mixiユーザー(id:5138718)

2019年12月10日03:34

64 view

12月10日が忌日である人々

1603年、イギリスの医師、物理学者、自然哲学者、ウィリアム・ギルバートがロンドンで死去。死因は腺ペストと言われています。63歳。コペルニクスの地動説を早くから支持し、当時支配的だったアリストテレス哲学とそれに基づく学校教育を積極的に拒絶しました。医師としての仕事のかたわら静電気、磁石の研究をおこないました。今日、主に著書 De Magnete (1600) で知られており、電気 (electricity) という言葉を作った1人とされています。また、versorium と名付けた回転する針のような検電器を発明しており、電気計測機器の祖とされています。 ギルバートの研究は、実験を用いた近代的な科学の先駆けとして、多くの科学者に多大な影響を及ぼし、電気工学や電気と磁気の父とされることもあります。
1852年(嘉永5年10月29日)、都々逸の祖として知られる寄席芸人、都々逸坊扇歌(どどいつぼう せんか)が48歳で死去。落語家の初代船遊亭扇橋に弟子入りし、よしこの庵山歌から都々逸坊扇歌と改名し、江戸牛込の藁店(わらだな)という寄席を中心に活躍しました。 その芸は、都々逸をはじめとした唄・三味線だけでなく、「なぞ坊主」の異名を取るほど謎かけに長けていました。 やがて、江戸で一番の人気芸人となり、八丁四方では寄席の入りが悪くなるという意味で、仲間うちから「八丁あらし」とあだ名されました。天保時代には上方にも出向き活躍。代表曲に東海道五十三驛や新板おもしろ節があります。都々逸坊扇歌の名は昭和の7代目まで続きましたが、現在は空席。
1855年(安政2年)、武士、剣術家の千葉周作が数え63歳で亡くなりました。周作5歳のころ、父は周作だけ連れて家出をし、宮城県栗原郡荒谷村の斗瑩稲荷神社境内に居を構えます。周作は、ここで北辰夢想流を学びました。15、6歳の時に、父と共に松戸に移り、中西派一刀流の浅利義信に入門。その後、一刀流中西道場に入門、中西子正(浅利義信の師匠)、寺田宗有などの指南を受けて腕を磨き、一時は浅利義信の婿となって後を継ぎました。後に組太刀の改変を考え、浅利義信の立場を重んじ、妻(浅利の養女)を連れて独立して、北辰夢想流と中西派一刀流を合法して、北辰一刀流を創始したのです。江戸に帰り、文政5年(1822年)秋、日本橋品川町に玄武館という道場を建て、後に神田於玉ヶ池に移転し、多数の門人を抱えて、江戸剣術の一大流派となりました。周作の門下から幕末の重要人物を多数輩出しています。主な人物として浪士組幹部の清河八郎、山岡鉄舟、新選組幹部の山南敬助などが挙げられ、門弟の井上八郎、四天王塚田孔平、海保帆平、森要蔵らは優れた剣客として名を上げました。
1865年、ベルギー初代国王、レオポルド1世がブリュッセルにて74歳で死去。果敢な軍人でもあり、フリーメイソンでもありました。姪のイギリス王女ヴィクトリアと甥のアルブレヒト公子の良き相談相手であり、2人からとても信頼され、慕われていた叔父でした。レオポルド1世は、後にこの2人を結びつける役割を果たしました。2人を結婚させようと考えたのは、国王になったとはいえベルギーはあまりにも小さく、他の国々へもさらなる勢力拡大を図るため、ザクセン=コーブルク=ゴータ家とイギリス王室を結びつけようとしたためといわれています。
1867年(慶応3年11月15日)、江戸時代末期の志士、土佐藩郷士の坂本龍馬が大政奉還成立の1か月後に近江屋事件で中岡慎太郎、山田藤吉らとともに暗殺されました。暗殺者は諸説ありますが、京都見廻組という説が有力です。西郷隆盛との出会い、薩長同盟の成立、船中八策など、後世に脚色されたものも多く、美化、偶像化されているきらいはあります。
