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2020年01月25日04:36

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1月25日が誕生日である人々

1736年、フランスの数学者、ジョゼフ=ルイ・ラグランジュが生まれました。彼の初期の業績は、微分積分学の物理学、特に力学への応用です。その後さらに力学を一般化して、最小作用の原理に基づく、解析力学(ラグランジュ力学)をつくり出しました。ラグランジュの『解析力学』はラプラスの『天体力学』と共に18世紀末の古典的著作となりました。数論に関する業績もあります。全ての自然数が高々四つの平方数の和によって表されるという定理はラグランジュの四平方定理と呼ばれます(1770年)。また、ウィルソンの定理の証明のうちの一つを発見しました(1773年)。さらに彼は、五次以上の方程式がベキ根によっては解けないことについても研究し、根の置換など群論の先駆けとなるような研究も行っています。この問題は後にアーベルによって証明されました。1813年4月10日、77歳でパリにて没。
1858年(安政5年)、実業家の御木本幸吉が生まれています。真珠の養殖とそのブランド化などで富を成した人物。御木本真珠店(現・ミキモト)創業者。ミキモト・パール、真珠王とも呼ばれました。1954年(昭和29年)9月21日、幸吉は老衰のため96歳で死去。持病は胆石があったようで、看病の為に住み込みで身の回りの世話をした女医の話によると「真珠王と言われる方が、あまりにも質素な食事をしておられた事」に驚いたし待遇もしかりという次第であったようです。
1863年(文久3年)、ジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家の徳富蘇峰が生まれました。蘇峰は号で、本名は猪一郎(いいちろう)。『國民新聞』を主宰し、大著『近世日本国民史』を著したことで知られます。蘇峰のいう「平民主義」は、「武備ノ機関」に対して「生産ノ機関」を重視し、生産機関を中心とする自由な生活社会・経済生活を基盤としながら、個人に固有な人権の尊重と平等主義が横溢する社会の実現をめざすという、「腕力世界」に対する批判と生産力の強調を含むものでした。これは、当時の藩閥政府のみならず民権論者のなかにしばしばみられた国権主義や軍備拡張主義に対しても批判を加えるものであり、自由主義、平等主義、平和主義を特徴としていました。蘇峰の論は、1885年(明治18年)に自費出版した『第十九世紀日本の青年及其教育』(のちに『新日本之青年』と解題して刊行)、翌1886年(明治19年)に刊行された『将来之日本』に展開されましたが、いずれも大江義塾時代の研鑽によるものです。彼の論は、富国強兵、鹿鳴館、徴兵制、国会開設に沸きたっていた当時の日本に警鐘を鳴らすものとして注目されました。戦前の日本における最大のオピニオンリーダーであった蘇峰は、終戦後にA級戦犯容疑をかけられましたが、老齢と三叉神経痛のためにGHQにより自宅拘禁とされ、後に不起訴処分が下されました。公職追放処分を受けたため、1946年(昭和21年)2月23日に貴族院勅選議員などの公職を辞して静岡県熱海市に蟄居しました。1957年(昭和32年)11月2日、熱海の晩晴草堂で死去。享年95(満94歳没)。小説家の徳富蘆花は弟。
1874年、イギリスの小説家、劇作家のサマセット・モームが生まれました。1919年に『月と六ペンス』で注目され、人気作家となりました。日本の作家の北杜夫は「最後の一節がなければ純文学でありえただろう」と厳しい評価を下しています。平明な文体と物語り展開の妙で、最良の意味での通俗作家として名を成しました。作品に『人間の絆』『お菓子とビール』や短編「雨」「赤毛」、戯曲「おえら方」など。ロシア革命時は、イギリス情報局秘密情報部に所属した情報工作員でした。同性愛者としても知られています。1965年12月16日に91歳で没。
