室町幕府の重職関東管領を引き継ぎました。後に室町幕府の将軍・足利義輝より偏諱(「輝」の1字)を受けて、最終的には輝虎と名乗りました。謙信は、さらに後に称した法号です。内乱続きであった越後国を統一し、戦や政だけではなく、産業を振興して国を繁栄させました。他国から救援を要請されると秩序回復のために幾度となく出兵し、武田信玄、北条氏康、織田信長、越中一向一揆、蘆名盛氏、能登畠山氏、佐野昌綱、小田氏治、神保長職、椎名康胤らと合戦を繰り広げました。特に宿敵武田信玄との5回にわたる川中島の戦いはよく知られています。さらに足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から北陸路を西進して越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大しましたが、天正6年3月13日(1578年4月19日)、48歳で死去しました。兜は、飯綱明神前立鉄錆地張兜。謙信には実子がおらず、謙信の死後、上杉家の家督の後継をめぐって御館の乱が勃発しました。謙信は、他国から救援を要請されると出兵し、「依怙(えこ)によって弓矢は取らぬ。ただ筋目をもって何方(いずかた)へも合力す」(私利私欲で合戦はしない。ただ、道理をもって誰にでも力を貸す)『白河風土記』と述べています。また、謙信が敵将武田信玄に塩を送った逸話から、「敵に塩を送る」という故事も生まれました。
1848年、アメリカの金細工師、宝飾デザイナー、ガラス工芸家、アート・ディレクターのルイス・C.ティファニー(Louis Comfort Tiffany)が生まれました。アメリカにおけるアール・ヌーヴォーの第一人者として知られ、主にステンドグラスやモザイク加工のガラスランプの製作などにおける芸術家として名を馳せています。ティファニー社創業者、チャールズ・ルイス・ティファニーの息子。1933年1月17日、ニューヨークにて死去。
1852年(嘉永4年)、彫刻家、仏師の高村光雲が生まれました。代表作は木彫の老猿(東京国立博物館蔵)。国の重要文化財に指定。西郷隆盛像(上野恩賜公園)。傍らの犬は後藤貞行の作。楠公像(皇居前広場) 。山霊訶護(宮内庁蔵)など。1934年(昭和9年)10月10日、満82歳で死去。高村光太郎は長男、高村豊周は三男。写真家の高村規(ただし)は孫(豊周の息子)。
1853年、アメリカの東洋美術史研究者、哲学者のアーネスト・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa)が生まれました。明治時代に来日したお雇い外国人。日本美術を評価し、紹介に努めたことで知られます。先に来日していた動物学者エドワード・シルヴェスター・モースの紹介で1878年(明治11年、当時25歳)に来日し、東京大学で哲学、政治学、理財学(経済学)などを講じました。フェノロサの講義を受けた者には岡倉天心、嘉納治五郎、井上哲次郎、高田早苗、坪内逍遥、清沢満之らがいます。来日後は日本美術に深い関心を寄せ、助手の岡倉天心とともに古寺の美術品を訪ね、天心とともに東京美術学校(現在の東京芸術大学)の設立に尽力しました。1890年に帰国し、ボストン美術館東洋部長として、日本美術の紹介を行った。その後、1896年、1898年、1901年にも来日しました。1908年9月21日、ロンドンの大英博物館で調査をしているときに心臓発作で逝去。英国国教会の手でハイゲート墓地に埋葬されましたが、フェノロサの遺志により、火葬ののち分骨されて日本に送られ、大津の法明院に改めて葬られました。
1898年、イタリアの経営者、エンツォ・フェラーリ(Enzo Anselmo Ferrari)が生まれました。イタリアの自動車メーカーフェラーリの創設者。F1の名門スクーデリア・フェラーリのオーナーでもありました。愛称はコメンダトーレ(イタリア共和国功労勲章の勲三等位の名称)。モータースポーツ界の偉人としてオールドマンとも称されます。腎不全により、1988年8月14日、90歳で没。
