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2020年01月21日03:38

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1月21日が誕生日である人々

紀元前343年、楚の政治家、詩人の屈原(くつ げん)が生まれました。。姓は羋、氏は屈。諱は平または正則。字が原。秦の張儀の謀略を見抜き、踊らされようとする懐王を必死で諫めましたが受け入れられず、楚の将来に絶望して、紀元前278年5月5日頃、入水自殺しました。春秋戦国時代を代表する詩人としても有名です。中国において詩が作者名を伴って記録、記憶されるようになったのは、屈原が出現してからのことです。
1530年(享禄3年)、戦国時代の越後国の大名、上杉謙信が生まれました。関東管領(1561年 - 1578年)。山内上杉家16代当主。戦国時代でも屈指の戦上手とされ、その神懸った戦績から後世、軍神や「越後の虎」、「越後の龍」などと称されました。越後守護・上杉家に仕える越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の四男として生まれ、初名は長尾 景虎(ながお かげとら)。1561年(景虎31歳)、関東管領・上杉憲政の養子となり山内上杉氏の家督を譲られ(「上杉」姓と憲政の「政」の1字を与えられ)上杉政虎(うえすぎ まさとら)と改名し、上杉氏が世襲していた室町幕府の重職関東管領を引き継ぎました。後に室町幕府の将軍・足利義輝より偏諱(「輝」の1字)を受けて、最終的には輝虎と名乗りました。謙信は、さらに後に称した法号です。他国から救援を要請されると秩序回復のために幾度となく出兵し、武田信玄、北条氏康、織田信長、越中一向一揆、蘆名盛氏、能登畠山氏、佐野昌綱、小田氏治、神保長職、椎名康胤らと合戦を繰り広げました。特に宿敵武田信玄との5回にわたる川中島の戦いはよく知られています。さらに足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から北陸路を西進して越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大しましたが、天正6年3月13日(1578年4月19日)、48歳で死去。兜は、飯綱明神前立鉄錆地張兜。謙信には実子がおらず、養子とした景勝・景虎のどちらを後継にするかを決めていなかったため、謙信の死後、上杉家の家督の後継をめぐって御館の乱が勃発しました。独り身を貫いていたと言われていますが、実際には妻もしくはそれに準ずる女性がいたようです。毘沙門天の熱心な信仰家で、法力で空飛ぶことを夢見ていたようです。
1906年、実業家、映画プロデューサー、プロ野球オーナー、馬主の永田雅一(ながた まさいち)が生まれました。昭和初期から後期(1930年代後半 - 1980年代前半)に活動。大映社長として「羅生門」などを製作。プロ野球パリーグの初代総裁。大言壮語な語り口から「永田ラッパ」の愛称でも知られました。永田はマキノ兄弟との縁から1925年、日本活動写真(現・日活)京都撮影所に入所し、映画人としての道を歩みます。無声映画時代の映画のロケ現場は見物客からおひねりが飛び交い、それ自体が興行のようなものでした。永田はこのおひねりを拾い集め、撮影仲間と女郎屋へ繰り出すという毎日だった空うです。駆け出しの永田は便利屋として働き、持ち前の雄弁さと、人を外らさぬ社交術で、藤村義朗や浅岡信夫、望月圭介らに可愛がられ政界への足場を築きました。1934年、日活を退社して第一映画社を創立しました。1942年、政府の勧奨で映画会社が統合される際に、業界を東宝ブロックと松竹ブロックに二分する動きがあるのを察知すると、当局に掛け合って新興キネマと日活を軸とした第三勢力による統合を認めさせ、「大日本映画製作(大映)」の成立に成功。社員をすべて縁故で固め、その息子や親戚を採用し、自らをカリスマ化しました。映画の企画もすべて永田の意見で決められました。1951年、後述する様に個人所有していた競走馬トキノミノルが10戦全勝で東京優駿(日本ダービー)を優勝します。