1896年、ダイナマイトの発明で知られるスウェーデンの化学者、発明家、実業家、アルフレッド・ノーベルが1896年12月7日、サンレーモにて脳溢血で倒れます。倒れる1時間前までは普通に生活し、知人に手紙を書いていました。倒れた直後に意味不明の言葉を叫び、かろうじて「電報」という単語だけが聞き取れたとそうです。これが最後の言葉となりました。急ぎ親類が呼び寄せられますが、3日後に63歳で死亡しました。ダイナマイト以外にも350もの特許を取得していました。1895年11月27日、財産の大部分をあてて国籍の差別なく毎年授与するノーベル賞を創設するとした遺言状に署名しました。税と個人への遺産分を除いた全財産の94%、3122万5千スウェーデン・クローナを5部門のノーベル賞創設に割り当てています。
1976年、噺家の5代目古今亭今輔が胃潰瘍で死去。享年78。俗にいう「お婆さん落語」で売り出し、「お婆さんの今輔」と呼ばれました。「古典落語も生まれた時は新作落語」と口癖のように主張していますが、最晩年には「やっぱり古典にはかなわない」と述べました。残された音源に、古典落語の「もう半分」があります。古典落語は怪談噺が本格派。三遊亭圓朝作の長編人情話『塩原多助一代記』も演じています。新作を中心としていたのは、上州訛りがあったから。
1991年、評論家、翻訳家の山本七平が 膵臓癌により千代田区四番町の自宅で死去。69歳。山本書店店主。日本社会・日本文化・日本人の行動様式を「空気」「実体語・空体語」といった概念を用いて分析しました。これは非常に優れた考察だと私は思います。その独自の業績を総称して「山本学」と呼ばれます。1970年には一世を風靡した『日本人とユダヤ人』をイザヤ・ベンダサンの名で山本書店より発売。フリーランスジャーナリストの稲垣武は、PHP研究所主催の研究会での説明および夫人の山本れい子の証言をもとに『怒りを抑えし者』(PHP研究所、1997年)「第9章ベンダサンとその時代」において、『日本人とユダヤ人』は、2人のユダヤ人(ローラーとホーレンスキー)との対話を参考とはしているが、構成も文章も山本のものと結論付けています。
1999年、漫画家のわちさんぺいが咽頭癌のため死去。73歳。戦後、中国新聞などでの連載を経て1954年に上京、本格デビューしました。少女漫画や秘境もの、航空もの、SFなどのさまざまなジャンルの作品を発表していました。1960年前後に最盛期を迎えます。代表作は『火星ちゃん』。谷岡ヤスジは元アシスタント。
2001年、物真似師(寄席芸人)、俳優の3代目江戸家猫八が心不全のため東京都青梅市の病院で逝去。80歳没。広島に原爆が投下された1945年8月6日当時、23歳の猫八は同市内宇品(現・広島市南区)に駐屯する陸軍船舶砲兵第1連隊(暁2953部隊)の「岡田六郎兵長」として軍務に従事していました。復員後は生涯にわたって二次被爆が原因と思われる体調不良と戦い続けることとなりました。1956年、三遊亭金馬(当時は小金馬)・一龍斎貞鳳とNHK「お笑い三人組」(八ちゃん役)に出演。11年つづきました。1979年 落語協会から落語芸術協会に移籍。落語協会では色物に舞台の主任(トリ)をとらせない決まりがあったため、色物でも主任をとることができる落語芸術協会に移籍しました。物真似は主に動物や虫の鳴き声。父は初代江戸家猫八。落語家の三遊亭歌司は長女の夫、四代目江戸家猫八(初代江戸家小猫)は長男、江戸家まねき猫は次女、江戸家猫ハッピーは三女、2代目江戸家小猫は孫(四代目猫八の長男)。
2010年、大阪の元夫婦コンビの漫才師、「正司敏江・玲児」の正司玲児が体調を崩し、同年11月には一旦舞台に復帰したものの、12月10日に成人T細胞白血病リンパ腫で死去、71歳没。いわゆる「どつき漫才」の典型。最初は一方的に張られていた敏江でしたが、玲児に逆襲すると更にウケる事を発見し、嫁主導の夫婦どつき漫才の型を確立、一躍注目を浴びました。1971年、TBS系ドラマ『時間ですよ』(第2シリーズ)にレギュラー出演(共演/森光子、松原智恵子、堺正章、天地真理、他) 。1970年代、世間で仮面ライダーが流行っていた若い頃には「ライダーキック!」の掛け声と共に飛び蹴りしたり、敏江もサービス精神を発揮し、振袖の裾をはだけてのパンツ開帳を定番ギャグにするなど、生傷の絶えない熾烈な芸にエスカレートしていきました。 私は玲児の晩年に大阪の寄席で二人の漫才を見ました。どつきはもうやらず、30分に及ぶトリの高座は大半が玲児の歌でした。笑いは敏江による「この男はなあ、歌は上手いけど、嫁はんをほかした(捨てた)んや」のみでした。
