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2019年12月06日00:12

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12月6日が忌日である人々

350年ごろ、キリスト教の主教(司教)、神学者、ミラのニコラオス(聖ニコラウス)が老いた後、安らかに永眠し、その遺体はミラの堂に葬られました。冤罪の人々を救ったり、教区の貧しい娘にひそかに持参金をめぐんだという伝承があることから、サンタクロースのモデルになりました。海運の守護聖人であり、海運国オランダで、またベルギーのフランデレン地域、ドイツなどでも崇敬を集めています。
1633年(寛永10年)、徳川秀忠の三男、駿河國の大名、徳川忠長が幕命により高崎の大信寺において自刃。享年28。秀忠死後、甲府に台徳院殿(秀忠)供養の寺院建立や、加藤忠広改易の際に風説を流布したとして改易となり、領国全てを没収され、10月20日に安藤重長に預けられる形で上野国高崎へ逼塞の処分が下されていました。行ったことごとくが問題であったり、父の秀忠や兄である3代将軍、家光の心証を悪くすることばかりでした。
1700年(元禄13年)、常陸水戸藩の第2代藩主、徳川光圀が72歳頃から食欲不振が目立ち始め、食道癌のため死去しました。享年74(満73歳没)。水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。徳川家康の孫に当たります。幼少時には、兄(頼重)を差し置いての世子決定が光圀の気持ちに複雑なものを抱かせたといわれ、少年時代は町で刀を振り回したりする不良な振る舞いを行っており、吉原遊廓通いも頻繁にしていました。さらには辻斬りを行うなど蛮行を働いています。「水戸黄門」として知られますが、これは水戸藩主で中納言・権中納言に任命された「水戸中納言」の唐名(漢風名称)。水戸藩主で中納言・権中納言に任命されたのは頼房、光圀、綱條、治保、斉脩、斉昭、慶篤であるため、水戸黄門は7人いたということになります。テレビの時代劇である『水戸黄門』では日本全国を諸国漫遊していますが、光圀は遠出といっても鎌倉にある養祖母・英勝院の菩提寺(英勝寺)に数度足を運んだ程度です。当時の人物としては普通に衆道のたしなみもありました。儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくりました。日本の歴史上、最初に光圀が食べたとされるものは、餃子、チーズ、牛乳酒、黒豆納豆があります。ラーメンも光圀が最初と言われてきましたが、光圀が食した時期より200年以上前の『蔭涼軒日録』(相国寺の僧による公用日記)に、ラーメンのルーツとされる経帯麺を食べたことが記されていたことが2017年に判明しました。肉食が忌避されていたこの時代に、光圀は5代将軍徳川綱吉が制定した生類憐れみの令を無視して牛肉、豚肉、羊肉などを食べていました。72歳頃から食欲不振が目立ち始め、元禄13年12月6日(1701年1月14日)に食道癌のため死去しました。享年74(満73歳没)。
1887年、江戸時代末期から明治時代初期にかけての政治家、島津久光が死去、享年71。国葬をもって送られましたが、東京ではなく鹿児島での国葬となったため、葬儀のために道路が整備され、熊本鎮台から儀仗兵1大隊が派遣されました。島津家27代当主(薩摩藩10代藩主)島津斉興の五男で庶子。幕末の薩摩藩における事実上の最高権力者で、公武合体運動を推進しました。明治政府の内閣顧問、左大臣。重富島津家当主、のち玉里島津家初代当主。明治10年(1877年)2月に西郷隆盛らが蜂起して西南戦争が勃発すると、政府は久光の動向を憂慮して勅使・柳原前光を鹿児島に派遣し上京を促しましたが、久光は太政大臣・三条実美への上書において中立の立場にあることを表明、代わりに四男・珍彦、五男・忠欽を京都に派遣します。また戦火を避けるため、桜島に一時避難しました。
