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2020年01月23日12:31

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1月23日が忌日である人々

220年、魏の武将、曹操(そう そう)が病のため65歳で死去。字は孟徳。羅漢中の小説『三国志演義』では敵役・悪役として設定されていますが、スケール、統率力ともに三国時代もっとも優れた武将でしょう。父は曹嵩。中常侍・大長秋曹騰の養子となり曹氏を継ぎ(高位の宦官は養子をとって家名を存続することが可能だった)、太尉となっています。月旦評で有名な後漢の人物鑑定家の許子将(許劭)は、「子治世之能臣亂世之奸雄」(子は治世の能臣、乱世の奸雄(姦雄))または「君清平之奸賊亂世之英雄」(君は清平の奸賊、乱世の英雄)と評しました。天下が分裂していた後漢末期に次々とライバルを倒していきましたが、江南に勢力を広げていた孫権を攻めるもかなわず、三国時代を招きました。有能な詩人でもありました。天下に覇を唱えるも、自らの墓については薄墓令を出し、簡素な陵墓におさまりました。2019年に上野の博物館で「三国志展」が開かれましたが、出土品はごくわずかでした。晩年は極度の頭痛に悩まされていたそうです。たいへんな人材コレクターマニア。
1620年(元和5年12月19日)、米沢藩上杉氏の家老、直江兼続が江戸鱗屋敷(現:東京都千代田区霞が関2-1-1警視庁)で病死。享年60。徳川家康を激怒させ、会津遠征を決意させるきっかけとなった返書直江状の文面は偽書、もしくは、偽文書ではないが、後世に大幅に改竄された可能性が宮本義己により指摘されているものの、家康の上杉征伐を諌止した豊臣奉行衆の書状には「今度、直江所行、相届かざる儀、ご立腹ご尤もに存じ候」「田舎者に御座候間、不調法故」などとあることから、家康を激怒させた兼続の書状が存在したことは事実のようです。奉行衆の諌止もあってか直江状のあとも上洛が計画されましたが、讒言の真偽の究明が拒否されたため、景勝は上洛拒否を決断。関ヶ原の戦いの遠因となる会津征伐を引き起こしました。兼続は越後で一揆を画策するなど家康率いる東軍を迎撃する戦略を練っていましたが、三成挙兵のため、家康率いる東軍の主力は上杉攻めを中止。その後、一揆勢と交戦していた秀治の率いた軍が撤退し、東軍に所属する前田利長を攻撃する構えを見せ、三成から「堀秀治が西軍側についた」という知らせを受けた事で、兼続は一揆勢力に攻撃の中止を命令して東軍の最上義光の領地である山形に総大将として3万人を率いて侵攻しました。しかし、これは秀治の策略で、利長に攻撃を仕掛けるよう見せかけていた秀治は、東軍への参戦を明白にしてすぐさま越後の一揆勢への攻撃を再開。事態に気付いた兼続は、再び一揆勢を扇動しようとするも間に合わず、秀治率いる部隊によって、一揆勢は壊滅する事になってしまいました。関ヶ原の戦いで西軍が敗れたことが奥州に伝わると、上杉軍は長谷堂城攻略を中止して撤退を開始しました。勢いに乗った最上軍と義光救援のために伊達政宗が援軍として派遣した留守政景軍が追撃してきて激戦になりますが、水原親憲、前田利益ら上杉勢の諸将の奮戦もあって米沢への撤退に成功します。この撤退戦の見事さは語り草となり、兼続は敵である義光や家康にも称賛され、旧日本陸軍参謀本部の『日本戦史』でも取り上げられています。慶長6年(1601年)7月、景勝とともに上洛して家康に謝罪。家康から罪を赦された景勝は出羽米沢30万石へ減移封となり、上杉家の存続を許されました。その後は徳川家に忠誠を誓い、慶長13年1月4日(1608年2月19日)重光に改名しました。
