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2020年01月21日03:40

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1月21日が忌日である人々

1609年、オランダの歴史学者、ヨセフ・スカリゲルが68歳で死去。ユリウス通日を考案した人。エピソードは特にありません。
1892年、イギリスの天体学者、数学者のジョン・クーチ・アダムスが72歳で死去。海王星の軌道を計算しその位置を予測したことで知られます。1843年10月に天王星の公転運動の狂いから海王星の存在と位置を予言しました。同じ計算を、フランスのユルバン・ルヴェリエも行っており、海王星は彼らの予測の1度以内の位置に、1846年ヨハン・ガレによって発見されました。また、月の軌道やしし座流星群の軌道の研究も行っています。数学の分野で常微分方程式のアダムズの解法や、数学分野のアダムズ賞などに名前が残っています。
1899年、江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の武士(幕臣)、政治家の勝海舟が明治32年(1899年)1月19日、風呂上がりにトイレに寄った後に倒れ、侍女に生姜湯を持ってくるように頼みましたが、間に合わないとして持ってこられたブランデーを飲んですぐに脳溢血により意識不明となり、息を引き取りました。75歳。海舟の最期の言葉は「コレデオシマイ」でした。享年77。彼については以前。福沢諭吉の項で書いたことがありますので、今回は詳細は割愛いたします。
1924年、、ロシアの革命家、政治家、ウラジミール・イリイチ・レーニンが妻のクルプスカヤがスターリンに面罵されたことを知って彼に詰問の手紙を書いた直後の1923年3月6日に3度目の発作が起きるとレーニンは失語症のためにもはや話すことも出来ず、ほとんど廃人状態となり、1924年1月20日に4度目の発作を起こして翌1月21日に死去しました。レーニンの死因は公式には大脳のアテローム性動脈硬化症に伴う脳梗塞とされています。ロシア社会民主労働党(ボリシェヴィキ、のちにロシア共産党と改名)の指導者として活動し、十月革命を成功させ、革命政府の人民委員会議議長として史上初の社会主義国家であるソビエト連邦の初代指導者を務めました。また、第二インターナショナルに代わる共産主義政党の国際組織としてコミンテルンの創設を主導。政治、経済の分析から哲学に至るまでさまざまな著作を残し、その思想はレーニン主義として継承されました。本名はウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ(Влади́мир Ильи́ч Улья́нов)であり、レーニンは筆名。多くの著作でエヌ・レーニン(Н. Ленин)と署名していました。本人が「ウラジーミル・イリイチ・レーニン」と名乗った例はありません。
1938年、フランスの映画製作者、ジョルジュ・メリエスが1937年末に重い病気にかかり、アンリ・ラングロワがパリのレオポルド・ヴェラン病院への入院を手配しました。彼らが病床を訪れると、メリエスは最後のシャンパンボトルのコルクがはじけて泡があふれている絵を見せました。そして「友よ笑え、私と笑ってくれ。私はあなた方の夢を見たのだから」と言いました。1938年1月21日、癌により死去。出生名マリー・ジョルジュ・ジャン・メリエス。、映画の創成期において様々な技術を開発した人物です。パリ出身。“世界初の職業映画監督”と言われています。SFXの創始者で、多重露光や低速度撮影、ディゾルブ、ストップモーションの原始的なものも開発しました。また手で色づけしたカラー映画も作っています。撮影を通して現実を操作し変換する能力から、最初の "Cinemagician" とも称されます。彼の最も有名な作品は1902年の映画『月世界旅行』と1904年の映画『不可能を通る旅』。どちらも不思議な宇宙旅行を描いた作品で、ジュール・ヴェルヌのようなスタイルであり、初期の重要なSF映画とみなされていますが、描き方はファンタジーに近いものでした。また、最初期のホラー映画の製作でも知られており、1896年の『悪魔の館』にまで遡ります。小説『ヒューゴの不思議な発明』にも登場しています。
1950年、イギリスの小説家、ジョージ・オーウェルがロンドンにおいて46歳で死去しました。本名はエリック・アーサー・ブレア。エリック・ブレアとも。全体主義的ディストピアの世界を描いた『1984年』の作者で知られます。『1984年』のような世界を描いた監視管理社会を「オーウェリアン」(Orwellian)と呼びます。マルクス主義に罹った輩にはこの作品とドストエフスキーの作品を読ませると回復させることができます。