その3ヶ月後には『羅生門』がヴェネツィア国際映画祭グランプリ、アカデミー外国語映画賞を受賞。この『羅生門』の受賞を契機としてその後も『雨月物語』(ヴェネツィア国際映画祭 銀獅子賞受賞)『地獄門』(カンヌ国際映画祭 グランプリ受賞)等の国際的に名声を得た大作を手掛ける一方、日本初の70ミリ映画『釈迦』も手掛けました。 1953年には、松竹、東宝、東映、新東宝に呼びかけ五社協定締結を主導。各映画会社に所属する技術者や俳優の他社への出演を原則禁止しました。後にこの協定に絡み、大映の看板スターだった山本富士子や田宮二郎が永田との確執から大映を退社し、丸井太郎はガス自殺しました。長谷川一夫の引退、山本・田宮の解雇、勝新太郎の独立、養女の永田雅子と結婚させていわば娘婿の関係にあった市川雷蔵のガン死(1969年)、大型新人スター不在といった問題が重く伸し掛かり、ついに1971年12月23日に東京地方裁判所より破産宣告を受け、倒産。1947年末、アメリカ視察旅行から帰国した永田は大映作品のアメリカ市場進出のためには、自らがアメリカにおいても名の通った存在でなくてはならないことを痛感。当時、アメリカで尊敬される名誉職の一つがプロ野球オーナーであり、また元々野球好きであったことから、永田もプロ野球チームを持つことを決意しました。1948年1月、大塚アスレチックスが東急フライヤーズと合同して急映フライヤーズを名乗りますが、同年12月、別途金星スターズを買収して大映スターズを結成。以降、本来は副業として球団経営に携わっていたのが次第にプロ野球も本業となり、ついに1953年(昭和28年)パシフィック・リーグ(パ・リーグ)の総裁に就任。高橋ユニオンズの結成による8球団制の採用や、その高橋と大映の合併を契機とする6球団制への再編成と、いずれも球界再編成の主役となりました。その後、大映は1957年に高橋を吸収合併し、大映ユニオンズになった後、1958年から毎日オリオンズと対等合併して、大毎オリオンズとなりました。この時は形式上毎日新聞社との共同経営ではありましたが、法人格と各種記録は毎日が存続しつつも、経営面では大映が存続した形の逆さ合併だったため、大映側の永田がオーナーに就任し「大毎」のネーミングも自ら付けました。その2年後の1960年、大毎がパ・リーグを制し、日本シリーズで三原脩が監督の大洋ホエールズと対戦したとき、采配を巡って監督の西本幸雄と意見が衝突。前評判に反し大毎はストレート負けを喫したため、西本と電話で口論となり、永田が「バカヤロー」と言ったことをきっかけに西本は退任しました。「永田ラッパ」はここでも高らかに吹き鳴らされます。自らの映画会社のスターと同じ名前だからと「長谷川一夫」という名の選手を入団させたり、短距離走選手としてオリンピック出場経験のある飯島秀雄を代走専門選手として採用したりしました。1962年には私財を投じて東京都荒川区南千住にプロ野球専用球場・東京スタジアムを建設、その開場セレモニーでは観客に対し「今後この日本の代表的球場を愛されんことをお願い致します」と語りかけました。しかしその後、東京球場はチームの不調も重なり不入りで不採算が続き、読売ジャイアンツ(巨人、セントラル・リーグ所属の球団)のオーナー・正力松太郎がこの事態を見かねて「巨人にも東京スタジアムを使わせてほしい」と救いの手を差し伸べたものの、永田は「セ・リーグ、とりわけ巨人の世話になるのは御免だ」と、これを頑なに拒みました。1971年1月、大映の経営再建に専念するため、球団を正式にロッテへ譲渡。永田は1985年10月24日、79歳で没。
1922年、アメリカの俳優、テリー・サバラスが(Telly Savalas)生まれました。本名、Aristotle Savalas。コロンビア大学で心理学を専攻し、その後劇団を経て1959年に舞台デビュー。同じ年、『明日なき十代』で映画にもデビュー。続く『終身犯』ではアカデミー助演男優賞候補となりました。禿頭がトレードマークで、日本では特にテレビドラマ『刑事コジャック』(1973年 - 1990年)の主演で有名。日本語吹き替えは森山周一郎(主に「刑事コジャック」)が担当していました。コジャック以前は大平透が映画の吹き替えを担当していました。ダンディで颯爽としたヒーローを演じ、お茶の間で親しまれました。70年代後半になるとその個性を逆手にとって強烈な悪役や不気味なキャラクターを演じました。1994年『バック・ファイヤー!』でも健在ぶりを披露し元気な姿を見せていましたが、すでに前立腺癌に冒されていました。1994年1月22日癌で死亡。72歳没。
