mixiユーザー(id:5138718)

2019年11月18日03:22

122 view

11月18日が誕生日である人々

1522年、オランダ、フランドルの軍人、政治家、エフモント伯ラモラル(ラモラール・ファン・エフモント)が生まれました。スペインからの独立運動の指導者。1567年、新総督アルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレドがスペインから着任するとただちに逮捕され、翌年6月5日の裁判でモンモランシーとともに死刑を宣告されてブリュッセルで斬首刑に処されました。享年45。
1647年、フランスの哲学者、思想家のピエール・ベールが生まれました。『歴史批評辞典』などを著して神学的な歴史観を懐疑的に分析し、啓蒙思想の先駆けとなりました。1682年に『彗星に関する手紙』、翌年に増補改訂版として『彗星雑考』を匿名で刊行。彗星の出現に関する迷信を批判して道徳の宗教からの自立性を説き、スピノザらの存在を強く主張。1684年春から1687年冬にかけ、月刊誌『文芸共和国便り』を刊行。全西欧的な名声を得ます。1685年のフォンテーヌブローの勅令(ナントの勅令廃止)直後に『〈強いて入らしめよ〉というイエス・キリストの御言葉に関する哲学的注解』を刊行。新教徒迫害に対して良心の自由と宗教的寛容を訴えます。これは王権に寛容を請願しようとするものでしたが、年来の同僚であったピエール・ジュリューら王権打倒を唱える強硬派の方針と対立。以後はかねてから計画を温めていた執筆活動に専念。1696年に『歴史批評辞典』を刊行。これは驚異的な博識と卓抜な批判精神をもとに、従来の歴史辞典の誤記や不正確を正し、なおかつ既存の硬化した哲学体系、宗教体系に対する痛烈な批判と皮肉を込めた作品でした。1706年12月28日、ロッテルダムで客死。
1786年、ドイツロマン派初期の作曲家、指揮者、ピアニスト、カール・マリア・フォン・ウェーバー(カール・マリア・フリードリヒ・エルンスト・フォン・ウェーバー)が生まれました。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトによるドイツオペラの伝統を継承し、自らの『魔弾の射手』によってドイツ・ロマン派のオペラ様式を完成、そしてリヒャルト・ワーグナーへと流れを導いた作曲家として重要です。11歳で初めてオペラを作曲し、『魔弾の射手』や『オベロン』などのオペラのほか、『舞踏への勧誘』などの器楽曲も残します。また、オーケストラの配置を現在に近い形に改めたり、指揮棒を初めて用いた人物としても知られます。演奏旅行中のロンドンで客死しました。39歳没。
同じく1786年、イギリスの作曲家、ヘンリー・ローリー・ビショップが生まれました。舞台音楽の専門家。一般に現在ではほとんど忘れられていますが、日本では唱歌「埴生の宿」の作曲者としてかろうじて記憶されています。1804年に『アンジェリーナ』と題された小品を作曲。次に手懸けたバレエ音楽『タマルランとバヤジット』は1806年に王立劇場で上演されました。これが成功したため、さらに数作のバレエ音楽を手懸けました。1809年の最初の歌劇『チュルケスの花嫁』はドルーリー・レーン劇場で上演されましたが、不幸なことに上演直後に劇場が火災に見舞われ、建物と一緒に楽譜も炎によって失われました。次回作は1810年に公会堂のために作曲された重要な歌劇『偏執狂』で、これによって名声を博し、その後3年間にわたってコヴェント・ガーデン王立歌劇場の専属作曲家に着任することができました。日本で有名な「埴生の宿」の原曲「Home! Sweet Home!」は『ミラノの乙女』の導入部のアリアです。後にオックスフォード大学の教授も務めましたが、1855年4月30日、貧窮のうち他界しました。
1787年、フランスの画家、写真家のルイ・ジャック・マンデ・ダゲールが生まれました。史上初めて実用的な写真技術を完成した人物として知られます。写真の研究を行う前は、パリで舞台背景画家・パノラマ画家・ジオラマ作家として活躍していました。1851年7月10日、ダゲールはパリから12km離れたシュールマルヌで死亡し、彼の墓もそこに建てられました。ダゲールの名前は、72名のうちの一つとしてエッフェル塔に刻まれています。
