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2020年01月23日11:02

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1月23日が誕生日である人々

1783年、フランスの小説家、スタンダールが生まれました。本名はマリ=アンリ・ベール。不遇の時代に、スタンダールは1822年、39歳の時に『恋愛論』、1830年に『赤と黒』を発表しています。特に、元神学生による殺人未遂事件を素材に、野心に燃える青年の成功と挫折を描いた代表作『赤と黒』は、当時は評判にはなりませでしたが、王政復古下のフランス社会を鋭く批判したものであり、彼の政治思想の真骨頂がよく表現されています。1836年から39年まで休暇をとってパリに戻り、 『パルムの僧院』を書きました。
1842年3月23日、59歳でパリの街頭で脳出血で倒れ、死去。
1828年(文政10年12月7日)、薩摩藩士・軍人・政治家の西郷隆盛が生まれました。号は南洲(なんしゅう)。隆盛は父と同名ですが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父・吉兵衛の名で届け出てしまい、それ以後は父の名を名乗ったためです。西郷家の初代は熊本から鹿児島に移り、鹿児島へ来てからの7代目が父・吉兵衛隆盛、8代目が吉之助隆盛です。次弟は戊辰戦争(北越戦争・新潟県長岡市)で戦死した西郷吉二郎(隆廣)、三弟は明治政府の重鎮西郷従道(通称は信吾、号は竜庵)、四弟は西南戦争で戦死した西郷小兵衛(隆雄、隆武)。大山巌(弥助)は従弟、川村純義(与十郎)も親戚です。薩摩藩の下級武士でしたが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けました。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流されます。その後復帰しますが、新藩主島津忠義の実父で事実上の最高権力者の島津久光と折り合わず、再び沖永良部島に流罪に遭います。しかし、家老・小松清廉(帯刀)や大久保利通の後押しで復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導しました。江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、幕府側の降伏条件を受け入れて、総攻撃を中止しました(江戸無血開城)。その後、薩摩へ帰郷しましたが、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職。さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務しました。明治6年(1873年)、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中に発生した朝鮮との国交回復問題では開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、帰国した大久保らと対立、この結果の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念します。佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)9月24日に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となりますが、敗れて城山で自刃。49歳没。
1832年、フランスの画家、エドアール・マネが生まれました。近代化するパリの情景や人物を、伝統的な絵画の約束事にとらわれずに描き出し、絵画の革新の担い手となりました。特に1860年代に発表した代表作『草上の昼食』と『オランピア』は、絵画界にスキャンダルを巻き起こしました。印象派の画家にも影響を与えたことから、印象派の指導者あるいは先駆者として位置付けられます。1880年頃からは、梅毒により左脚の壊疽が進み、パリ郊外で療養しながら制作を続けました。1882年のサロンに最後の大作『フォリー・ベルジェールのバー』を出品。1883年4月、壊疽が進行した左脚を切断する手術を受けましたが、経過が悪く、1883年4月30日、51歳で亡くなりました
