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2019年11月16日00:49

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11月16日が忌日である人々

1272年、プランタジネット朝4代のイングランド王、ヘンリー3世が65歳で薨去しました。諸侯たちの反乱の中で幼くして王位に就き、フランスの領土問題とマグナ・カルタに象徴される議会問題を解決しようとしましたが、50年を超える長い治世において目立った成果を挙げることはできませんでした。しかしこの時代は国王裁判所が着実に活動し、コモン・ローが王国に進展した時代とも評されます。非常に信心深く、エドワード懺悔王を好み、ウェストミンスター寺院を現在の姿に大改築したことで知られます。
1630年(寛永7年)、戦国時代から江戸時代前期の武将、大名、松倉重政が小浜温泉で急死しました。享年57。大坂夏の陣の功により、肥前日野江(島原一帯)に4万3千石を与えられて移封しました。領民の限界を超える税を取り立て、幕府への忠誠を示すため、禄高に見合わない規模の江戸城改築の公儀普請役を請け負い、それらの費用を捻出するために過酷な搾取を重ね、キリシタンに拷問・処刑を行うなど徹底した弾圧政治を布きました。さらに、キリシタン弾圧への取り組みを幕府に対しアピールするため、キリシタンの根拠地であるルソンの攻略を幕府に申し出ます。徳川家光はじめ幕閣の一部も乗り気になったため、先遣隊を派遣するなどして遠征準備に取りかかり、そのためのさらなる戦費を領民に課しました。出兵実施の矢先の死でした。
1724年、18世紀初頭のロンドンで主に犯行を重ねた、イギリスの有名な泥棒。、ジャック・シェパードがロンドンの街を連れまわされ、観衆の好奇の目にさらされた後、タイバーンの絞首台で処刑されました。数多くの犯罪を犯しただけでなく、ニューゲート監獄から脱走を繰り返したことでも知られています。1度目の脱獄の時は、手枷を切断し、壁に穴を開け、シーツや毛布をロープとして使い、地上に降り立ちました。8月30日に行われた2度目の脱獄時はすでにシェパードは死刑を宣告されており、訪問者との間仕切りの窓を切り、そこを潜り抜けて脱獄しました。3度目の脱獄を防ぐために鎖で拘束され、「城」と呼ばれていた窓のない部屋に閉じ込められていましたが、10月14日に釘で鎖の鍵をこじ開け、煙突を塞いでいた鉄の棒を切り出し、ドアと壁を破壊して、毛布を使って近くの家の屋根に降り立ち脱獄しました。3度目の脱獄からたった2週間後に再逮捕されますが、シェパードは最後の脱走を企てました。ペンナイフを隠し持ち、ニューゲート監獄から絞首台まで連行される間に手を縛る縄を切り、脱走しようとしました。しかし、連れ出される前に看守がペンナイフを発見したため失敗に終わりました。
1858年(安政5年)、尊皇攘夷派の僧侶、月照が安政の大獄で追われる身となり、死を覚悟し、西郷隆盛とともに錦江湾に入水自殺しました。月照は死亡しましたが、西郷は奇跡的に一命を取り留めています。享年46。
1885年、カナダの政治家で、プレーリー地区のメティのリーダー、ルイ・リエルが反逆罪により絞首刑に処せられました。享年41。メティとはカナダインディアン(ファーストネーション)とヨーロッパ人の間の混血子孫。リエルはカナダ政府に対しノースウェスト準州に基盤を置くメティの権利、文化保護を求め二つの反乱を主導しましたが、この反乱は次第にカナダ全土に勢力を拡大していきました。リエルの一つ目の反乱は1869年から1870年にかけて行われたもので、レッドリヴァーの反乱と呼ばれます。リエルの設立した臨時政府はついにはマニトバ州の連邦政府加入に関する条件について協議を行いました。リエルはこの反乱の最中にトーマス・スコットの処刑を巡る論争の結果米国への逃亡を余儀なくされました。それにもかかわらず、リエルはしばしば「マニトバの父」と呼ばれます。米国での亡命生活中、リエルは3度にわたってカナダ下院議員に選出されていますが、議席に就くことはありませんでした。3年間の間リエルは、自らのことを神に選ばれた指導者・預言者であるという妄想を抱くなど精神疾患の発作に苦しみました。この期間中に抱いた確信が後に再び表層に現れ、リエルの行動に影響を与えました。リエルは亡命期間中の1881年にモンタナ州で結婚をし、3人の子供を儲けました。1884年にリエルは後のサスカチュワン州に帰還し、連邦政府に対してメティの不満を代弁する立場となりました。この抵抗活動は次第に1885年のノースウェストの反乱として知られる軍事的闘争にまで発展していきました。この闘争もリエルの逮捕、裁判そして反逆罪による死刑判決によって終焉をみました。