1911年、俳優の加東大介が生まれました。歌舞伎役者を経て映画デビュー。代表作は『七人の侍』、『大番』、『南の島に雪が降る』。持ち前の明るさや誠実さで多くの監督から可愛がられ、黒澤や成瀬の他にも小津安二郎などの作品にも常連俳優として出演し、この時期は監督運にも恵まれる。また1956年に東宝がダイヤモンド・シリーズと銘打った文芸映画『鬼火』で主演したことがきっかけで、監督の千葉泰樹に獅子文六の連載小説『大番』の主人公・株屋のギューちゃん役に抜擢され、加東はユーモラスでエネルギッシュな男を演じ、映画は大ヒット。大番シリーズは4本も作られ、ギューちゃんのあだ名はそのまま加東自身の代名詞となるまでになりました。また森繁久彌、小林桂樹と共演した『社長シリーズ』でも軽妙な重役を演じるなど、日本映画にかかせない名脇役として人気を博しました。1975年2月に結腸癌で入院、本人は癌であることは知らず、病院からレギュラー出演であるドラマの収録現場に通い続けましたが、入院してから5ヵ月後の7月31日に64歳で死去しました。 兄は沢村国太郎、姉は沢村貞子、甥には長門裕之、津川雅彦の役者一家。息子・加藤晴之は、黒澤明の娘・黒澤和子と結婚して孫・加藤隆之(俳優)が産まれるが離婚。
1911年、右翼運動家の児玉誉士夫が生まれました。自称CIAエージェント。暴力団・錦政会顧問。戦争中、海軍航空本部のために物資調達を行い、終戦時までに蓄えた物資を占領期に売りさばいて莫大な利益を得ました。この豊富な資金を使って、戦後分裂状態にあった右翼を糾合し、鳩山一郎など大物政治家に政治資金を提供しました。「政財界の黒幕」、「フィクサー」と呼ばれました。日韓国交正常化交渉に関与しました。1960年、生前葬を行いました。河野一郎や大野伴睦といった大物政治家が児玉のための葬儀に集まり、焼香しました。実際には1984年1月17日、72歳で没。児玉は1958年(昭和33年)からロッキード社の秘密代理人となり、日本政府に同社のF-104“スターファイター”戦闘機を選定させる工作をしていました。児玉が働きかけた政府側の人間は自民党の大野伴睦、河野一郎、岸信介らでした。1960年代末の契約が更新され、韓国も含まれるようになりました。児玉は親しい仲にあった韓国の朴政権にロッキード社のジェット戦闘機を選定するよう働きかけていたのです。韓国に対する影響力の大きさが窺えます。やがて児玉は小佐野賢治に頼るようになりました。小佐野は日本航空や全日本空輸の大株主でもあり、ロッキード社製のジェット旅客機の売り込みでも影響力を発揮しましたが、すでに日本航空はマクドネル・ダグラス社製のDC-10型機の購入を決定していたこともあり、その矛先を全日空に向けたのです。この頃深い関係を作り上げていた田中角栄が1972年(昭和47年)に首相になると児玉の工作は功を奏し、その後全日空は同機種を21機購入し、この結果ロッキード社の日本での売上は拡大しました。さらに全日空は、ロッキードから得た資金を自社の権益の拡大を図るべく航空族議員や運輸官僚への賄賂として使い、その後このことはロッキード事件に付随する全日空ルートとして追及されることとなりました。ロッキード社社長のアーチボルド・コーチャンが「児玉の役割はP-3C導入を政府関係者に働きかけることだった。児玉は次の大臣に誰がなりそうか教えてくれた。日本では大臣はすぐに代わるから特定の大臣と仲良くなっても無駄である。彼は私の国務省だった。」と調書で語っています。ロッキード裁判で児玉は脱税と外為法違反で在宅起訴され、裁判に臨むことになりました。1977年(昭和52年)6月に一度公判に出廷した後は病気と称して自宅を離れませんでした。元総理の田中角栄は収賄容疑で逮捕され、1983年(昭和58年)10月に有罪判決が出されました。児玉は死期が近づいた時、「自分はCIAの対日工作員であった」と告白しています。72歳の児玉は判決が出る直前の1984年(昭和59年)1月17日に再び発作を起こして没し、裁判は打ち切りとなりました。かつて存在していた日本プロレスの業界組織、「日本プロレス協会」の会長でもありました。