1872年、フランスの物理学者、ポール・ランジュバンが生まれました。常磁性や反磁性の研究を行いました。原子の電子構造から磁性の起源を説明しました。1917年、水晶の圧電効果を使った水晶振動子を開発し、超音波を初めて発生させることに成功。これを第一次世界大戦中に潜水艦の位置の測定に用いる研究を行いましたが、戦争中に実用化することはできませんでした。ランジュヴァンはフランスにおいて相対性理論を広めた一人です。また、ソナーの開発者としても知られます。ナチズムに反対意見を述べたため、ヴィシー政権によって職を追われ、終戦により復職しましたが、翌年(1946年12月19日)パリで他界した。74歳没。
1897年、インドの独立運動家、インド国民会議派議長(1938 - 1939年)、自由インド仮政府国家主席兼インド国民軍最高司令官、スバス・チャンドラ・ボースが生まれました。1921年にマハトマ・ガンディー指導の反英非協力運動に身を投じました。ボース自身は「ガンディーの武力によらぬ反英不服従運動は、世界各国が非武装の政策を心底から受け入れない限り、高遠な哲学ではあるが、現実の国際政治の舞台では通用しない。イギリスが武力で支配している以上、インド独立は武力によってのみ達成される」という信念を抱いており、ガンディーの非暴力主義には強く反対していました。ボースは、この頃イタリアで台頭してきており、イギリスのウィンストン・チャーチルをはじめ世界中で喝采と注目を浴びていたファシズムに魅了され、1926年には「ファシズムと共産主義の新たな総合をインドは実現する」べきであると主張しました。ボースは、議会内で反ファシストから圧力を受けると自身の見解を穏健化させ、ファシズムではなくトルコのケマル・アタテュルクによる権威主義に関心を向けるようになりました。ボースは1924年にカルカッタ市執行部に選出されるも逮捕・投獄され、ビルマのマンダレーに流されます。その後も即時独立を求めるインド国民会議派の左派、急進派として活躍し、勢力を伸ばしました。ボースはインド独自の社会主義「サーミヤワダ」を提唱し、若年層や農民、貧困層の支持を集めました。1940年6月、フランス降伏とドイツ軍によるイギリス上陸が迫ったことを知ったボースはガンディーの元を訪れ、広範なレジスタンス蜂起のためのキャンペーンを行うように求めました。しかしガンディーは闘争のための準備ができておらず、現在の蜂起は犠牲が大きいとして要請を拒否しました。大衆デモの煽動と治安妨害の容疑でイギリス官憲に逮捕され戦争終結まで収監される予定となったボースはハンガーストライキを行い、やがて脱獄、1941年4月2日、ボースはドイツのベルリンに亡命しました。ムッソリーニやヒトラーとの連携に失敗したボースは、かつては「日英同盟」を結ぶなどイギリスと良好な関係にあったものの、この頃は同じく枢軸国の1国としてイギリスとの対立姿勢を鮮明にしていた大日本帝国に目を向けました。東京に到着したボースは、かねてから日本を拠点に活動していたビハーリー・ボースやA.M.ナイルらと合流した後、ビハーリー・ボースの後継者としてインド独立連盟総裁とインド国民軍最高司令官に就任しました。ボースは1943年10月21日に昭南で自由インド仮政府首班に就任し、ボースはそのカリスマ的魅力やA.M.ナイルらの国民軍の首脳による献身的な協力を元に、日本軍の占領地域である東南アジアにおいて国民軍の募兵を積極的に行ったほか、ラジオを使い対英闘争の継続を訴えました。その後ボース率いるインド国民軍は、インドの軍事的方法による解放を目指して、1944年1月7日にビルマのラングーンに本拠地を移動させました。しかしインパール侵攻の失敗により、インド国民軍はその後、主にビルマで連合国軍と戦いました。1945年8月15日の日本の敗戦により、日本と協力してイギリスと戦いインド独立を勝ち取ることは不可能となりました。ボースは中国共産党の支配する延安に自由インド仮政府を置くことを計画し、まずソ連と接触すべくソ連軍が占領した満州国へ向かおうとしました。ボースはかねてから暴力革命的傾向が強く、心情においてはコミュニストであったため、モスクワへの亡命をはかったとも指摘されます。8月18日午後2時、ボースは台湾台北の松山飛行場から大連へ向かう予定であった九七式重爆撃機に乗り込みました。