1940年、医学者、医学史家の富士川游(ふじかわ ゆう)が胆石病で逝去。享年75。「医学という学問が進み、技術がいかに進んでも、医道が確立されていなければ、十分ということはできない」と、日本医史学という前人未踏の分野に挑みます。1895年、呉秀三と医史社を興し多数の書籍を発表、また「中央公論」などにも多数の論文を発表、講演を行います。1902年、児童の研究は心身両面から行うべきと日本児童研究会(のち日本児童学会)を創立。ドイツ留学で出会った教育病理学、教育治療学を体系的に論じました。これらは精神薄弱の発生原因が血筋や家系といわれた時代に於いて、科学的判断をした草分け的なものでした。のち1915年設立された民間児童相談所の草分け・日本児童学会附属児童相談所創設などにも関与しました。1904年畢生の大著『日本医学史』を刊行。太古から明治中期に至るまでの日本医学の発達変遷を詳細かつ系統的に述べた10章1000頁余に及ぶ同書の完成によって日本の医史学は初めて確立されたのです。活躍の舞台は医学史に留まらず医制、医師法、医薬分離問題にも関与。『日本医学史』刊行前後に日本内科学会、医科器械研究会、看護学会、癌研究会、人性学会、日本医師協会など多くの学会、協会を設立し医学の発展に尽力しました。また医学的生物学的知識にもとづく性教育を奨励。1908年、高輪中学(現高輪中学校・高等学校)校長・龍口了信に依頼され同校に於いて性教育授業を行い大きな反響を呼びました。1912年『日本医学史』に次ぐ第二の巨弾『日本疾病史』を刊行。医学雑誌のみならず婦人雑誌、家庭雑誌、看護婦雑誌、新聞の家庭医学欄など、自身が手掛け、或いは協力して出した出版物は千数百件を超えます。こうした医学関係の出版物の充実に富士川の後世に残した功績は絶大です。医学者であると同時に医学ジャーナリズムの開拓者、医学ジャーナリストの草分けでもあります。
2001年、アメリカのジャズピアニスト、トミー・フラナガンがニューヨーク市マンハッタン区のマウントサイナイ病院において、動脈瘤による合併症のため永眠しました。71歳でした。彼は1998年以降は体調を崩していました。とりわけ歌手のエラ・フィッツジェラルドの伴奏者として有名です。ジョン・コルトレーンの『ジャイアント・ステップス』(1959年)やソニー・ロリンズの『サキソフォン・コロッサス』(1956年)、アート・ペッパーの『ストレート・ライフ』やウェス・モンゴメリーのアルバムなど、批評家に評価の高い録音の数々で演奏を披露しました。ベース奏者のウィルバー・リトルやドラマーのエルヴィン・ジョーンズとともにトミー・フラナガン・トリオを結成し(ただしこれはトロンボーン奏者JJジョンソンのリズム隊)、1957年にアルバム『オーバーシーズ(Tommy Flanagan Trio Overseas)』を発表します。エルヴィンと組んだ時のフラナガンはいつもの流麗で情緒連綿たるスタイルではなく、攻撃的、打楽器的なピアノスタイルに変貌します。1960年代初頭は、コールマン・ホーキンスのカルテットで活動しました。1963年から1965年まで、次いで1968年から1978年までは、伴奏者としてエラ・フィッツジェラルドと共演しました。1975年の始めに、再びバンドリーダーとして演奏や録音に取り組むようになりました。この頃、エルヴィンとの再会セッションも録音しています。もちろん、攻撃的、打楽器的。他の演奏家とも活動を続けましたが、とりわけ企画のために、タル・ファーロウやレッド・ミッチェルとトリオを組んでいます。1978年にはレジー・ワークマン、ジョー・チェンバースと「スーパー・ジャズ・トリオ」を結成しました。私は彼の生ステージに二度触れていますが、ピアノの音色の美しい、流麗なほうのスタイルでした。
2006年、アメリカの経済学者、ミルトン・フリードマンが心臓疾患のため自宅のあるサンフランシスコにて死去。94歳。古典派経済学とマネタリズム、市場原理主義・金融資本主義を主張しケインズ的総需要管理政策を批判しました。ケインズ経済学からの転向者。20世紀後半におけるマネタリスト、新自由主義を代表する学者として位置づけられています。戦後、貨幣数量説を蘇らせマネタリストを旗揚げ、裁量的総需要管理政策に反対しルールに基づいた政策を主張しました。日本では、1982年から1986年まで日本銀行の顧問も務めていました。主著は『A Monetary History of the United States, 1867-1960』、『資本主義と自由』。