2012年、俳優、タレント、俳人、エッセイスト、芸能研究者、元放送大学客員教授の小沢昭一が前立腺がんのため、東京都内の自宅で死去しました。83歳没。学生時代、寄席通いのさなか、出会った演芸評論家・作家の正岡容の知遇を得て弟子になります。桂米朝、大西信行、加藤武らとは正岡門下の兄弟弟子の関係です。1949年(昭和24年)、早稲田大学在学中に俳優座付属俳優養成所の二期生となり、千田是也に師事します。1960年(昭和35年)には演出家の早野寿郎と「劇団俳優小劇場」を結成。俳優小劇場はのち、1971年(昭和46年)に解散。川島雄三の『愛のお荷物』、『洲崎パラダイス赤信号』、そして『幕末太陽傳』で、脇役ながらその存在感を示しました。その後、今村の『エロ事師たちより 人類学入門』で主役を務め、1966年(昭和41年)の「キネマ旬報」主演俳優賞、「毎日映画コンクール」男優主演賞など多数の賞を獲得しました。個性派のバイプレイヤーとして、200本以上の映画に出演しています。また、放浪芸の収集、発掘に深い関心を寄せ、記録、保存、著述、そして実践を行うようになります。1971年(昭和46年)には全国を廻って収集した音源を元に制作したレコード『日本の放浪芸』LP7枚組を発売し、1971年度の第13回日本レコード大賞企画賞を受賞。続編の『又・日本の放浪芸』は、1974年度の芸術選奨新人賞を受賞。以降も、次々と続編を制作しました。1975年(昭和50年)、小沢が主宰し加藤武、山口崇、山谷初男らと劇団「芸能座」を旗揚げします(旗揚げは永六輔作『清水次郎長伝・伝』で全国を巡業)。1980年(昭和55年)までその活動は続きました。1973年(昭和48年)には、TBSラジオの『小沢昭一の小沢昭一的こころ』が放送開始されました。野坂昭如、永六輔と「中年御三家」を結成し、1974年(昭和49年)の武道館でのコンサートはビートルズ以来と言われるほど盛況でした。1982年(昭和57年)には「俳優が小沢一人」の劇団「しゃぼん玉座」を創設し、晩年まで活動を行いました。個人的な思い出としては、タイトルは忘れましたが、映画に黒塗りで黒人に扮し、「ユー・アー・マイサンシャイン? マイ・オンリー・サンシャイン」と言っていたのが印象に残っています。
2013年、アメリカのジャズ・ギタリスト、ジム・ホールがマンハッタンの自宅で死去。享年83歳。ソニー・ロリンズ、アート・ファーマー、ビル・エヴァンスなど著名なミュージシャンと長年共演しており、多くのミュージシャンがホールからの影響を受けています。1955年よりチコ・ハミルトン楽団で活動。1957年、初のリーダー・アルバム『ジャズ・ギター』発表。1960年から1961年にかけてエラ・フィッツジェラルドのバックを務め、傑作ライブ・アルバムとして名高い『マック・ザ・ナイフ-エラ・イン・ベルリン』にも参加。1962年にはビル・エヴァンスとの連名で『アンダーカレント』を録音し、また、ソニー・ロリンズやアート・ファーマーのリーダー・アルバムにも参加。1969年、12年ぶりのリーダー・アルバム『ジム・ホール・イン・ベルリン』発表。1972年、ロン・カーターと連名で制作したベースとギターのデュオ作品『アローン・トゥゲザー』が話題となりました。1975年には、チェット・ベイカー(tp)、ポール・デスモンド(as)などを迎えて録音したリーダー・アルバム『アランフェス協奏曲』が大ヒット。ここでは4ビートジャズでは冴えないはずのスティーヴ・ガッドも大活躍しています。

今日の分はここまで。
15 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを投稿する