乗り込む直前には一人のインド人に「東南アジア在住300万のインド人からの贈り物」である宝石と貴金属の入った二つのスーツケースを受け渡しました]。しかし、離陸直前に左側プロペラが外れ、機体はバウンドして土堤に衝突、炎上しました。操縦士の滝沢少佐、同乗していた四手井綱正中将と士官一名は即死し、ボースは炎上する機体から脱出できたものの、全身に大やけどを負いました。ボースは台北市内の大日本帝国陸軍病院の南院に運ばれ、手当を受けます。死を悟ったボースは、同乗していたが軽傷であったハビブル・ラーマン大佐に「インド独立の最後を見ずにして死ぬことは残念であるが、インドの独立は目睫の間に迫っている。それ故、自分は安心して死ぬ。自分の一生涯をインドの独立に捧げたことに対しては少しも遺憾がないのみではなく、非常にいいことをしたと満足して死ぬ」、「ハビブ、私はまもなく死ぬだろう。私は生涯を祖国の自由のために戦い続けてきた。私は祖国の自由のために死のうとしている。祖国に行き、祖国の人々にインドの自由のために戦い続けるよう伝えてくれ。インドは自由になるだろう。そして永遠に自由だ」と告げました。夜に当番兵がボースに「何か食べたいものがあるか」と聞くと、「カレー」と答えたように聞こえました。当番兵がカレーライスを作り、スプーンで食べさせると、ボースは「グッド」と答えました。しかし2口3口食べると、ボースはそれきり動かなくなりました。1945年8月18日午後11時41分のことでした。享年48。
1899年、吉本興業の創立者、林正之助が生まれました。風貌、豪快な性格からあだ名を「ライオン」と呼ばれていました。1917年、18歳の時に吉本興業の前身、吉本興行部に入社し、19歳で総監督となりました。1948年に吉本興業合名会社が株式会社に改編されたのを機に、初代の社長に就任。1950年に初代会長に就任していた姉吉本せいの死に伴い、会長も兼務しました。1963年に体調を崩し、大阪大学医学部附属病院に入院、持病の糖尿病と膀胱の疾患と診断され、やむを得ず社長から一旦退き、弟の弘高に譲ります。1970年に弘高が脳梗塞で半身不随となり、社長に復帰。1973年には再び社長を退きましたが、1986年にはまたも社長に復帰し、1991年に死去するまで社長を務めました。初代桂春團治・横山エンタツ・花菱アチャコ等の多くの芸人を育て上げ、なんば花月、うめだ花月等の劇場もオープンさせるなど、吉本興業を日本最大手の芸能事務所に発展させました。一方、松竹芸能とは脅す行為を含めて、引抜きを禁止するなど激しく対立。このことから、自身の死去までは、松竹芸人と自社の芸人をテレビで共演させることはあまりありませんでした。1968年1月11日、当時の山口組組長・田岡一雄と組んでレコード会社を乗っ取ろうとした容疑で兵庫県警に逮捕されています。1991年4月24日に大阪厚生年金病院で心不全のため死去。92歳没。
1907年、理論物理学者の湯川秀樹が生まれました。 原子核内部において、陽子や中性子を互いに結合させる強い相互作用の媒介となる中間子の存在を1935年に理論的に予言しました。1947年、イギリスの物理学者セシル・パウエルが宇宙線の中からパイ中間子を発見したことにより、湯川の理論の正しさが証明され、これにより1949年(昭和24年)、日本人として初めてノーベル賞を受賞しました。米ソ両国の緊張激化を受け、第4回科学者京都会議の発起人の一人となって1981年(昭和56年)6月、15年ぶりに開催を実現。このときすでに健康状態が悪化しており、会議には車椅子姿で出席して核廃絶を訴えました。3か月後の同年9月8日、急性肺炎から心不全を併発し京都市左京区の自宅で死去。満74歳。
1938年、プロ野球投手からプロレスラーに転向したジャイアント馬場が生まれました。本名は馬場正平(ばば しょうへい)。リングネームは、初渡米武者修行中の1961年、ニューヨークのプロモーターであったビンス・マクマホン・シニアが「ババ・ザ・ジャイアント(Baba the Giant)」と命名したことに由来します。とある試合で戦ったアート・トーマスのマネージャー、フレッド・アトキンスをグレート東郷が馬場の元に引き抜き、アメリカでの師匠としました。馬場はフレッドの元で多くを学ぶことになります。 その後、アメリカで空前の売れっ子となり、NWA、WWA、WWWFの世界三大タイトルに連続挑戦するまでになりました。