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2019年10月22日08:42

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10月22日が忌日である人々

1906年、フランスの画家、ポール・セザンヌが10月15日、野外で制作中に大雨に打たれて体調を悪化させ、肺充血を併発し、朝7時頃、自宅で死去しました。享年67歳。当初はクロード・モネやピエール=オーギュスト・ルノワールらとともに印象派のグループの一員として活動していましたが、1880年代からグループを離れ、伝統的な絵画の約束事にとらわれない独自の絵画様式を探求しました。ポスト印象派の画家として紹介されることが多く、キュビスムをはじめとする20世紀の美術に多大な影響を与えたことから、しばしば「近代絵画の父」として言及されます。『ドラクロワ礼賛図』『メダンの館』『果物籠のある静物』『アンブロワーズ・ヴォラールの肖像』『赤い服を着たセザンヌ夫人』『庭師ヴァリエ』、それに数々の自画像が有名。
1908年、清の第9代・咸豊帝の側妃で、同治帝の母、西太后(慈禧太后)が甥の第11代皇帝・光緒帝が崩御した翌日、72歳で崩御しました。西太后は息子の同治帝の崩御後、彼の生前からそうでしたが権力を握り続けました。西太后は宮廷内政治に手腕を発揮する一方、表の政治においては洋務運動を推進する曽国藩、李鴻章、左宗棠、張之洞ら洋務派官僚を登用しました。洋務運動がある程度の成果を上げて清朝の威信が回復した期間は同治中興と呼ばれます。日清戦争の敗戦と光緒帝の実質的な親政開始に伴い西太后は政治から身を引くことを表明したが、朝廷への上奏のうち重要印がある物は総て西太后の元へも回され、また光緒帝の発言や動向を宦官に報告させ、重要施策についての懿旨を単独で出すなど依然として権力を持っていました。1896年には西太后の寵愛する寇連材という宦官が、政権の返還・光緒帝の親政を見守る事・円明園の修改築凍結・海軍経費の頤和園への流用即時停止などを意見しましたが、西太后はこれを刑部へ送り処刑しています。その後、紆余曲折を経て、義和団の乱の影響もしのいだ西太后は生涯、権力をふるい続けました。
1915年、ドイツの哲学者、ヴィルヘルム・ヴィンデルバントが67歳で死去しました。新カント派の代表。哲学史家のフィッシャーに師事したヴィンデルバントはまず哲学の歴史家として、さらにフィッシャーの後継者として、加えて当代の重要な哲学の体系家、その中には彼の師ヘルマン・ロッツェを含めた人々のひとりとして時代の舞台に登場しました。ロッツェは、存在するものの領域、(カントに習うなら)"quaestio facti" を事実的認識の条件によって媒介し、妥当するものの領域、quaestio iuris をその認識の活動的条件によって媒介させるとし、quaestio iuris は、"quaestio facti" に依存しているとしました。ヴィンデルバントは、この関係を逆転させ、予め妥当するとされる判断から生まれてきたものは、事実上の(生きた)真理として妥当しているのだとしました。ヴィンデルバントは、なかんずく自然科学と文化科学(精神科学ともいう)の間の線引き問題にも努力を傾注しました。自然科学は、法則定立的 (nomothetisch) な方法を用います。つまり、自然科学は、その対象を普遍妥当的な法則を通して記述するのです。これに対して文化科学は、一回限りのもの、個別的なもの、そして特殊なものと関わり、個性記述的な (idiographisch) 方法をとります。ヴィンデルバントは、加えて哲学史家としても卓越しています。彼の『哲学史教本』(Lehrbuch der Geschichte der Philosophie, 1892年。『哲学史綱要』『一般哲学史』あるいは単に『哲学史』とも)は、哲学史を各時代ごとのテーマによる論争史として執筆したものです。数多くの版を重ね、哲学的な訓練、修行を必要とする次代を担う哲学の徒によって長く読み継がれてきました。各時代は、哲学者とその教説の羅列ではなく、時代の哲学的な論争テーマを取り上げていく問題史の体裁を採用しています。20世紀の部分は、ハインツ・ハイムゼートが書き足しました。その他の代表作に、『哲学概論』、論文集『プレルーディエン』(『序曲』)、『近世哲学史』があります。