2006年、俳優の仲谷昇が慢性閉塞性肺疾患のため東京都港区の病院で死去。77歳没。1950年(昭和25年)に文学座附属演劇研究所に入ります。1951年(昭和26年)、座員に昇格。1953年(昭和28年)、今井正監督『にごりえ』で映画に初出演し中平康監督の『猟人日記』・『砂の上の植物群』では主演を務め以降、舞台、映画、テレビで貴重な存在として活躍を果たします。1963年、劇団の体質への不満から芥川比呂志、神山繁、小池朝雄らと文学座を脱退し福田恆存を中心とした劇団雲の結成に参加。1975年には芥川、神山、中村伸郎らと劇団雲から離れ演劇集団 円を結成しました。テレビドラマでは、教授役・首相役・組織の長などの地位の高い役を担当することが多く、『カノッサの屈辱』では案内役「仲谷教授」でレギュラー出演しました。仲谷自身も『キイハンター』などそうした役柄を楽しんで演じていたことを述べています。大のヘビースモーカーであり、1日100本煙草を吸っていたそうです。
2009年、女優、映画プロデューサー、タレントの水の江瀧子が老衰により神奈川県内の自宅において94歳の生涯を閉じました。出生名は三浦ウメ子。1928年、東京松竹楽劇部の新設に伴う第1期生募集の新聞広告を見た次姉が、ウメ子の知らぬ間に入部試験に応募。ウメ子は「浅草に連れていってあげる」と姉に試験会場まで連れ出され、何も聞かされず言われるがままに試験に臨み、合格しました。芸名は最初「東路 道代(あずまじ みちよ)」でしたが、「水の江たき子」の名を授けられた生徒が不満を訴えたことから芸名の交換が行われ、「水の江たき子」がウメ子の名となりました。後に初めて役が付いた際に、ポスターのレイアウト上の都合から「水の江瀧子」となり、以後定着しました。初舞台は1928年12月、昭和天皇の即位礼に合わせ、先に発足していた大阪松竹楽劇部が浅草松竹座で上演した『御大典奉祝レビュー』の中で、奉祝行列の山車の紅白綱を曳く子供役でした。都合で断髪した瀧子は「男装の麗人」として人気を博しました(男役)。7月興行『メリー・ゴーランド』では主役に据えられ、11月には新歌舞伎座で公演を行いました。このとき上演されたレビュー3本のうちの1本『万華鏡』において、カウボーイに扮した瀧子が名を問われ「俺はミズノーエ・ターキーだぁ!」と見得を切ったことから、以後「ターキー(書き文字では「タアキイ」が多用された)」の愛称が使われ始めました。東京松竹楽劇部は組織名を「松竹少女歌劇部(SSK)」と改めました。1932年12月、瀧子は「上流社会向け」に製作された「青い鳥」に出演しましたが、公演2日を終えた時点で病気になり、以後1カ月間の休演を余儀なくされました。待遇改善を掲げた「桃色争議」の責任を取らされ、瀧子は歌劇部を解雇されました。しかし争議は解決し、瀧子も謹慎処分ながら復帰します。瀧子は時事新報の平尾郁次の協力のもと、9月20日に日比谷公会堂でワンマンショーを行い好評を博しました。この状況に劇団も瀧子の謹慎を解かざるを得なくなり、11月の東京劇場公演『タンゴ・ローザ』から瀧子は松竹に復帰しました。以後の数年間がレビュースターとしての瀧子の絶頂期となりました。瀧子が主演した『ウインナ・ワルツ』、『ベラ・ドンナ』、『シャンソン・ダムール/東京踊り』、『夏のおどり/ローズ・マリー』、『忠臣蔵』、『リオ・グランデ』といった公演がことごとく好評を博し、またキッコーマン醤油、アサヒビール、明治チョコレート、トンボ鉛筆、森永チーズ、ヒゲタ醤油、ダットサン、キヤノンカメラなど数多くの商品の広告宣伝に起用されました。アメリカ滞在から帰国した瀧子は新派の舞台にも立ち、水谷八重子、井上正夫と共演しています。当時瀧子のマネージャー兼恋人のようになっていた松竹宣伝部の兼松廉吉が新たな劇団創設を打診しました。これを容れた瀧子は1942年12月に自身の劇団「たんぽぽ」を組織。翌1943年1月に15年間過ごした松竹を離れ、邦楽座で劇団「たんぽぽ」としての旗揚げ公演を行いました。その後、堺駿二、有島一郎、田崎潤といった男性俳優が加わった後、4月にニコライ・ゴーゴリ作の戯曲『検察官』をミュージカル化した『おしゃべり村』が大当たりし、同作をもって全国各地で公演を行いました。