1900年、作家の石坂洋次郎が生まれました。戸籍のうえでは7月25日生まれになっていますが、実際は1月25日生まれ。戦後は『青い山脈』を『朝日新聞』に連載。映画化され大ブームとなり、「百万人の作家」といわれるほどの流行作家となり、多くの作品が映画・ドラマ化されました。1966年、「健全な常識に立ち明快な作品を書きつづけた功績」が評価されて第14回菊池寛賞を受けます。しかし石坂自身は「健全な作家」というレッテルに反撥し、受賞パーティの席上で「私は私の作品が健全で常識的であるという理由で、今回の受賞に与ったのであるが、見た目に美しいバラの花も暗いじめじめした地中に根を匍わせているように、私の作品の地盤も案外陰湿なところにありそうだ、ということである。きれいな乾いたサラサラした砂地ではどんな花も育たない」と語りました。還暦を超えてなお人気作を量産していましたが、1971年にうら夫人が亡くなったことがきっかけで執筆意欲を失いだし、当時連載していた作品を最後に執筆活動から遠ざかり、以後は自身の旧作の改訂や回顧録、随筆などを時折記す悠々自適の生活に入ります。1976年に朝日新聞へ隔週連載された「老いらくの記」は往年の読者を中心に反響を呼び、健在ぶりを示します。翌1977年には戦中に執筆しながら連載途中で中絶していたフィリピン従軍記「マヨンの煙」に未発表原稿を加え、綿密な校訂を経て出版。30余年ぶりに陽の目を浴びせました。1978年頃から認知症の症状が徐々に出始め、1980年ごろには徘徊や親族の顔の認識すら出来ない状態になっていたそうです。さらには肥満が原因による心臓肥大や高血圧の症状など体調は悪化の一方を辿り、1982年には医師から余命半年の宣告が下ります。それを受けて、せめて僅かな月日を穏やかに過ごさせたいという家族の想いから、長年住み慣れた田園調布の地を離れ、伊東市へ転居。転居費用や生活費は自宅の売却や印税収入で賄い、家族に金銭的な面倒は掛けたくないという健在だった頃の本人の意思は守ることが出来ました。伊東へ移ってからは体調も安定し、時折詩を書くなど、家族の想いをまさに汲んだように穏やかな月日を送ったということです。1986年10月7日に老衰(硬膜下出血)のため伊東市の自宅で死去。86歳没。
1902年、小説家、詩人、評論家、政治家の中野重治が生まれました。代表作に小説『歌のわかれ』『むらぎも』『梨の花』『甲乙丙丁』、評論『斎藤茂吉ノオト』、詩集『中野重治詩集』など。東京帝国大学文学部独文科卒。四高時代に窪川鶴次郎らを知り、短歌や詩や小説を発表するようになります。東大入学後、窪川、堀辰雄らと『驢馬』を創刊、一方でマルクス主義やプロレタリア文学運動に参加し、「ナップ」や「コップ」を結成。この間に多くの作品を発表しました。1931年に日本共産党に入りましたが、検挙され1934年に転向。戦後再び日本共産党に入り、また『新日本文学』の創刊に加わりました。平野謙、荒正人らと「政治と文学論争」を引き起こし、戦後文学を確立させました。1947年から50年まで参議院議員を務めます。 しかし1964年には日本共産党と政治理論で対立をして除名されました。神山茂夫とともに『日本共産党批判』を出版しています。
1979年8月24日に胆嚢がんのため、77歳で没。1933年、大阪貿易学校卒業後2代目旭堂南陵に入門。初名は旭堂南海。1940年春 2代目旭堂小南陵を襲名し、真打昇進。1966年10月、3代目旭堂南陵を襲名。上方講談協会を創設し初代会長に。今では上方の講談界が3っつに分裂しているのは残念なことであります。
1923年、俳優の西村晃が生まれました。日本初のロボットとされる「學天則」を製作した北海道帝国大学教授・西村真琴の次男。後に映画『帝都物語』では父・真琴役を演じました。戦前の学生時代より、新し物好きの父より与えられたローラースケートを始め、日本のローラースケーターのパイオニアの一人として藤山一郎らと並ぶ知名度を既に得ていました。戦後、復員してからは本格的に演劇活動を再開する。1946年に東京芸術劇場の第一期生となる。翌1947年に退団して東京青年劇場を結成。1951年、新協劇団の準劇団員となり、1954年には岡田英次、木村功らと劇団青俳を立ち上げました。新劇俳優として活動する中、1951年に佐分利信監督作『風雪二十年』で映画デビューしてからは、映画やテレビドラマでも活躍。1954年から製作再開した日活と本数契約を結んだのを機に、映画に出演し始めたが、日活プログラムピクチャーの中では悪役や敵役が多かったです。