1931年、女優の久我美子(くが よしこ)が出生。久我家(こがけ)は村上天皇まで遡る村上源氏の流れを汲む華族の家柄。。1946年、 学習院女子中等科在学中、第一期東宝ニューフェイスに合格。同期に三船敏郎・堀雄二・伊豆肇・若山セツ子・堺左千夫らがいます。1947年、学習院を中退し、『四つの恋の物語』で映画デビュー。1950年の映画『また逢う日まで』での岡田英次との窓硝子ごしの接吻を演じました(日本の映画界では1960年代のはじめ頃まで接吻のクロースアップはタブーでした)。1954年、岸恵子・有馬稲子とともに文芸プロダクションにんじんくらぶを結成。1969年より約1年間、『3時のあなた』の司会を務めるなど、1970年代以降はテレビ・舞台を中心に活躍。1989年の映画『ゴジラvsビオランテ』では亡き夫・平田の遺志を受け継いで女性官房長官役で出演。当時史上初の女性官房長官である森山眞弓とシンクロしたことが報道されました。2004年、義姉にあたる女優・三ツ矢歌子(久我の方が年上)死去の時に、久々に公の場に姿を見せました。現在も存命。
1938年、歌舞伎役者の6代目中村東蔵が生まれました。私も歌舞伎座で観ましたが、堅実な役者ぶりでした。立て役、女形、どちらもイケます。あまたの主要な脇役をこなし現在の歌舞伎に厚みを加えています。幼いころは藤間勘左衛門を名乗り、舞台で活躍。その後藤間城太郎と名を改め、1954年 - 1957年にかけて映画で主演するなど、新進のスターとして名を売りました。また、自分で劇団を作り舞台活動もしていました。23歳で全てを投げ打って歌舞伎入りし、六代目中村歌右衛門の芸養子となりました。最近はあまり舞台に出ていないようですが、いつまでも元気でいてほしいです。
1940年、俳優の竜雷太が生まれています。1966年に日本テレビの青春ドラマシリーズ第2作『これが青春だ』の主役に予定していた夏木陽介がクランクイン2週間前に降板、プロデューサーの岡田晋吉は急きょ全くの新人を主役に抜擢して対処しようと考えます。岡田は、ドラマ『新・新三等重役』でひと言だけセリフがあったバスの運転手役の演技に強い印象を抱いたことから竜本人を呼び話を聞くと、ドラマの主人公そのものの経歴だったことから、岡田は竜を『これが青春だ』の主人公・大岩雷太役に大抜擢、竜は無名の新人から一躍スターダムにのし上がりました。1972年『太陽にほえろ!』に出演を果たし、ゴリさんこと石塚誠刑事役を1982年の殉職まで10年間(525話)務め、太陽にほえろ!では出演俳優で最多の92話に主演しました。撮影現場では、ゴリさんの役柄そのままに新人教育係を務めていて、演技のことはほとんど何も分からなかった勝野洋を指導したのは、劇中で先輩刑事・通称「ゴリさん」を演じた竜雷太でした。
1947年、俳優、タレントの高田純次が生まれました。別に高田のことは嫌いではないですが、ホント、団塊の世代には芸能人が多いなあ。1971年、自由劇場の舞台を見て俳優を志願。この時柄本明と知り合います。同劇団に入団し研究生に。1年で退団し、イッセー尾形とともに劇団「うでくらべ」を結成するも、半年ほどで解散。1977年に「劇団東京乾電池」に入団。同劇団の綾田俊樹、ベンガルらと共に『笑ってる場合ですよ!』で初めてレギュラー出演を果たします。この時はピンで「土用波三四郎」というキャスター役をつとめていたのを私は覚えています。フジテレビのバラエティ番組『オレたちひょうきん族』の番組内コント「タケちゃんマン」の敵役ブラックデビルに決定。しかし初登場回の収録後におたふく風邪にかかってしまいます。その後、当時まだ全国的には無名だった明石家さんまが代役に抜擢されましたが、たけしとの掛け合いが人気となり、そのままさんまがキャラクター出演を継続。1988年に出演した中外製薬「グロンサン」(現在はライオンから発売)のCMが話題になり、CMのキャッチコピー「5時から男」で新語・流行語大賞の「流行語部門・大衆賞」を受賞しました。1989年に独立。現在は「テキトー男」と称され、バラエティーなどで活躍。