1924年、シャンソン歌手、舞台女優の越路吹雪が生まれました。愛称は「コーちゃん」「コッシー」(旧姓から)。 宝塚歌劇団男役トップスターとして戦中から戦後にかけて活躍。宝塚歌劇団27期生。同期生に月丘夢路、乙羽信子、東郷晴子、大路三千緒らがいます。1951年(昭和26年)の宝塚退団後は、1968年にフリーになるまで17年間東宝の専属スター女優として主にミュージカルで活躍したほか、歌手としてシャンソンや映画音楽を多くカヴァーしました。特にシャンソンにおいては、作詞家・翻訳家の岩谷時子とともに数多くの曲を日本に紹介し、「(日本の)シャンソンの女王」と称されました(同じ女性シャンソン歌手の岸洋子は「聴かせる歌手」、越路は「魅せる歌手」と評価され、人気を分け合いました)。越路の「愛の讃歌」との出会いには、作曲家の黛敏郎が一役買っていました。黛がパリのコンセルヴァトワールに留学している時に、「とてもいい歌だから、ぜひ歌ったら」とパリから越路に譜面を送ってきたのだということです(黛の留学期間は1951年(昭和26年)〜1952年(昭和27年)です)。その後実際に越路が歌ったのは1952年(昭和27年)9月の日劇のショー「巴里の歌」においてでした。二葉あき子の代役でショーに出演することになった越路に「愛の讃歌」を勧めたのは、奇しくも当ショーの音楽監督を務めていた黛でした。期日の迫る中で、戦後日本を代表する作曲家でありフランス語に長けた黛の弾くピアノと黛による歌詞の訳を聞きながら、岩谷は「愛の讃歌」の日本語詞を完成させたのでした。これが岩谷の最初の訳詞でもありました。喫煙者であったことでも知られます。独身時代、三島由紀夫の恋人だったことがあります。1980年(昭和55年)3月に越路は、ライフワークであった恒例の日生劇場でのロングリサイタル(越路の急逝により越路最後のリサイタルとなります)を終えると、新境地開拓として芝居に挑戦しました。演目は「古風なコメディ」、劇団民藝の重鎮宇野重吉の演出で、越路と米倉斉加年の二人だけの芝居でした。公演中より越路は胃の不調を訴えていたようであり、西武劇場(現:PARCO)にて胃の激しい痛みを堪えつつ舞台を務めるも、公演終了直後に緊急入院。「重度の胃潰瘍」との診断を受け、7月8日に東京都目黒区の東京共済病院で、胃の5分の4を切除する大手術を受けました。術後の復帰を目指してリハビリに励み、その後も入退院を3回繰り返すものの、11月7日午後3時2分に死去しました。56歳没。実は本当の病名は胃潰瘍ではなく「末期の胃癌」で、腹膜にも多数の癌が転移していましたが、当時本人には告知されませんでした。
1924年、歴史小説家の陳舜臣が生まれました。代表作に『阿片戦争』『太平天国』『秘本三国志』『小説十八史略』など。『ルバイヤート』の翻訳でも知られます。神戸市出身。本籍は台湾台北でしたが、1973年に中華人民共和国の国籍を取得し、その後、1989年の天安門事件への批判を機に、1990年に日本国籍を取得しています。1961年に神戸が舞台の長編推理小説「枯草の根」で江戸川乱歩賞を受賞後、作家生活に入ります。『宝石』『講談倶楽部』『小説中央公論』などで作品を発表。初期の作品はミステリーが多く、江戸川乱歩賞、直木賞、日本推理作家協会賞を受賞。1967年『阿片戦争』などから中国の歴史を題材にした作品を多く書き、日本における「中国歴史小説」ジャンルを確立し、多くの読者を持っています。 陳舜臣アジア文藝館が2014年に神戸市中央区に開館 。2015年1月21日午前5時46分、老衰のため、神戸市内の病院で死去。90歳没。