映画では『赤い殺意』での演技が認められ、数々の賞を受賞。また、アニメや洋画の吹き替え等声優としても活躍しました。1980年代に入るとテレビドラマでの活動が目立ち、1983年に『水戸黄門』の第14部より東野英治郎の後任として水戸光圀役を演じます。東野同様に悪役で売ってきた西村は180度転換しどこかとぼけた喜劇的要素を活かしそれまでの代名詞だった月形龍之介や東野に比して若々しいイメージからシティボーイ黄門と呼ばれ、1970年代から1980年代前半の生まれの世代には天下の副将軍に相応しい上品な振る舞いから水戸黄門の代名詞として親しまれお茶の間の人気者となります。だが1992年の第21部放送直後、長年連れ添った則子夫人が亡くなったショックもあり光圀役を降板しました。1995年11月に食道癌の手術を受けこの時は元気に退院しました。1997年3月にスペシャルドラマ『黄落』の収録の時も元気でしたが、同年4月14日夜に自宅で急性心不全を起こし、翌日4月15日午前6時半に死去。74歳没。
1923年、小説家、劇作家の池波正太郎が生まれました。『鬼平犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』『真田太平記』など、戦国・江戸時代を舞台にした時代小説を次々に発表する傍ら、美食家・映画評論家としても著名でした。1990年(平成2年)3月、急性白血病で三井記念病院に緊急入院、5月3日に同病院にて逝去、67歳。連載中の『仕掛人・藤枝梅安 梅安冬時雨』と『鬼平犯科帳 誘拐』は同年4月号分で未完絶筆となりました。TVドラマの「必殺!」シリーズはお気に召さなかったそうです。
1927年、ブラジルの作曲家、アントニオ・カルロス・ジョビンが生まれました。フルネネームはアントニオ・カルロス・ブラジレイロ・ヂ・アウメイダ・ジョビン。20世紀のブラジル音楽を代表する作曲家。1950年代後半、ジョアン・ジルベルト、ヴィニシウス・ヂ・モライスなどとともに、ボサノヴァを創生したと言われています。多くのボサノヴァ歌手がジョビンの作品を演奏し、音楽的ジャンルを超えて広く影響を及ぼしました。
1930年代から活動していたブラジル近代音楽の父と称されるピシンギーニャや作曲家のエイトル・ヴィラ=ロボス(共にショーロの音楽家)の影響を強く受けており、ドビュッシーなどクラシックの音楽家からの影響も大きいとのこと。1994年12月8日に67歳で没。ジョビンが脚光を浴びるようになったのは、作詞家で詩人の(外交官であり、ジャーナリストでもある)ヴィニシウス・ヂ・モライスが制作した舞台『オルフェウ・ダ・コンセイサォン』(1956年、後に映画『黒いオルフェ』として世界的にヒットする)のために制作した音楽によってです。「想いあふれて」の登場以来、ジョアン・ジルベルトをはじめ、多くのボサノヴァ・アーティストが彼の曲をとりあげています。ヂ・モライスと共作し、ジョアン・ジルベルトとスタン・ゲッツの共作アルバム『ゲッツ/ジルベルト』から人気となった代表曲「イパネマの娘」はビートルズの曲に次いで、カヴァーするアーティストが多いといわれています。
1933年、フィリピンの第11代大統領、コラソン・アキノが生まれました。上院議長の夫ベニグノ・アキノ・ジュニア暗殺後、フェルディナンド・マルコス大統領に対抗しました。通称はコリーだったため、コリー・アキノと呼ばれました。1986年2月に行われた繰上げ大統領選挙に出馬し、マルコスもアキノも勝利宣言をします。この時、マルコス陣営の得票不正操作が判明し、フアン・ポンセ・エンリレ国防相やフィデル・ラモス参謀長ら国軍改革派が決起し、結果100万の市民がこれを支持して通りを埋め尽くしたため、マルコスは権力を失い、2月25日にコラソン・アキノが大統領就任を宣言。マルコスはアメリカ軍に一家を北イロコス州へ避難させることを要請し、一家はヘリコプターでマラカニアン宮殿を脱出しますが、意に反してハワイへ飛び、事実上の亡命に追い込まれました。これをエドゥサ革命、またはピープル・パワー革命と呼びます。1992年に任期満了で職を去ります。2008年3月に結腸癌であることを公表し、闘病ののち2009年8月1日に76歳で死去。