これは世界の強豪レスラーの誰しも果たせなかった破天荒な大金字塔的偉業であり、馬場の世界的名声の基盤を形成しました。 新聞のラテ欄では文字数の制約から「G馬場」と表記される事もありました。日本プロレス界史上最大の巨体を持ち、力道山、アントニオ猪木と並ぶビッグネームでもあり、コマーシャルやテレビ番組などでも人気を博しました。現役時代は、当時の世界最高峰の王座であるNWA世界ヘビー級王座に3度就きました。日本テレビに義理を建て、テレビ朝日と二元中継に踏み切った日本プロレスを退社、全日本プロレスを設立し、豪華な外国人レスラーを招聘して興行を成立させました。1980年4月、ザ・シークを相手に通算3000試合目を達成。1985年7月、ハンセンに敗退し、PWFヘビー級王座から転落したのをきっかけにタイトル戦線から退いた後は、社長業やタレント業に比重を移しながらも義弟を自認するラッシャー木村や百田光雄とファミリー軍団を結成し、悪役商会との抗争を開始し、前座で「明るく楽しいプロレス」を展開し、最後の試合が行われた1998年12月5日までリングに上がり続けました。1999年1月31日16時04分、入院先の東京医科大学病院において、大腸癌(上行結腸腺癌)の肝転移による肝不全のため61歳で死去。2019年2月19日には両国国技館に於いて「ジャイアント馬場没20年追善興行〜王者の魂〜 −アブドーラ・ザ・ブッチャー引退記念ー〜さらば呪術師〜」興行が開催されました。
1939年、俳優の千葉真一が生まれました。日本を代表する映画スターとして海外ではSonny Chiba (サニー ちば)の名で知られています。吹き替えに頼らないで自ら演じるアクションスターの元祖ともいえる存在。ドラマ『キーハンター』での危険なシーンは見事でした。千葉ちゃんの愛称で一躍国民的アイドルとして親しまれました。シングル「男一匹生きるなら」をリリースして歌手デビューも果たしています。ジャパンアクションクラブ (JAC ) の創始者。芸能生活60周年、映画の出演本数は1500本以上と日本最多出演の俳優です。柳生但馬守宗矩(若山富三郎)・宮本武蔵(緒形拳)と華麗で凄みのある一騎討ちを披露した主演映画『魔界転生』(1981年)は観客動員数200万人・配給収入10.5億円を超し、映画『赤穂城断絶』(1978年)、『里見八犬伝』(1983年)などにも出演。特に『柳生一族の陰謀』、『魔界転生』、テレビドラマ『柳生あばれ旅シリーズ』(1980年 - 1983年)の柳生十兵衛三厳と、傑作と評価されている『影の軍団シリーズ』(1980年 - 1985年)の服部半蔵は、十八番です。1979年には芸能生活20周年記念作品である映画『戦国自衛隊』で、主演と日本映画初のアクション監督を兼務し、配給収入で13.5億円のヒットをしました。1991年、ジャパンアクションクラブ (JAC ) の売却を経て、1992年にアメリカ映画『エイセス / 大空の誓い』に出演。これを機に拠点をロサンゼルスへ移して、アメリカでも俳優活動をするようになり、グリーンカードも取得。1998年に出演した香港映画『風雲 ストームライダーズ』では、ラスボス“雄覇(ホンパ / ホンファ)”を演じています。2007年11月には海外で通称としていたJJ Sonny Chiba (JJ サニー チバ)を日本でも使うようになり、和千永倫道(わちなが りんどう)の名で、映画監督業への進出を表明しました。2011年以降、芸名を日本のみ千葉 真一に戻し、海外ではJJ Sonny Chiba としています。
1948年、映画監督の相米慎二が生まれました。1972年に中央大学法学部を中退し、長谷川和彦の口利きで契約助監督として日活撮影所に入所。長谷川や曽根中生、寺山修司の元で主にロマンポルノの助監督を務めました。助監督時代には杉田 二郎のペンネームも用いています。1980年、薬師丸ひろ子主演の『翔んだカップル』で映画監督としてデビュー。翌1981年、『セーラー服と機関銃』で興行的な成功を収めました。1982年6月、長谷川和彦、根岸吉太郎ら若手監督9人による企画・制作会社「ディレクターズ・カンパニー」(ディレカン)を設立。1983年には吉村昭原作の『魚影の群れ』を発表。1985年の『台風クラブ』は第1回東京国際映画祭でグランプリを受賞し、キネマ旬報「オールタイムベスト・ベスト100」日本映画編(1999年版)の55位にランクインしています。同年、斉藤由貴の映画デビュー作となった『雪の断章 情熱』を監督しました。その後、1993年の『お引越し』で芸術選奨文部大臣賞を受賞。2001年10月には舞台初演出となる『Defiled』の上演、また翌2002年には自身初の時代劇での監督作品となる浅田次郎『壬生義士伝』の映画化作品のクランクインを予定していましたが、2001年6月、体調不良のため病院で検査を受けて肺癌を告知され、同年8月中旬より療養生活を送り、同年9月5日に容体が急変して9月9日16時10分に神奈川県伊勢原市の病院で死去。53歳没。