1951年、小説家で宮本顕治の妻、宮本百合子が51歳で死去。興味がないので割愛。
1983年に94歳で亡くなった小説家の里見(さとみ とん)も同様。
1988年、漫画原作者、小説家、映画プロデューサーの梶原一騎が年明けに体調不良となって入院し、1月21日午後12時55分、東京女子医科大学病院にて死去、50歳没。高森 朝雄(たかもり あさお)の筆名も使用した。格闘技やスポーツを題材に、男の闘う姿を豪快に、ときには繊細に描き出し、話題作を次々と生み出した。自身の型破りで豪快な生き方や数々のスキャンダルでも話題を呼んだ。1966年から『週刊少年マガジン』に連載された漫画『巨人の星』の原作者として名声を上げ、以後『あしたのジョー』(高森朝雄名義)、『タイガーマスク』など、いわゆる「スポ根もの」分野を確立した功績をはじめ、多くの劇画・漫画作品の原作者として活躍しました。『柔道一直線』は桜木健一主演でドラマ化され、大ヒットとなりました。自身の漫画から産まれたキャラクター「タイガーマスク」が現実に新日本プロレスでデビューしたことが契機となって、梶原は1980年代から、かねてから縁のあったプロレス界にも深入りするようになります。また、「よど号ハイジャック事件」では実行犯グループのリーダー・田宮高麿が「我々は明日のジョーである」という声明文を発表するなど社会現象となりました。1973年に『愛と誠』の連載を発表。それまではスポーツものの原作を手がけて、いわゆる「スポ根作家」のイメージが強かったのですが、同作では梶原版「ロミオとジュリエット」を意識した純愛山河を手がけ、ドラマ、映画化され、大ヒットとなりました。弟は漫画原作者、空手家の真樹日佐夫。在日朝鮮人。1979年から81年にかけて台湾の有名タレント、白冰冰(パイ・ピンピン)とも婚姻関係を結んでいました。1983年5月25日、講談社刊『月刊少年マガジン』副編集長・飯島利和への傷害事件で逮捕されました。この逮捕により、過去に暴力団員とともに起こした「アントニオ猪木監禁事件」や、赤坂のクラブホステスに対する暴行未遂事件(1982年3月18日)、『プロレスを10倍楽しく見る方法』のゴーストライターのゴジン・カーンから10万円を脅し取った事件も明るみに出ています。梶原の死後、弟の真樹は『週刊漫画ゴラク』にプロレスラーのバディ・オースチンを袋叩きにしたり、兄弟で女性を輪姦した『兄貴の思い出』というしょうもない作品を掲載していました。
1944年、インド独立運動家のラース・ビハリ・ボースが入院するほど体調を悪化させ、インド独立の実現を見ることなく、A.M.ナイルらに看取られながら1945年(昭和20年)1月21日に日本で死去。58歳没。過激派として指名手配され、日本に逃れてインド独立運動を続けました。スバス・チャンドラ・ボースと区別するため、「中村屋のボース」とも呼ばれます。A.M.ナイルなど日本に亡命していたインド独立運動家たちと協力しあい、またイギリスと対立を強めていた日本政府や軍部と協力関係を結んだことで、ボースはインド国外における独立運動の有力者の一人となりました。 日本に本格的なインドカレーを伝えた人物でもあります。それまで日本のカレーはイギリス経由のものでした。
1996年、漫才師「横山やすし・西川きよし」の横山やすしが摂津市の自宅で寝たまま意識を失っているところを啓子夫人が発見、救急車で病院に運ばれましたが、すでに心臓と呼吸が停止しており、意識が戻ることなく急逝。51歳没。死去前日、大量にビールを飲んで吐き出し、啓子夫人が病院で診てもらおうと思った矢先の死でした。愛称は「やっさん」。西川きよしとのコンビでの漫才は、漫才ブームの到来と共に記録的な人気を博し「やすきよ漫才」として20世紀を代表する天才漫才師と呼ばれるまでになりました。初妻(のちに離婚)との間に俳優の木村一八(長男)と長女をもうけました。再婚した妻とはやすしの芸能界引退等を挟み、逝去まで連れ添いました。西川きよしの参議院選出馬後はピンで活動。1986年4月に不摂生から吐血し緊急入院。退院会見で二度と飲酒しないとしていましたが、翌1987年12月に『スター爆笑Q&A』(よみうりテレビ制作・日本テレビ系)で酒気帯びのまま出演し、同じ司会の桂文珍、山田邦子の制止を振り切ってゲストの片岡鶴太郎らに食ってかかりました。見兼ねた当時のマネージャーの大谷由里子(旧姓:松岡)が激怒し、やすしを舞台裏でビンタして諫めたことは有名。これがとどめをさす形で番組を降板。