1657年、江戸幕府のお抱え朱子学者、林羅山が明暦3年(1657年)、明暦の大火によって邸宅と書庫を焼失し、その4日後に死去しました。数え75歳。学者としてだけでなく、23歳の若さで家康のブレーンの一人となりました。慶長11年(1606年)にはイエズス会の日本人修道士、イルマン・ハビアンと「地球論争」を行っています。この時林羅山は地動説と地球球体説を断固として受け入れず、地球方形説と天動説を主張しました。慶長12年(1607年)、家康の命により僧形となり、道春と称して仕えました。また、慶長19年(1614年)の大坂の役に際しては方広寺の梵鐘に刻された京都南禅寺の禅僧文英清韓による銘文中の「国家安康」「君臣豊楽」の文言の件(方広寺鐘銘事件)で、家康に追従して、これを徳川家を呪詛するものとして問題視する意見を献じています。寛永元年(1624年)、3代将軍・徳川家光(秀忠の長男)の侍講となり、さらに幕府政治に深く関与していくことになります。その活躍は、『寛永諸家系図伝』『本朝通鑑』などの伝記・歴史の編纂・校訂、古書・古記録の採集、「武家諸法度」「諸士法度」「御定書百箇条」などの撰定、外交文書の起草、朝鮮通信使の応接など多岐にわたっています。学問上では、儒学・神道以外の全てを排し、朱子学の発展と儒学の官学化に貢献しました。
1890年、キリスト教の教育者、新島襄(にいじま じょう)が同志社設立運動中に心臓疾患を悪化させて群馬県の前橋で倒れ、神奈川県大磯の旅館・百足屋で静養します。愛弟子の一人の不破唯次郎の妻・ユウの看護を受けますが、回復せず明治23年(1890年)1月23日午後2時20分、徳富蘇峰、小崎弘道らに10か条の遺言を託して死去。46歳没。死因は急性腹膜炎。江戸時代の1864年(元治元年)に密出国してアメリカ合衆国に渡り、そこでキリスト教の洗礼を受けて神学を学びます。そして、改革派教会(カルヴァン主義)の清教徒運動の流れをくむ会衆派系の伝道団体である「アメリカン・ボード」の準宣教師となりました。日本に帰った後の1875年(明治8年)にアメリカン・ボードの力添えによって京都府にて同志社英学校(後の同志社大学)を設立。
1933年、社会主義者・思想家・歴史家・著述家・小説家の堺利彦が昭和6年12月、脳出血で倒れ、以後は療養生活に入りました。翌年7月、病状が悪化し、時に凶暴となったため青山脳病院に入院(朝日新聞は堺が発狂して入院、と報道しましたが、荒畑寒村の抗議を受け、後に訂正したとのこと)、翌月退院。昭和8年(1933年)1月、様態が悪化し麹町の自宅で死去(享年64)。『萬朝報』の記者として活躍し、社会改良を主張する論説や言文一致体の普及を図る一方で、社主の黒岩涙香、同僚の内村鑑三、幸徳秋水らと理想団を結成。この時期に社会主義思想に共鳴し、非戦論を唱えます。しかし『萬朝報』は、日露戦争に際し主戦論に路線転換したため、内村、幸徳とともに退社。平民社を開業して週刊『平民新聞』を発行、非戦論・社会主義の運動を開始。週刊『平民新聞』第53号(1904年11月13日)に幸徳との共訳で『共産党宣言』を翻訳して掲載しました。大正11年(1922年)、日本共産党(第一次共産党)の結成に山川均、荒畑寒村らとともに参加するものの、山川らに同調して共産党を離脱、後に労農派に与します。その後、東京無産党を結成して活動を続け、昭和4年(1929年)に東京市会議員に当選しました。婦人運動家で社会大衆婦人同盟書記長・婦人有権者同盟会長を歴任した近藤真柄は長女。
1944年、ノルウェー出身の画家、エドヴァルド・ムンクが1943年12月12日、エーケリーで80歳の誕生日を祝いましたがその1週間後、自宅の近くでレジスタンスによる破壊工作があり、自宅の窓ガラスが爆発で吹き飛ばされました。凍える夜気にムンクは気管支炎を起こし、翌1944年1月23日に亡くなりました。満80歳没。彼の作品『叫び』は有名で、ノルウェーでは英雄的存在。なお、『叫び』は数点存在しています。