終戦後、「たんぽぽ」は分裂し、その後は「喜劇王」榎本健一率いる「エノケン一座」の助力を受けながら公演を続けたものの解散してしまいました。1948年に大映と契約して出演した映画『花くらべ狸御殿』が大ヒットし、以後立て続けに10本ほどの映画に出演しました。鶴田浩二との確執から引退を決めた瀧子により、1953年6月6日より20日まで松竹歌劇団で『さよならターキー・輝く王座』が催された。瀧子は『タンゴ・ローザ』や『狸御殿』など過去の名作を余すところなく演じ、また十七代目中村勘三郎、二代目市川猿之助、花柳章太郎、辰巳柳太郎、高峰三枝子、木暮実千代、淡島千景、京マチ子、灰田勝彦、淡谷のり子、服部良一、渡辺弘といった面々が日替わりで客演、10日連続で1万人以上を動員する盛況となりました。瀧子は新興メディアのテレビにも進出し、1953年2月のNHK開局と同時に始まったゲーム番組『ジェスチャー』に出演しました。これはたんぽぽ時代に合同公演を行ったことがある柳家金語楼の推薦によるものです。自殺した兼松廉吉が遺書で瀧子の生活支援を頼んでいた一人、報知新聞社長・深見和夫が、新興の映画会社であった日活へ瀧子をプロデューサーとして売り込みました。1年ごとに更新の日活の契約のプロデューサーとなり、1954年3月より勤務。1955年には初作品『初恋カナリヤ娘』を企画。明るい作風の喜劇が受け、1作で社内における地位向上に成功しました。この作品を撮る前、瀧子は日劇ミュージックホールの看板に出ていた岡田真澄の美貌に目を留めて映画に出演させ、岡田は瀧子が発掘した最初の俳優となりました。また「美少年の岡田の隣に置いたら面白いのでは」という発想から、銀座のクラブでドラムを叩いていたフランキー堺も出演させています。2作目の『緑はるかに』ではヒロインの公募が行われ、数千人の応募者の中から瀧子が浅丘ルリ子を選定。この映画もヒットし、浅丘は後に日活の看板女優となりました。1955年には石原裕次郎を発掘。やがて裕次郎を初の主演に据え、監督に中平康を起用して『狂った果実』を製作。同作は日本国内でのヒットのみならず国外でも高く評価され、特に当時フランスで勃興していたヌーヴェルヴァーグの代表的監督であったジャン=リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーに影響を与えたとされており、瀧子もまた「名作だと思います」と高評価を送りました。日活プロデューサーとしては、その他にも前述の岡田真澄やフランキー堺の発掘の他にも、中原早苗や和泉雅子の移籍、吉永小百合の抜擢、舟木一夫の獲得に成功するなどの手腕を見せました。スタッフでは倉本聰を気に入って、契約ライターとして日活に招きます。やがて瀧子は裕次郎と袂を分かち、日活も退社してしまいます。以後はテレビを中心に活動し、1972年からは『オールスター家族対抗歌合戦』の審査員、1975年10月からは『独占!女の60分』のメインキャスターを、いずれも芸能界引退直前まで務めました。舞台、映画、テレビにまたがる半世紀以上の芸能生活でしたが、1983年、松竹歌劇団のミュージカル『マイガール』のプロデュースを経て、1984年に甥(実兄の子)の三浦和義が、保険金目的で妻を殺害した疑念が報道された「ロス疑惑」で世間に騒がれ、瀧子に対しても三浦が隠し子なのではないかとのいわれのない記事が10本以上報道されました。この件に絡みワイドショーへの出演を求められたことでフジテレビとの諍いが起こり、『オールスター家族対抗歌合戦』を降板。1987年には『独占!女の60分』も辞め、芸能界から引退しました。引退後は、秦野市の自宅で宝飾デザインを始め、個展を開くなどしました。1993年2月19日にキャピトル東急ホテルで、森繁久彌を発起人(葬儀委員長)とする生前葬を華やかに行い、続けて翌日の78歳の誕生日に「復活祭」を行い関係者を驚かせました。翌1994年、映画『女ざかり』(大林宣彦監督)への特別出演が最後の映画出演になります。1995年にはNHKのテレビドラマ『水辺の男 リバーサイドストーリー』に出演しました。晩年は、乗馬の際の怪我で車椅子生活となり、障害者手帳の交付も受けました。マスメディアの取材も受け付けず、毎回楽しみにしていた松竹歌劇団OG会にも一切出席することなく、ほとんど隠居的な生活を送っていました。

本日はここまでです。

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