1938年、漫画家の松本零士が生まれました。代表作に『銀河鉄道999』など。SF漫画作家として知られるが、少女漫画、戦争もの、動物ものなど様々なジャンルの漫画を描いています。アニメ製作にも積極的に関わり、1970年代半ばから1980年代にかけては松本アニメブームを巻き起こしました。しかし999世代ではない私には、押入れの中がサルマタケだらけになった四畳半モノの『男おいどん』のほうが馴染み深いです。
同じく1938年、これも漫画家の石ノ森章太郎が生まれています。本名は小野寺 章太郎(おのでら しょうたろう)。1984年までは石森 章太郎の表記を用いましたが、この時期には「いしもり-」と呼ばれるのが通例でした。出生地の「石森」は「いしのもり」と読みます。SF漫画、ギャグ漫画から学習漫画まで幅広い分野で作品を量産し、「漫画の王様」、「漫画の帝王」と評されました。代表作は『サイボーグ009』、『佐武と市捕物控』、『009ノ1』、『さるとびエッちゃん』(『おかしなおかしなおかしなあの子』)、『人造人間キカイダー』、『マンガ日本経済入門』、『HOTEL』など。仮面ライダーシリーズを始め、特撮作品の原作者としても活躍しました。個人的には大物になってからの作品よりも、より若い時期のもののほうが、抒情性があふれていたと感じます。「萬画」を標榜するようになってからはまったく受け付けません。 『マンガ日本経済入門』はそれまでの出版部数を塗り替えたとされていますが、それまでの漫画の単行本は雑誌扱いだったためで、それをカウントすると、この作品が刊行部数1位とはならなくなります。1998年(平成10年)1月28日、東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院でリンパ腫による心不全のため死去60歳没。
1939年、イラストレーターの黒田征太郎が出生。音楽に合わせて素手で絵を描いていくライブペインティングやホスピタルアートをライフワークにしています。これらは黒田が太平洋戦争・アメリカ合衆国滞在時の交通事故の体験が基盤になっているのです。また、平和運動も積極的に行なっており「ピカドンプロジェクト」を広島・長崎・沖縄などで開催し、平和に関するイラストを描くなどの活動をしています。「地球上の生命は全て同じ・・・全てが生きる権利をもっている」との発言があります。1971年に行われた岡林信康のコンサートのポスターおよび、その模様を収録したCD『自作自演コンサート狂い咲き』のジャケットのアートワークも手がけています。企画・製作など映画の世界にも深く関わっています。『トラック野郎』にカメオ出演もしています。
1944年、俳優、演出家、劇作家の江守徹が生まれています。本名、加藤 徹夫(かとう てつお)。文学座代表。高校卒業後、19歳で文学座に入ります。映画好きの母の影響で、早くから俳優志望でしたが、当時の東宝などの「ニューフェース」という言葉が嫌で、偶々杉村春子や宇野重吉など、それらと違う新劇俳優の道を知ったのが文学座へ入った理由。風貌と演技力が買われ、次第に頭角をあらわす。以後、テレビや舞台において俳優・演出・台本などをこなす実力派俳優となりました。特に実践から培われたシェイクスピアの演劇論はかなり専門的で、大学での演劇論の出前講座を受け持ったほどです。テレビにおいてはNHKのクイズ番組『連想ゲーム』で珍回答を毎週披露していました。1990年代以降はバラエティ番組への出演も多く、俳優・中尾彬とのコンビは有名。
1949年、歌手、俳優のさとう宗幸が生まれました。トレードマークの髭は、敬愛する歌手ジョルジュ・ムスタキを意識してのものです。1978年(昭和53年)、「青葉城恋唄」でメジャーデビュー。1981年度(昭和56年度)の1年間、「2年B組仙八先生」において、伊達仙八郎役で主演。1987年(昭和62年)、NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」で支倉常長役を務めました。一時、活動の拠点を東京に移していましたが、現在は故郷の仙台に帰っています。
1950年、占星術師、エッセイストのマドモアゼル・愛が生まれています。男性。別にCAYでもありません。本名は伊藤一夫。ニッポン放送「テレフォン人生相談」では、“心についてのエッセイスト”の肩書でアドバイザーを担当しています。完全なる重度の統合失調症患者と思しきリスナーからの人生相談に完璧に対応していたのには感心しました。