1975年、弁護士の正木ひろしが89歳で死去しました。本名は旲(ひろし)ですが、自ら「正木ひろし」「まさき・ひろし」の表記を好んで用いました。1939年、雑誌「近きより」を発刊。正木はこの雑誌を拠点として、時の首相東條英機への苛烈な批判など、日本の行く末を憂える言説を繰り広げることとなります。度重なる廃刊要請を無視して「近きより」はほぼ月刊を維持、敗戦後の1949年まで発行されました。なお雑誌寄稿者中には長谷川如是閑、内田百痢武者小路実篤、馬場恒吾、読後感想を寄せた購読者には宇垣一成、小林一三、坪田譲治、藤田嗣治、三木清、萩原朔太郎、ラス・ビハリ・ボースなどの名前もあり、正木の交友関係の広さをうかがわせます。1944年に警察による被疑者への暴行致死疑惑(首なし事件)が発生した時は、取調べ中に死亡した被疑者の遺体の首を持ち帰って医師の鑑定をし、特別公務員暴行陵虐致死罪で警察官を告発。「近きより」紙上でもキャンペーンを張るなど、当時は公然の秘密だった官憲の拷問というタブーに立ち向かったことで注目されました。警察官は1955年に有罪が確定。戦後の正木は教員時代からの反天皇制主義の姿勢を明確にし、プラカード事件の弁護を行うなど共和主義の立場から先鋭な言論を展開しました。なお、死去後の1979年、旺文社文庫から刊行された完全版『近きより』(全5巻) が、毎日出版文化賞特別賞を受賞。
1989年、俳優の中村是好が89歳で死去。誕生日が同じなので、詳しくはそちらをご覧ください。
2008年、作曲家の遠藤実が急性心筋梗塞のため東京都内の病院で死去。76歳没。作曲家として世に送り出した楽曲は5000曲以上(その大部分は演歌)と言われ舟木一夫、千昌夫、森昌子など多くの歌手を育てました。また、遠藤本人が作詞も併せて行った作品も一部存在します(橋幸夫、千昌夫、山本リンダ、こまどり姉妹、渥美二郎等の楽曲)。1957年、日本マーキュリーより発売された「お月さん今晩わ」(作詞:松村又一、歌:藤島桓夫)がヒット。1958年、日本コロムビアから「からたち日記」(作詞:西沢爽、歌:島倉千代子)を発表し大ヒット。1968年に太平音響株式会社代表の中山幸市が死去すると、太平音響の2代目社長に就任し、社名をレーベル名と同名のミノルフォンに改名します。先に創業した日本クラウンに続き、自前のプレス工場を持たず制作とプロモーションに特化して、アーティスト主導の運営を打ち出した新業態レコード会社の嚆矢の一社としました。その後、1972年に徳間康快(徳間書店)に買収され徳間音楽工業と改称、さらに系列レーベルの別会社ジャパンレコードと合併して徳間ジャパン(現:徳間ジャパンコミュニケーションズ)に改組しました。
2012年、俳優の佐藤允(さとう まこと)が急性肺炎のため死去。78歳没。高校卒業後、1952年に俳優座養成所に第4期生として入団(同期には宇津井健・佐藤慶・仲代達矢・中谷一郎ら)。なお、佐藤、仲代、中谷の3人は、後年に岡本喜八の「喜八ファミリー」の一員と見なされました。劇団のユニット出演で『坊っちゃん』や『思春の泉』に佐藤充名義で出演した後、映画監督の谷口千吉からプロデューサーの藤本真澄を紹介されて1956年に東宝へ入社。同年に『不良少年』で映画デビュー。1958年、『俺にまかせろ』で初主演。東宝退社後、1970年代は千葉真一主演作品の助演や、1972年のサントリー・ビールや紳士服の一色のCMにも出演。個人的にはテレビドラマの『水滸伝』での楊志 役や、『夜明けの刑事』での柴田課長を演じた際、「良かったな」のセリフが九州弁丸出しだったのが印象に残っています。
2017年、太神楽(だいかぐら.寄席での曲芸)師コンビ、「海老一染之助・染太郎」のメインの曲芸担当、海老一染之助が肺炎のため東京都内の病院で死去。83歳没。弟の染太郎が「おめでとうございま〜す!」と叫び、「いつもより余計に回しています」と言うのはお正月のTVの風物詩でした。舞台での兄弟の掛け合いは見事なものでしたが、実生活では兄弟仲が悪く、楽屋で喧嘩になることもあったそうです。

今日の分はここまでです。
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