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2020年01月15日11:06

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1月15日が忌日である人々

1455年(享徳3年)、関東管領の上杉憲忠が5代鎌倉公方・足利成氏に謀殺されて、28年間断続的に続いた享徳の乱のきっかけとなりました。
1895年、江戸時代後期〜明治時代の日本の皇族、政治家、軍人、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)が明治27年(1894年)に勃発した日清戦争において、熾仁親王は参謀総長として広島大本営に下りますが、この地で腸チフス(当初はマラリアと診断された)を発症し、兵庫県明石郡垂水村舞子の有栖川宮舞子別邸にて静養に入ります。症状は一旦軽快したものの翌明治28年(1895年)に入って再び悪化し、池田謙斎やエルヴィン・フォン・ベルツらによる治療もむなしく1月14日にはついに危篤に陥りました。その知らせを受けた明治天皇はこの日、熾仁親王への大勲位菊花章頸飾授与を決定。翌1月15日、舞子別邸にて61歳で薨去。戊辰戦争の東征総督でありました。
1898年、『読売新聞』を創刊した子安峻(こやす たかし)が62歳で亡くなりました。
1919年、ポーランドに生まれドイツで活動したマルクス主義の政治理論家、哲学者、革命家、ローザ・ルクセンブルクがベルリンで、反革命派の復員軍人を主体とした義勇軍フライコールに逮捕され、数百人の同志と同様に2人とも殺害されました。ミハイル・トゥガン=バラノフスキーとルドルフ・ヒルファーディングの不比例説に対してカール・カウツキーとともに消費制限説で対峙し、ミハウ・カレツキに影響を与えました。彼女はポーランド王国社会民主党の理論家であり、のちにドイツ社会民主党、ドイツ独立社会民主党(ドイツ社会民主党左派)に関わるようになりました。機関紙『Die Rote Fahne(赤旗)』を発刊し、革命組織スパルタクス団を母体としてドイツ共産党を創設、1919年1月にはベルリンでドイツ革命に続いて1月蜂起を指導していたさなかの逮捕、虐殺でした。死後、多くのマルクス主義者や社会主義者のあいだでは、同じく虐殺された盟友のカール・リープクネヒトとともに、革命の象徴的存在とされています。後にその思想はルクセンブルク主義とも呼ばれます。
1988年、アイルランドの国際政治家、ショーン・マクブライドが83歳で死去。アイルランドの国内政治家として経験を積んだ後、20世紀初頭に、国際連合、欧州評議会、アムネスティ・インターナショナルなどを含めた多くの非政府組織を創設、参加しました。1974年にはノーベル平和賞を、1975年にはアメリカ正義メダルを、1975年から1976年にはレーニン平和賞を、1980年にはユネスコシルバーメダルを受賞しました。
2013年、映画監督の大島渚が神奈川県藤沢市の病院で肺炎により死去。80歳没。京都大学卒業後、1954年(昭和29年)に松竹に入社。大船撮影所で大庭秀雄や野村芳太郎などの元で助監督を務めました。1959年(昭和34年)、長編『愛と希望の街』で映画監督としてデビュー。翌1960年(昭和35年)の『青春残酷物語』や『太陽の墓場』といったヒット作により、篠田正浩や吉田喜重とともに松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手として知られるようになりました。1960年(昭和35年)10月、日米安全保障条約に反対する安保闘争を描いた『日本の夜と霧』を発表。しかし、同作は公開から4日後、松竹によって大島に無断で上映を打ち切られます。大島はこれに猛抗議し、1961年(昭和36年)に同社を退社。同年に大島と同時に松竹を退社した妻で女優の小山明子、大島の助監督でその後脚本家として活動する田村孟、同じく脚本家の石堂淑朗、俳優の小松方正、戸浦六宏の6名で映画製作会社「創造社」を設立。その後、同社には俳優の渡辺文雄らが加わりました。1976年(昭和50年)、阿部定事件(1936年)を題材に社会の底辺に住む男女の性愛を描いた『愛のコリーダ』を発表。本番行為も撮影したこの映画で大島は欧州を中心とした世界へ進出。1983年(昭和58年)にはビートたけしや坂本龍一、デヴィッド・ボウイなど異色のキャスティングが話題となった国際的合作『戦場のメリークリスマス』を発表。1980年代後半からは『朝まで生テレビ』のレギュラーパネリストとなり、テレビ番組のコメンテーターとしても活動しました。視聴者がそろそろ眠くなる頃、とつぜん大声で怒鳴りだし、パネラーの誰かに絡みつくという役割を演じていました。私は新幹線の小田原駅で列車を待つ椅子で向かい合わせになったことがあります。駅弁にパクリつく私を、新聞を片手にした大島は鋭い目つきで一望すると、指定席列車の乗降口と思しき場所へと移動していきました。やけに直線的なフォルムの後頭部が印象的でした。大島の自宅は神奈川県にあり、妻の実家が大阪だったので、そこを目指してひかりに乗ったのでしょう。
2015年、声優、俳優の大塚周夫(おおつか ちかお)が青二プロダクションの新年会終了後に帰宅するために乗った地下鉄内で倒れ、虚血性心疾患のため東京都新宿区の病院で死去。85歳没。劇団東芸、劇団俳優小劇場、芸能座などで活動し、最後は青二プロダクションに所属していました。『ゲゲゲの鬼太郎(第1作)・(第2作)』で演じたねずみ男で有名ですが、本人もお気に入りであり、人間の本質でもあるいい加減さを体現したキャラクターに共感を覚えると語っていたそうです。

明日も頑張ります!
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