1951年、男性フリーアナウンサー、タレントの吉田照美が生まれました。面長で顔が曲がっていることからあだ名は「ロバ」。元文化放送アナウンサー。深夜放送の『セイ!ヤング』で注目されたのち、1980年10月6日開始の番組『吉田照美の夜はこれから てるてるワイド』のメインパーソナリティに抜擢されます。当時、文化放送の夜の若者向け時間帯(ヤングタイム)の番組は、ライバル局のニッポン放送、TBSラジオに聴取率で後塵を拝し、低迷していました。『てるてるワイド』はこの時間帯を立て直すべく企画されたものです。1985年4月、文化放送を退社。フリーアナウンサーとなり、テレビに進出。『夕やけニャンニャン』(フジテレビ)、『11PM』(日本テレビ)、『ぴったし カン・カン』(TBS)の司会を務めました。1987年4月、平日昼の帯ワイド『吉田照美のやる気MANMAN!』を、2007年3月まで20年にわたって担当。私はふだんTBSラジオを点けっぱなしにしていますが、土曜日、家にいるときは『伊東四朗・吉田照美 親父熱愛』で文化放送を聴いています。
1956年、歌舞伎役者の10代目坂東三津五郎が生まれました。前名の五代目・坂東 八十助(ごだいめ ばんどう やそすけ)としても有名で「違いの分かる男」というコピーでテレビCMにも出演していました。1981年(昭和56年)に浅草公会堂で二年目の公演となる「初春花形歌舞伎」に父・三津五郎(当時・七代目蓑助)とともに出演して以降、同公演の常連として1998年(平成10年)まで11回の出演を重ねました。十一代目市川海老蔵襲名披露興行において、白血病を発症した十二代目市川團十郎の代役として出演する活躍を見せました。2013年8月、膵臓に腫瘍が判明し手術・治療のため入院。これにより「九月大歌舞伎」並びに「歌舞伎座特別舞踊会」を休演することになりました。2015年2月21日、膵臓癌のため死去。59歳没。同世代で同じく50代で逝去した18代目・中村勘三郎ともども、生きていたら、歌舞伎界を担っていたことでしょう。女優の池上季実子は従妹。
1968年も歌舞伎役者。15代目片岡仁左衛門(片岡孝夫)の子、片岡孝太郎(かたおか たかたろう)が生まれています。若女形としてめざましい活躍を見せ、歌舞伎界の新世代のひとりとして活躍する一方、歌舞伎以外の映画・テレビドラマでも俳優として活動の幅を広げています。ただし、私の知人で孝太郎とは親しい友人の女性は「やる気がない」と評していました。
同じく1968年、ヴァイオリン奏者の葉加瀬太郎が生まれました。東京藝術大学に入学した後、学生で結成された『クライズラー&カンパニー』の中心人物として音楽界に登場。クラシックやポップスといったジャンルの垣根を越えて人気を博しますが、1996年に解散。アート・リンゼイ・プロデュースによる『watashi』(1997年)でソロデビューを果たします。1996年にはセリーヌ・ディオンのワールドツアーに参加。1999年、タレントの眦痛由子と結婚(婿養子)。現在二児の父。2004年、中島美嘉の楽曲「朧月夜〜祈り」(および同名のミニアルバム)をプロデュースし、『第55回NHK紅白歌合戦』に中島の伴奏で出演しました。2006年4月には、関西テレビの報道番組『FNNスーパーニュースアンカー』のテーマ曲「Beyond the Sunset」を石坂慶彦と共に手がけます。2006年、志方あきこの2ndアルバム「RAKA」に1曲参加。2007年3月、ゆずとコラボで「春風 meets 葉加瀬太郎」発売。2017年現在はロンドン在住。

あっ、1954年生まれの俳優、小日向文世を飛ばしましたが、まあいいでしょう。

次は忌日。
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