mixiユーザー(id:5138718)

2019年11月16日00:44

59 view

11月16日が誕生日である人々

BC42年、ローマ帝国の第2代皇帝、ティベリウス・ユリウス・カエサルが生まれました。初代皇帝アウグストゥスの養子。養子となる以前の名前は実父と同じティベリウス・クラウディウス・ネロ。なお、イエス・キリストが世に出、刑死したときのローマ皇帝です。ティベリウスはアウグストゥスの後継者として、金融危機対策、辺境防衛網の確立など優れた行政手腕を発揮しました。37年3月16日、カリグラを後継者に選んだあと77歳にて病没。
1717年、18世紀フランスの哲学者、数学者、物理学者、ジャン・ル・ロン・ダランベールが生まれました。1743年に『動力学論』を刊行し、全ヨーロッパで脚光を浴びます。次いで「流体の釣り合いと運動論」「風の一般的原因に関する研究」などの物理学的研究を次々に発表しました。その研究はパリ社交界でも注目され、科学関係者だけでなくディドロ、ルソー、コンディヤックらの哲学者と知り合い、関心分野を広げました。その知名度と関心の広さを見込まれ、ドゥニ・ディドロとともに『百科全書』の責任編集者となり、その刊行(1751年)にあたっては序論を執筆しました。百科全書派知識人の中心者。1783年10月29日に65歳で死去。
1868年、評論家・詩人の北村透谷(きたむら とうこく)が生まれました。1889年『楚囚之詩』を自費出版しましたが、出版直後に後悔し自ら回収しました。1891年『蓬莱曲』を自費出版。1892年に評論「厭世詩家と女性」を『女学雑誌』に発表し、近代的な恋愛観(一種の恋愛至上主義)を表明しました。「恋愛は人世の秘鑰(ひやく)なり」(鑰は鍵の意味)という冒頭の一文は島崎藤村や木下尚江に衝撃を与えたそうです。1893年に創刊された『文学界』誌上に「人生に相渉るとは何の謂ぞ」、「内部生命論」など多くの文芸評論を執筆。また、イギリスから来日したクエーカー教徒のジョージ・ブレイスウェイトと親交をふかめ、その影響もあって絶対平和主義の思想に共鳴し、日本平和会の結成(1889年)にも参画、機関誌『平和』にも寄稿しました。しかし、日清戦争前夜の国粋主義に流れる時勢も反映したのか、次第に精神に変調をきたし、評論『エマーソン』を最後に1894年5月16日、芝公園で首吊り自殺。25歳でした。
1885年、経済学者の櫛田民藏(くしだ たみぞう)が生まれました。1919年に東京帝国大学講師となりますが、翌年の森戸事件を機に辞職。大原社会問題研究所員となります。1920年から2年間、久留間鮫造と渡欧、主にドイツで書籍の蒐集に当たります。大原社研では、唯物史観とマルクス経済学における価値論を研究。恩師河上肇のマルクス解釈を批判したことでも知られます。日本のマルクス経済学を国際的水準に引き上げたとされます。1934年11月5日、くも膜下出血のため死去。妻は女性解放運動指導者の櫛田ふき。
1895年、野鳥研究家で歌人・詩人の中西悟堂(なかにし ごどう)が生まれました。「野の鳥は野に」を標語に自然環境の中で鳥を愛で、保護する運動を起こしました。「野鳥(やちょう)」や「探鳥」は悟堂の造語。日本野鳥の会の創立者。1984年(昭和59年)12月11日、転移性肝臓癌のため神奈川県横浜市港南区の病院で死去。88歳没。
1908年、演劇評論家、小説家の安藤鶴夫が生まれています。あだ名は「アンツル」。1946年(昭和21年)に『苦楽』誌に聞書「落語鑑賞」(8代目桂文楽の噺、10話)を連載して評判となりました。1950年(昭和25年)から三越名人会を、1953年(昭和28年)からは三越落語会を主宰。新作落語が人気を博していた戦後に古典落語を再評価して演芸評論の重鎮となりました。ホール落語の事実上の創始者。落語・講談等の寄席評論家としては正岡容と双璧。小説も手がけ、1963年(昭和38年)『巷談本牧亭』により、第50回直木賞受賞。劇団前進座によって劇化され、日本国内の他に日中国交回復前の中国・北京でも上演されました。物事への感情の入れ方が激しくアンドウツルオならぬ「カンドウスルオ」の異名がありました。犠牲となった一例が3代目三遊亭金馬(東宝専属)で、不当な低評価をされました。1969年(昭和44年)9月9日、糖尿病性昏睡のため東京都文京区の東京都立駒込病院で死去。60歳没。