1930年、劇団前進座の歌舞伎役者、俳優の4代目中村梅之助が出生。時代劇俳優としても広く活躍、『遠山の金さん捕物帳』、『伝七捕物帳』、大河ドラマ『花神』などの主演作品があります。生前は劇団前進座代表。同座を創設した三代目中村翫右衛門は父、母は落語家の二代目談洲楼燕枝の娘。かつて同座の俳優だった二代目中村梅雀は長男。『真田太平記』では家康を梅之助、秀忠を梅雀と役の上でも親子役を演じ話題になりました。2016年1月18日、肺炎のため死去。85歳没。2015年5月の前進座国立劇場公演、『人情噺文七元結』の家主甚八役で出演したのが最後の舞台となりました。
1933年、前衛芸術家と称するオノ・ヨーコ(小野洋子)が生まれました。まだジョン・レノンと結婚する前、日本で活動していた時期の録音を聴いたことがありますが、しわがれ声で「カカカカカ」と唸るだけの芸は私の理解の範疇ではありませんでした。ジョン・レノンと共に平和活動、音楽、創作活動を行ったことでも知られています。当時、激化するベトナム戦争に反対して、『ベッド・イン』や『ウォー・イズ・オーヴァー』ポスター・キャンペーンなどの独自の「愛と平和」活動を展開しました。「ビートルズを解散させた女」として非難されました。結婚前後の二人の活動は、奇妙な立ち居振る舞いと映り、数多くの非難と中傷がオノに対して浴びせられました。
1940年、俳優、作家、脚本家、ニュースキャスター、政治家の中村敦夫が生まれました。1972年(昭和47年)に市川崑監修のテレビ時代劇『木枯し紋次郎』で主役の渡世人・紋次郎役に抜擢(ばってき)されます。それまでも、準主役級の二枚目俳優として活躍していましたが、同作品の大ヒットにより一躍人気を獲得しました。しかし人気とははかないもので、裏番組の『必殺!』シリーズの人気に押され、中村もこのシリーズにレギュラーとして2度出演することになりました。1984年(昭和59年)から3年半にわたり、毎日放送製作・TBS系列で放送されたドキュメンタリー『中村敦夫の地球発22時』(のち『〜23時』、中村の降板後は『地球発19時』とそれぞれ改題)の司会を務めました。その後1989年(平成元年)10月1日から1992年(平成4年)9月27日までは日本テレビの情報番組『中村敦夫のザ・サンデー』などで司会を務めていました。この間はジャーナリスト活動に専念し、俳優活動からは一切身を引きました。作家としても「チェンマイの首」を発表しています。『ザ・サンデー』を降板し、1993年に映画『帰ってきた木枯し紋次郎』で俳優復帰(以後は俳優活動と政治活動を平行して行います)。 1995年(平成7年)の参議院選挙でさきがけ公認生活者ネット推薦で出馬しましたが落選。1998年(平成10年)7月に同選挙さきがけの推薦及び市民の党の応援を受ける無所属候補として立候補し、東京都選挙区から初当選、政治家となりました。同年10月に「環境主義・平和外交・行政革命」の3つを基本理念とした民権政党「国民会議」を1人で旗揚げします。2000年(平成12年)7月に「さきがけ」代表就任、同年8月議員連盟「公共事業チェック議員の会」会長就任、静岡空港建設反対運動などに取り組みました。2002年1月さきがけと国民会議が合流し、院内会派「さきがけ環境会議」を経て、党名をさきがけから「みどりの会議」に変更しました。政治家を辞してからは、小休止状態だった俳優に再び復帰。2008年(平成20年)にフジテレビドラマ『CHANGE』では与党・日本政友党幹事長・小野田朝雄を演じて、2009年(平成21年)にはサントリー「BOSS食後の余韻」のシリーズCMで政財界の大物を演じるなど、自身の経歴を重ねたような役柄を演じることが多くなっています。いっぽう評論活動も続けており、2007年(平成19年)から2009年(平成21年)まで同志社大学で行った、「環境社会学」の講義録を再編した『簡素なる国』を2011年(平成23年)に出版。その中で「みどりの政治思想」などについて言及して、近代経済学に代わる新しい哲学の必要性を主張しました。小説の代表作は『チェンマイの首 愛は死の匂い』(1983年)、『ジャカルタの目』(1985年)、『マニラの鼻』(1989年)など。