現在(2018年1月時点)、東京都世田谷区尾山台のマドモアゼル・愛ショップにて、ソルフェジオ周波数の音階が出る音叉であるMIチューナー、麻でできた服池田山ファッション等の販売、セミナー等の活動を行っています。MIチューナーはニチオン(株式会社ニチオン)との共同開発。
1950年、映画監督の森田芳光が生まれました。1981年に『の・ようなもの』で、長編映画監督デビュー。以降、シリアスなドラマから喜劇、ブラックコメディー、アイドル映画、恋愛映画、ホラー映画、ミステリ映画と幅広いテーマを意欲的に取り扱い、話題作を数多く発表しました。1983年、松田優作主演の『家族ゲーム』を発表。家庭をシニカルに、暴力的に描いた、出色のブラックコメディーでした。1985年に、松田優作主演で、夏目漱石『それから』を映画化しました。再びその年の主要映画賞を独占し、それまでの異色作路線とは異なって格調高い文芸大作であったこともあり、幅の広さを示して映画界での地位をさらにアップさせました。1986年、『それから』から一転、とんねるず主演で広告代理店を描いたコメディーの怪作『そろばんずく』を発表。バブル時代を色濃く描いた作品となりました。 2011年12月20日、C型肝炎による急性肝不全で死去。61歳没。
1960年、女優、タレントの荒木由美子が生まれました。1976年(昭和51年)、『第1回ホリプロタレントスカウトキャラバン』にて、小川順子の「過ち」を歌い審査員特別賞を受賞(グランプリは榊原郁恵)。翌1977年6月10日、キャニオンレコード(現・ポニーキャニオン)からアイドル歌手としてデビュー。デビュー曲は『渚でクロス』(オリコン最高56位、4.4万枚のセールスを記録)。同年デビューの女性歌手で、当時「フレッシュ3人娘」と呼ばれた榊原郁恵・清水由貴子・高田みづえらと共に、各音楽賞の新人賞を獲得しました。他の同期デビュー歌手では大場久美子、香坂みゆき、狩人、川崎麻世、清水健太郎、太川陽介などがいます。その後女優・タレント業に転じます。特に、1979年より放送された自身主演ドラマ『燃えろアタック』(テレビ朝日系列)で人気を博しました。1983年に歌手・タレントで13歳年上の湯原昌幸と結婚、芸能界を一時引退(なお主婦業専念時も、夫の湯原と共に洗剤のテレビCMなどに出演していました)。しかし、結婚後わずか2週間で倒れた義母を20年に渡って介護します。その後、自身の介護体験を基に「覚悟の介護」を出版。これを機に2004年から芸能活動に復帰。湯原とは今昔変わらぬ夫婦仲のよさで知られ、旅番組など夫婦でのテレビ番組やCMでも多数共演しています。
1989年、女優の多部未華子が生まれています。愛称は「多部ちゃん」。小学5年生の頃、ミュージカルの『アニー』を観劇し、同作への出演を目指して中学2年生までオーディションを受けていました。2002年、スカウトされてヒラタオフィスに所属(それ以前はムーン・ザ・チャイルドに所属していました)。Janne Da Arcの「Rainy 〜愛の調べ〜」のPV出演で女優デビュー。また、『HAPPY! HAPPY!スペシャル』(BS日テレ)でテレビドラマ初出演を果たします。2003年、映画『HINOKIO』のメインキャストである工藤ジュン役に、オーディションで1,000人を超える応募者の中から抜擢されます。『HINOKIO』と『青空のゆくえ』により、2005年の第48回ブルーリボン賞新人賞を受賞。2007年、7月クールのドラマ『山田太郎ものがたり』(TBS)で民放連続ドラマ初出演。2009年、NHK連続テレビ小説『つばさ』に、オーディションで1,593人の中から選出されて、主演を務めます。2019年10月1日、多部が三姉妹の次女役で出演している UQコミュニケーションズ「UQモバイル」のCMを手掛けた写真家の熊田貴樹と同CMの撮影で出会い、3年間の交際を経て結婚したことを発表しました。容姿化は可愛らしいけれど目つきが悪いので「ブサ可愛い」などと言われます。

次は忌み日。
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