1953年、マイクロソフト社共同創業者のアメリカ人、ポール・アレンが生まれました。マイクロソフト社をビル・ゲイツと共に創業し、大資産家として知られており、2017年時点の資産205億ドル(2兆2,500億円)、6つの財団を傘下に率いるポール・G・アレン財団を運営していました。また、アレン脳科学研究所や音楽史美術館 Experience Music Project など様々な事業に出資や寄付をしています。SF ファンとしても知られ、私財を投じて SF博物館 Science Fiction Museum and Hall of Fame を設立したほか、SETI協会にも多額の寄付を行っており、アレンの名を冠した電波望遠鏡アレン・テレスコープ・アレイの建造も進められています。アメリカのアメリカンフットボールプロリーグ(NFL)のシアトル・シーホークス、プロバスケットボールリーグ(NBA)のポートランド・トレイルブレイザーズ、プロサッカーリーグ(MLS)のシアトル・サウンダーズFCのオーナーとしても知られます。ポール・アレンの妹でバルカン社CEOジョディ・アレンは2009年11月16日、ポールが非ホジキンリンパ腫と診断されたと発表しました。その後も何度もがんを発症し、2018年10月15日に非ホジキンリンパ腫(びまん性大細胞型B細胞性リンパ腫)により65歳で死去。
1959年、俳優、タレント、歌手、ギタリストの京本政樹が生まれました。時代劇から現代劇まで幅広いジャンルのドラマで活躍。善の主役から悪の脇役までこなす俳優。シンガーソングライター、着物デザイナーとしても活動。また、端整な顔立ちとは裏腹にコミカルなキャラクターでバラエティ番組にも多数出演しています。1983年、深作欣二監督の角川映画『里見八犬伝』に犬塚信乃役で出演。アイドル雑誌などを経て、大ファンであった『必殺シリーズ』への出演を約束され、テレビ朝日系『京都マル秘指令 ザ新選組』に出演。1985年のテレビ朝日系娯楽時代劇『必殺仕事人V』の組紐屋の竜役で大ブレイクし、以降、時代劇俳優としての名が世間に浸透しました。『必殺仕事人V』以来、二枚目時代劇俳優として活動していましたが、1993年、野島伸司脚本のドラマ『高校教師』の藤村知樹役でイメージが一転。女生徒を強姦する英語教師という過激な演技で注目されることとなりました。これ以降、『高校教師』のイメージが本人のイメージとして付きまとうのが本人の悩みの種にもなりますが、翌1994年には再び野島伸司作品の日本テレビドラマ『家なき子』でニヒルな医師・黒崎和彦役でも注目されました。以来、主役級で時代劇に出演しながらも、2時間サスペンスで犯人役を演じたりと、役幅を広げています。
1965年、元AV女優の黒木香(くろき かおる)が生まれました。横浜国大に入学するも周囲より4歳年上だったことがコンプレックスだったそうです。在籍中の1986年にイタリア留学の費用を自ら工面するため、アダルトビデオ (AV) に出演。デビュー作『SMぽいの好き』(クリスタル映像)が異例の大ヒットを記録し、一般にもその名を知られます。私は未見ですが、騎乗位で笛を吹いていたとか。一人称は「わたくし」で、「私思いますに……でございます」と丁寧な言葉遣いや話し方でしたが、内容は言葉の端々に性交に関することを織り交ぜました。その特異な個性が重宝されてテレビ番組に多数出演。
1982年、プロレスラーの潮崎豪が生まれています。プロレスリング・ノア所属から2013年にフリーに、さらにノアに再入団。現役で私が好きなプロレスラーの一人。デビュー後しばらくは小橋建太の弟分として活躍していましたが、その後一本立ち。まだまだ活躍してほしい選手です。

次は忌日。
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