1935年、女優の春川ますみが生まれました。昭和30年代初頭から浅草ロック座でメリー・ローズという芸名でダンサーとして活躍。その風貌からダルマちゃん、ジャンボちゃんの愛称で親しまれました。やがて日劇ミュージックホールに舞台を移して間もなく映画界からスカウトされ、『グラマ島の誘惑』で役者デビュー、以降本格派女優への転身を図ります。東映映画「トラック野郎シリーズ」では10作中8作に出演。もう一人の主人公であるヤモメのジョナサンこと松下金造(演:愛川欽也)の妻・松下君江を演じました。
1950年、シンガーソングライター、作曲家の来生たかお(きすぎ たかお)が生まれています。控えめ・都会的・ノスタルジックな作風で知られるニューミュージックのアーティスト。 マイナー調の曲が多く、淡々としつつ叙情的なメロディーが特長。 ほとんどビブラートを掛けない歌唱は“来生節”とも称されます。 歌手活動と同時に、姉・来生えつことのコンビを主軸に作曲家としても活動しており、「セーラー服と機関銃」(歌唱:薬師丸ひろ子)、「スローモーション」「セカンド・ラブ」(歌唱:共に中森明菜)、「シルエット・ロマンス」(歌唱:大橋純子)、「マイ・ラグジュアリー・ナイト」(歌唱:しばたはつみ)など、日本ポピュラー音楽史上に残るスタンダードナンバーを数多く送り出しています。自身が歌うときは主にピアノを演奏しながら。
1951年、漫才コンビ「オール阪神・巨人」のオール巨人が生まれています。大阪商業高等学校(現・大商学園高等学校)卒業後は学生の頃から手伝っていた実家の鶏卵卸売り業に勤務する傍ら、『素人名人会』など素人出演演芸番組で形態模写や漫談を披露していました。この頃に老人ホームや刑務所などでの慰問を行うために素人の手伝いを探していた時、まだ高校生であり、同じく演芸番組の常連であった高田昭徳、後のオール阪神と出会います。当時の吉本にはNSCといった養成所が無かった故に誰かの弟子となるのが習慣であったが、意中の島田洋之介・今喜多代は既に島田一の介や今いくよ・くるよ、島田紳助など多くの弟子をかかえており、ちょうど付き人を探していた吉本新喜劇の岡八朗の弟子となりました。現代における正統派しゃべくり漫才の代表的な存在。なお、吉本興業の林正之助会長から、「二代目エンタツ・アチャコ」を襲名させる話がありましたが、本人たちが「おそれおおい」と断っています。
1975年、女優、歌手の内田有紀が生まれました。★☆北区つかこうへい劇団第8期生。1992年(平成4年)のテレビドラマ『その時、ハートは盗まれた』(フジテレビ)への出演で女優デビューし、同年冬には、ユニチカの1993年水着キャンペーンモデルに選出されました。1994年(平成6年)、『時をかける少女』で連続ドラマ初主演。同年10月には『TENCAを取ろう! -内田の野望- 』で歌手デビューし、オリコン史上初女性ソロ歌手のデビュー曲で初登場1位を記録しました。俳優の吉岡秀隆と結婚し、芸能界を一時引退するも、離婚後、復帰しました。
1976年、匿名掲示板・「2ちゃんねる」の開設者、西村博之が生まれました。愛称・ひろゆきは2ちゃんねるにて命名されました。彼の友人によると、当時、60万円の月給をもらっていたとか。2015年から、平沢真一とともに『ヴァラエティ・ジャパン』のEditor in Chief(編集長)に就任。住居をフランス・パリに置いています。
1980年、お笑い芸人の小島よしおが生まれました。ブーメランパンツ一丁で拳を振り下ろしながら、「そんなの関係ねぇ!」「はーい、おっぱっぴぃ」と叫ぶギャグで一世を風靡しました。現在は欧米アジア語学センター副校長。

例によって興味のない俳優・女優を何人か触れませんでした。

次は忌日。
12 4

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2019年11月>
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930