1896年、紙切り芸人の初代林家正楽が生まれました。元々は噺家の名跡であるため、当人は8代目と称していました。マッカーサー、スカルノ、昭和天皇の前で芸を披露したこともあります。新作落語の『峠の茶屋』『さんま火事』『壷』は初代正楽の作。享年70。
1904年、作曲家の古賀政男が生まれました。その生涯で制作した楽曲は5000曲とも言われ、「古賀メロディー」として親しまれています。彼の作曲のルーツは朝鮮半島。かの地で歌われていた歌を五線譜に書き留めたのが古賀メロディーの秘訣です。ヒット曲、育てた歌手はたくさんありますが、割愛します。芸能界にはびこるGAYの元祖で、村田英雄などは古賀に迫られ、「先生、それだけはご勘弁を」と土下座して難を逃れました。1978年7月25日の午後1時15分、代々木の自宅で急性心不全により死去、享年73歳。
1947年、歌手の森進一が生まれました。一般に演歌歌手とされていますが、「襟裳岬」「冬のリヴィエラ」といった演歌の範疇に入りきらないヒット曲も出しています。本人も演歌歌手とされるのを嫌がっているそうです。一聴して森と分かる、独特のハスキーボイスを特徴としています。ヒット曲もたくさんありますが、これも割愛。女性がいないといられない性的体質で、地方公演ではそれ専用の女性を用意するのが必須だそうです。大原麗子・森昌子との結婚歴があり(いずれもその後離婚)、昌子との間に誕生した3人の息子のうち、長男森内貴寛はロックバンド「ONE OK ROCK」のボーカリスト、次男はテレビ東京の社員、三男森内寛樹はロックバンド「MY FIRST STORY」のボーカリストです。『じゃがいもの会』などの社会福祉・篤志活動でもその名を高めました。2007年(平成19年)2月、おふくろさん騒動が勃発、川内康範との確執が表面化しました。両者はついに和解に至ることのないまま、2008年4月6日に川内は逝去しました。
1949年、俳優、タレントの斉木しげるが生まれています。芝居ユニットシティボーイズ(大竹まこと・斉木しげる・きたろう)の一人。人の肉体を見て、血液型を見抜くことができるという特技を持っているそうです。団塊の世代なので、これ以上のコメントは御免こうむります。
1954年、上方の噺家、桂吉朝が生まれました。2005年11月8日に亡くなっていますが、生前、テレビでですが、彼の落語を見ています。噂通り、師の桂米朝によく似ていて、しかも噺の上手い人でした。早すぎる死が悔やまれます。
1957年、歌手の城みちるが出生。デビュー曲の『イルカにのった少年』は50万枚を売り上げた唯一のヒット曲。同時期にデビューしたあいざき進也や豊川誕らと共に「新新御三家」と呼ばれました。アイドル歌手としての人気絶頂時にあった伊藤咲子と歌番組で共演した事をきっかけに、彼女との恋に落ちたのも有名。現在は広島を拠点としているそうです。この城みちると笑福亭鶴光を掛け合わせたような顔立ちのカメラマンを職業としていた高山宏之という男に私は悪い印象を持っていた(それ以上に向こうのほうが私を嫌っていた)ので、この人についてはここまで。
1975年、プロレスラーの太陽ケアことマウナケア・モスマンが生まれました。三沢光晴らが全日本プロレスを離れたとき、川田利明、渕正信と共に声をかけられなかった一人。どこが良いレスラーなのか、私も理解に苦しみますが、鈴木みのるは彼を評価し、仲間扱いしています。
同じく1975年、女性プロゴルファー、タレントの東尾理子(ひがしお りこ)が誕生。父は元プロ野球選手・監督の東尾修、夫は俳優の石田純一。

次は忌日。

12 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2019年11月>
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930