1951年、松竹の創業者の一人(松竹株式会社社長)、白井松次郎が75歳で死去。1909年には、義侠心から人気の低迷していた人形浄瑠璃(文楽)の経営権を譲りうけ、保存と振興に尽力します(それまで松次郎はほとんど文楽に興味を持たなかったのですが、上方者としての責任として損得抜きでその立直しにあたったそうです)。1946年、戦後の復興期のなかで古典芸能の保護振興を志し、焼跡にまず四つ橋文楽座を再興。つづいて道頓堀浪花座(同年)、角座(1947年)、中座(1948年)を続々と復興し、また、5代目笑福亭松鶴らを援助して上方落語復興に取り組み、戎橋松竹(1947年)を会場、その後の上方落語再興の契機を作りました。
1981年、挿絵画家の谷内六郎が急性心不全のため死去。59歳没。 我が家は父親が「週刊新潮」を定期購読していたので、表紙を描いていた谷内の絵には幼いころから親しんでいました。
1989年、スペインの画家、サルバドール・ダリがフィゲラスのダリ劇場美術館に隣接するガラテアの塔で、心不全により死去。85歳没。フルネームはカタルーニャ語でサルバドー・ドメネク・ファリプ・ジャシン・ダリ・イ・ドメネク。「天才」と自称して憚らず、数々の奇行や逸話が知られています。彼はフランス語も自在に話せましたが「R」の発音が強烈で、長くひっぱるものでした。今日では、ダリの上向きにピンとはねたカイゼル髭と目を大きく見開いた顔は「アート」そのものとして認知されるほどの人気であり、スペインのアーティスティックスイミングチームが水着の柄に採用して競技会に出場したことがあります。口ひげの形をどうやって維持しているのかと質問された際に「これは水あめで固めているのだよ」と答えました。
2000年、「双子のおばあちゃん」こときんさんぎんさんの姉、成田きんが107歳で亡くなりました。妹の蟹江ぎんに比べると、少し惚けていたような印象がありました。
2011年、兄弟漫才師の「夢路いとし・喜味こいし」のツッコミ、喜味こいしが肺がん(小細胞がん)のため大阪市内の病院で死去、83歳没。本名、篠原勲(しのはら いさお)。1977年に膀胱ガンを患い、人工膀胱保有者(オストメイト)となりました。漫才の上手さは「中田ダイマル・ラケット」に比肩します。よくあることですが、兄弟の仲はそうとう悪かったとのこと。関東の芸人からも多くの尊敬を集め、ビートたけしは、いとしこいしが自身の番組にゲストで出演した際「いとこい師匠は自分が駆け出しの頃から雲の上の人。同じ舞台に上がるのはおこがましい」と発言し、志村けんも「同じネタを何度見ても面白いのは凄い。間とタイミングが真似できない」、爆笑問題は掴みネタや客いじりなど一切なしの本ネタだけのスタイルを「芸人として格好いい」としています。島田紳助はいとし・こいしを研究し、「できない」と判断して若者に特化したスピード漫才にたどり着きました。団塊の世代が名人としてすぐ挙げる「やす・きよ」なんて比較にもなりません。「グリコ がっちり買いまショー」も懐かしいです。
2014年、料理研究家の小林カツ代が多臓器不全のため逝去。満76歳没(享年78)。 料理研究家として、簡単ではあるが手抜きではない料理を研究、紹介しており、生涯で出版した著書は200冊を超えます。また、台所用雑貨や食器のプロデュース、講演活動も行っていました。1994年(平成6年)、料理人が対決するテレビ番組『料理の鉄人』(フジテレビ)に出演した小林は、ジャガイモをテーマにした料理で鉄人、陳建一に勝利しました。厨房経験のない素人に負けた陳建一の「赤坂四川飯店」は辛くも旨くもなんともない店でした。

では、明日もよろしく!
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