1947年、歌手の奥村チヨが生まれました。夙川学院高等学校在学中に知人が応募したオーディションに合格し、1回限りで小野薬品のドリンク剤「リキ・ホルモ」のCMソング「昨日、今日、明日」を歌い好評を得て、卒業後の1965年に東芝レコードから「あなたがいなくても / 私を愛して」でデビュー。和製シルヴィ・ヴァルタンとして売り出され、蠱惑的な魅力と甘えた雰囲気の歌唱で耳目を集めます。黛ジュン、小川知子と「東芝3人娘」と称し、「ごめんネ…ジロー」(1965年)、「北国の青い空」(1967年)などをヒットさせました。1969年 - 1970年に発表して51万枚を販売した「恋の奴隷」を初めに「恋狂い」と「恋泥棒」の「恋3部作」が広く高評を得て、人気歌手の地位を確立。コケティッシュな雰囲気がいっそう官能的になり初めてNHK紅白歌合戦に出演しますが、「恋の奴隷」の歌詞の一部がNHKの内部規則に抵触することを回避するために「恋泥棒」を歌いました。1971年12月25日に発売の、自身のイメージを脱却した「終着駅」も販売枚数が40万枚と好評を得ました。本人の歌手引退も辞さない強い希望から実現した曲で、作曲した浜圭介も作曲家として返り咲きました。2018年1月6日、2018年いっぱいで芸能活動から引退することが発表され、12月31日で引退しました。
1954年、アメリカの俳優、歌手、ダンサーのジョン・トラボルタが生まれました。世界的に大ヒットし若者文化に大きな影響を与えた『サタデー・ナイト・フィーバー』や『グリース』などの出演により、70年代に一世を風靡しました。2010年以降は、おもにアクション映画やスリラー映画に主演し、2018年には犯罪映画『ギャング・イン・ニューヨーク』で、主人公のマフィアのボス・ジョン・ゴッティを演じました。
1958年、タレントの松原千明が出生。時代劇俳優の原健策を父に、宝塚歌劇団卒業生の乙女松子を母に持ち、ファッションモデルのすみれは長女にあたります。1980年、カネボウ化粧品のキャンペーンガール「カネボウレディ'80」応募者25700人から選ばれブレイク。副賞の一部として掲げられた「東宝映画への出演」は『地震列島』の女性カメラマン役でした。以後はテレビドラマを中心に活動し、ラジオ番組のパーソナリティも担当。1988年からは、朝日放送のテレビ番組『探偵!ナイトスクープ』で初代秘書役を1年間務めました。ナイトスクープの仕事を開始した年、当時トレンディドラマを中心に活躍していた俳優の石田純一と結婚、その後、松原は芸能活動を縮小し1990年に娘(後のすみれ)を1人もうけましたが1999年に離婚しました。石田の浮気などが原因で後に娘とともにハワイへ移住しました。離婚直後は一時芸能活動を再開し、同年6月にはエッセイ『リ・ボーン―ハワイの光のなかで』を出版するなどしましたが、娘の英語の家庭教師だったハワイ在住の白人男性との再婚・妊娠をきっかけに再び芸能活動を休止、2000年に息子を1人出産し2児の母となりました。2006年には松原の娘がすみれとしてモデル活動を開始し、また松原も毎日放送『知っとこ!』2006年9月23日放送分へのゲスト出演を機に徐々に芸能活動を再開しています。再婚相手の白人男性とはその後、男性が経済面で松原のもとを頼り始めたことや互いの性格の不一致などを理由に2008年暮れから離婚協議を進め、2009年に正式に離婚を表明しました。
1975年、お笑い芸人のねづっちが生まれました。かつてはお笑いコンビの「Wコロン(ダブルコロン)」でボケ役を担当していましたが、2015年に解散。「整いました!」と当意即妙に答えるなぞかけは見事です。

次は忌日。
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