1937年、詩人、歌人、翻訳家の中原中也(なかはら ちゅうや)が9月、左手中指の痛みを訴え痛風と診断されました。10月4日に横浜の安原喜弘を訪ねた時は、頭痛や電線が2つに見える視力障害を訴えました。歩行困難もありステッキをついて歩いていました。5日、鎌倉駅前の広場で倒れ、翌日鎌倉養生院(清川病院)に入院。脳腫瘍が疑われ、その後急性脳膜炎と診断されました(今日では、結核性の脳膜炎とされています)。午前0時10分永眠。苦しむことなく安らかな死でした。中也は30歳の若さで死去しましたが、生涯で350篇以上の詩を残しました。その一部は、結婚の翌年刊行した処女詩集『山羊の歌』、および、中也の死の翌年出版された第二詩集『在りし日の歌』に収録されています。訳詩では『ランボオ詩集』や数は多くありませんがアンドレ・ジイドの作品などフランス人作家の翻訳もしていました。
1965年、ドイツのプロテスタント神学者、パウル・ティリッヒが79歳で亡くなりました。20世紀のキリスト教神学に大きな影響を与え、組織神学、宗教社会主義の思想で知られます。20世紀においてカール・バルトと並ぶ神学者であり、その影響は広く哲学や思想、美術史に及んでいます。
1972年、落語家から喜劇俳優、タレントに転じた柳家金語楼が71歳で死去。禿頭を売り物にし、エノケン・ロッパと並ぶ三大喜劇人として知られました。噺家としては新作の「噺家の兵隊」で売り出しました。「めでたく召集」という台詞をはきながら、顔は嫌で嫌でい方がないというしかめっ面をするというギャップが人気を呼びました。1930年、6代目春風亭柳橋らと日本芸術協会(現在の落語芸術協会)を結成。落語家を辞したあと、1940年に金語楼劇団を旗揚げ。1953年 NHKテレビ『ジェスチャー』出演。この番組では白組(男性陣)キャプテンを長く続けていました。ゆえに私も見ています。1954年 日本喜劇人協会結成。副会長就任。1956年、ラジオ東京テレビ(現在のTBS)で『おトラさん』放送開始。当たり役となりました。落語家を廃業したのは戦時下のことであり、二足のわらじを当局が許さなかったため、やむを得ず行ったもの。従って、戦後も落語と縁が切れたわけではなく、有崎勉(「勤め先あり」のモジリ。また「勉強すれば先が有る」の略とも)のペンネームで新作落語を毎月発表していました。時折、高座にも上がっていたそうです。発明家としても著名。学童が体育の授業時に被る「赤白帽」や、爪楊枝の頭に折り取り用の切り込みを設け箸置きのようにして使うアイデアを実用新案登録し、莫大な副収入を得ていました。公衆の面前では思いっきり愉快そうな顔をしていましたが、家庭では無口で不機嫌そうな顔をしていたそうです。
1975年、イギリスの歴史学者、アーノルド・J.トインビーが86歳で亡くなっています。西欧中心の歴史観でなく、イスラム、仏教、それに特殊な存在としての日本にも着目して、各文明国の発展を描いた『歴史の研究』(原著1934-1961年.全25巻)を著したのは有名です。知識は該博で批評的な側面も持ち合わせており、一歴史学者というより、文明評論家といったほうが良いかもしれません。トインビーの壮大な歴史論、文明論を目の当たりにすると、マルクス主義のみにかぶれている連中がいっそ哀れにさえ見えてきます。