さらに1988年10月にも二日酔いを理由に『三枝やすし興奮テレビ』(毎日放送)の出演を直前にキャンセルしたために降板。1988年11月下旬、長男・一八がタクシー運転手に対する傷害事件を起こして逮捕され、一八はやすしを通じて契約解消を言い渡されました。やすしは当初事件の内容を把握しておらず、女性リポーターの質問に「おい、ねぇちゃん!俺は息子には厳しく教育してるぞ」「男は喧嘩する位が丁度ええ」などとコメントしていましたが、後に一八が被害者に対し一方的に暴行を加え、意識不明の重体に追いやったことを知ると記者会見で陳謝し「いくらカワイイ息子がやったこととはいえ、人を生きるか死ぬかの目に遭わしてしまって、ホンマにすんまへんでした。スンマヘン」「自分の教育が間違っていた」と、自身の息子に対する教育の過ちを認めて号泣、その責任をすべて負う形で自ら無期限謹慎を申し出ます。会見の直後に、少年鑑別所に収監された一八に面会した際は、「おい、反省せぇ」と言うのがやっとだったそうです。1989年4月17日、愛車を運転中にバイクとの人身事故を起こし、バイクに乗っていた男性(58歳)に軽傷を負わせました。大阪府警が取調べた結果、体内からはアルコールが検出されました。事故直後の会見では、事態を余り重く見ていなかったやすしは「決して、わざわざ事故しようと思ってやったのと違いますので、ひとつ宜しくお願い致します」と語っていましたが、その知らせを受けた吉本興業は、ついにやすしとの専属芸能契約を解除することを決断。1992年に内田裕也主演の映画『魚からダイオキシン!!』で芸能界に復帰、また、のちに大人気シリーズとなった『難波金融伝・ミナミの帝王』第1作である「トイチの萬田銀次郎」に萬田の先生役で出演。漫才を演じているときと何ら変わりない演技を見せ、活動の場をVシネマなどに移しました。1995年7月18日には京都府八幡市石清水八幡宮での太鼓まつりのゲストとして姿を見せていましたが、実年齢に似つかわしくない高齢者のように老け込んだ風貌で、極度に痩せ、体もふらついた状態で、当時の祭りの参加者は往年の姿との落差を目の当たりにして驚いたそうです。
2015年、推理小説、歴史小説作家、歴史著述家の陳舜臣が老衰のため、神戸市内の病院で死去。90歳没。代表作に『阿片戦争』『太平天国』『秘本三国志』『小説十八史略』など。『ルバイヤート』の翻訳でも知られます。神戸市出身。本籍は台湾台北でしたが、1973年に中華人民共和国の国籍を取得し、その後、1989年の天安門事件への批判を機に、1990年に日本国籍を取得していました。
2017年、俳優の松方弘樹が2016年(平成28年)2月23日、「脳腫瘍の疑いがあり長期療養するので出演予定である3月1日から6月8日までの歌謡ショーを降板し6月からの舞台も中止する」と発表。検査の結果「脳リンパ腫」との確定診断を受けたことが公表されました。抗がん剤の投薬治療を行うも、合間に脳梗塞を併発し、急激に体力も衰えていきました。2017年(平成29年)1月21日午前11時26分、脳リンパ腫のため東京都内の病院にて、74歳で死去。父の近衛重四郎同様、殺陣の刀裁きの巧さは俳優の中でも群を抜いていたとのことですが、それを十分に発揮しないまま、東映が時代劇からヤクザ路線に切り替えてしまったのが仇となりました。俳優業の一方で、1985年(昭和60年)に始まるバラエティ番組『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』ではそれまでのイメージを覆し、冗談好きで笑い上戸な一面をみせ、以後バラエティ番組にも顔を出すようになります。1990年代までは、ドラマ・バラエティともにレイバンの度入りのサングラスをかけながら出演し、それがトレードマークにもなっていましたが、2000年以降はレーシック手術で視力を回復したため、メガネを外して出演していました。
2018年、社会経済学者、東大教官退職後には評論家となった西部邁(にしべ すすむ)が多摩川にて入水自殺しました。78歳没。健康面では西部は背中に持病を抱えていて激しい痛みに襲われることもあり、皮膚炎や神経痛に悩まされており、重度の頚椎症性脊髄症のため細かな作業や重量のある物を持つことができず、執筆活動が困難になっていました。自殺するまでの数年、親しい人には「死にたい」と漏らしていました。周囲に「ウソじゃないぞ。俺は本当に死ぬつもりなんだぞ」とも語っていました。テレビ朝日系列の討論番組、「朝まで生テレビ」にレギュラー出演し、保守派論客として知られました。番組開始直後は厭世的な発言に終始していました。

今日の忌日はここまで。
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