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2019年12月09日03:56

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12月9日が忌日である人々

1916年、小説家、評論家、英文学者の夏目漱石が1910年(明治43年)6月、『三四郎』『それから』に続く前期三部作の3作目にあたる『門』を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院。同年8月、療養のため門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ、菊屋旅館で転地療養します。しかしそこで胃疾になり、800gにも及ぶ大吐血を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥ります。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件です。この時の一時的な「死」を体験したことは、その後の作品に影響を与えることとなりました。漱石自身も『思い出すことなど』で、この時のことに触れています。最晩年の漱石は「則天去私」を理想としていましたが、この時の心境を表したものではないかと言われます。『硝子戸の中』では、本音に近い真情の吐露が見られます。同年10月、容態が落ち着き、長与病院に戻り再入院。その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられます。1911年(明治44年)8月、関西での講演直後、胃潰瘍が再発し、大阪の大阪胃腸病院に入院。東京に戻った後は、痔にかかり通院。1912年(大正元年)9月、痔の再手術。同年12月には、『行人』も病気のため初めて執筆を中絶します。1913年(大正2年)は、神経衰弱、胃潰瘍で6月頃まで悩まされます。1914年(大正3年)9月、4度目の胃潰瘍で病臥。作品は人間のエゴイズムを追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』へと繋がっていきます。1915年(大正4年)3月、京都へ旅行し、そこで5度目の胃潰瘍で倒れます。6月より『吾輩は猫である』執筆当時の環境に回顧し、『道草』の連載を開始。1916年(大正5年)には糖尿病にも悩まされます。その年、辰野隆の結婚式に出席して後の12月9日、体内出血を起こし『明暗』執筆途中に自宅で死去(49歳10か月)。代表作は『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こゝろ』など。明治の文豪として日本の千円紙幣の肖像にもなり、講演録「私の個人主義」も知られています。江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学びます。帝国大学(のちの東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めたあと、イギリスへ留学。帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、『吾輩は猫である』を雑誌『ホトトギス』に発表。これが評判になり『坊っちゃん』『倫敦塔』などを書きます。その後朝日新聞社に入社し、『虞美人草』『三四郎』などを掲載。当初は余裕派と呼ばれました。「修善寺の大患」後は、『行人』『こゝろ』『硝子戸の中』などを執筆。「則天去私(そくてんきょし)」の境地に達したといわれます。漱石は朝日新聞社から給料をもらっていたので、他の一般の文士と違い、生活保護など受けずにすみました。一部の流行作家を除けば、原稿料と印税だけでは、なかなか生活は成り立ちません。
1937年、スウェーデンのエンジニア、企業家のニルス・グスタフ・ダレーンが68歳でストックホルムにて死去。スウェーデンのAGA社の創業当時からの一員であり、ダレーン式灯台やAGAクッカー(オーブンの一種)などを発明しました。1912年には「灯台や灯浮標(ブイ)などの照明用ガス貯蔵器用の自動調節機の発明」でノーベル物理学賞を受賞しました。
1989年、作家の開高健が食道癌の手術後、『珠玉』を脱稿するも東京都済生会中央病院に再入院、食道腫瘍に肺炎を併発し死去。58歳没。代表作は『裸の王様』『日本三文オペラ』。1954年2月22日、すでに壽屋社員であった羊子が育児のため退社するのに伴い、後任者として壽屋宣伝部に中途採用され、PR誌『洋酒天国』の編集やウイスキーのキャッチコピー(トリスウイスキーの「人間らしくやりたいナ」が有名)を手がけます。この時代に『裸の王様』で芥川賞を受賞しました。熱心な釣師としても知られ、日本はもちろんブラジルのアマゾン川など世界中に釣行し、様々な魚を釣り上げ、『オーパ!』、『フィッシュ・オン』など釣りをテーマにした作品もたくさんあります。現在では浸透している「キャッチ・アンド・リリース(釣った魚を河に戻す)」という思想を広めたのも開高だと言われています。また食通でもあり、食と酒に関するエッセイも多数あります。食通なのにモルトを一滴も使わない、かつ世界でも奇異の眼で見られるウイスキーを食中主として浸透させたサントリーで禄を食んでいた奇特なお方。
1994年、農芸化学者の坂口謹一郎が87歳で死去しました。発酵、醸造に関する研究では世界的権威の一人で、「酒の博士」として知られました。現在とは違い、アルコールや糖分を添加した「三増酒」と言われる日本酒が蔓延していた時代にあって、純米酒など良質な酒を提唱していました。微生物の培養に用いられる坂口フラスコを発明した他、文化面では新春歌会始の召人も務め、歌人としても知られました。
2015年、作家の野坂昭如が自宅で意識が無い状態にあったのを発見され、都内の病院に搬送されましたが心不全による死亡が確認されました。85歳没。小説『エロ事師たち』で1963年に作家デビュー。福井県で妹を亡くした経験から贖罪のつもりで『火垂るの墓』を記しています。1967年には、『火垂るの墓』『アメリカひじき』で直木賞受賞。また、社会評論も多数執筆するようになり、「焼跡闇市派」を名乗りました。総選挙では野坂は、田中角栄に挑む形で同じ新潟3区から立候補し、全国的な注目を集めましたが、遊説中に暴漢に斬りつけられるアクシデントにも見舞われ、22万票余りを獲得した田中を脅かすには至らず、他の改選候補の議席も奪えずに落選しました。放送作家としての別名は阿木由起夫(あき ゆきお)、シャンソン歌手としての別名はクロード野坂(クロード のさか)、落語家としての高座名は立川天皇(たてかわ てんのう)、漫才師としての野末陳平とのコンビ名はワセダ中退・落第(わせだちゅうたい・らくだい)。「伊東に行くならハ・ト・ヤ♪」の作詞は彼。ニッカウイスキーのてれび1973年2月21日、編集長を務めていた月刊誌『面白半分』に掲載した「四畳半襖の下張」(永井荷風著)について、刑法175条「猥褻文書の販売」違反に問われ起訴されます。1976年4月27日、東京地裁にて有罪判決(罰金刑)。1980年11月に最高裁は上告を棄却し、有罪が確定しています。2003年に脳梗塞で倒れてからテレビCMでは「ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか♪」と歌っていました。2003年に脳梗塞で倒れてからはリハビリを続けながら執筆活動を行ない、テレビ・ラジオには出演しなかったものの、TBSラジオ『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』『六輔七転八倒九十分』の「野坂昭如さんからの手紙」というコーナーで12年間、毎週近況を報告していました。プロレスファンとしては日本ラグビー代表選手であった原進が国際プロレスに入団したとき、「阿修羅・原」とリングネームを付けたことが思い出深いです。

今日の分はここまで。
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コメント

  • mixiユーザー

    mixiユーザー2019年12月09日 17:32
    『三四郎』『それから』『門』は次男が某大学の理工学部の進んでしばらくした頃、この3冊を読んだ後、「もっと早く読んでおけばよかった」と感想を漏らした。今の中高では教師はこういう本を推薦しないのかと思った。
    この3部作に加えて『虞美人草』『草枕』『心』くらいは若い人に読んでもらいたいと思ってる。

    >月刊誌『面白半分』に掲載した「四畳半襖の下張」

    団塊の世代が大学時代に出版されたけど、案の定亡兄はこの本を持っていて貸してくれました。ちなみに野坂氏の家は徒歩で我が家から12~3分のところ。遊歩道を雑種だと思いますが愛犬と散歩されてるすがとぉ数度見たことがあります。

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