1990年、フランスの哲学者、ルイ・アルチュセールがイヴリヌ県のラ・ヴェリエール病院にて、心不全により死去。フランス共産党を内部から批判すべく、『マルクスのために』、『資本論を読む』を著し、マルクス研究に科学認識論的な視点(認識論的切断や徴候的読解)を導入しました。また、論文「イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置」において、呼びかけ=審問による主体形成の理論を提案しました。高等師範学校の教員として、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、バリバール 、ランシエール、アラン・バディウ、ミシェル・セール、ベルナール=アンリ・レヴィら、20世紀中葉以降に活躍する多くの哲学者を育てました。1980年、妻のエレーヌを絞殺。精神病のために責任能力なしとされました。
1991年、演歌歌手の春日八郎が1991年6月、左大腿部腫瘍の摘出手術の為入院。「三人の会」のコンサート等に出演出来ず、三橋美智也・村田英雄に対して病床からメッセージを送った事も有りました。一旦は退院、同年9月6日に中野サンプラザでのキングレコード60周年コンサートに出演しましたが、これが生涯最後のステージとなりました。その後体調が悪化し再入院、「三人の会」結成からわずか3年後の1991年10月22日20時38分、肝硬変と心肺不全により新宿区の病院で死去。67歳没。『赤いランプの終列車』『お富さん』『別れの一本杉』などが有名で、吹き込んだ楽曲は通算千数百曲、レコードの総売上は7000万枚を超えました。1990年頃、清水アキラが顔中に沢山セロハンテープを貼り付けて、春日八郎の物真似を披露した事でも話題となります。『ものまね珍坊』で清水と初共演した際、春日は「俺ってこんな顔してるのか?」と苦笑いしながら感想を述べていました。
2006年、俳優、タレントのばってん荒川が2006年3月から糖尿病治療のために芸能活動を休止していましたが、熊本市内の病院で膀胱癌による心不全のため亡くなりました。69歳没。彼は芸名からも分かるように熊本県や福岡県・長崎県を中心に九州地方で長年に渡り活躍した肥後にわか役者、ローカルタレントだったため、関東の人にはなじみがあまりないかと思われます。さいわい、私は少年時代を大阪で過ごしましたので、わずかながら彼のおしゃべりをラジオで聴く機会にいささかながらもありました。戦後、存続が危ぶまれた肥後にわかを復活させ、支えたことから「肥後にわかの巨匠」と評され、九州では佐賀の筑紫美主子と並ぶ「にわか芸の大家」として知られました。女装役者でもあり、本物の女性かと思っていたファンもいたようです。2000年代まで、九州のラジオ局で冠番組を持っていました。
2016年、俳優の平幹二朗が自宅の浴槽にて倒れているのを訪れた息子の岳大により発見され、後に死亡が確認されました。死因は当初ヒートショック現象によるものと推測もされましたが、その後、警視庁北沢警察署での遺体検案などで死亡に事件性がないと判断されたことを受け、遺族の決定により死亡日を10月22日とし、死因は不明としたことが明らかにされました。満82歳没。俳優座養成所五期生となったときの同期には木村俊恵・今井和子・藤田敏八・ジェームス三木らがいます。1956年俳優座座員となり、同年『貸間探し』で初舞台。以後、『千鳥』『四谷怪談』『ファウスト』などに出演。端整な容姿と、スケールの大きさを感じさせる演技で注目され、仲代達矢や加藤剛とともに同座の若手ホープと目されます。1963年、テレビドラマ『三匹の侍』にレギュラー出演。五社英雄演出によるリアルな殺陣シーンで、テレビ時代劇の流れを大きく変えたこの作品で、虚無的な浪人・桔梗鋭之介役が人気を集めました。お茶の間にもおなじみの顔となり、時代劇を中心に多くの主演ドラマを持ちました。1968年フリー。浅利慶太演出『アンドロマック』の出演を機に劇団四季に客員し1968年、浅利慶太演出『ハムレット』で主役を演じ、各界から高い評価を受けます。続く『狂気と天才』などの演技も高く評価され、日本を代表する舞台俳優の一人となりました。四季がミュージカルに力を入れ始めたころ蜷川幸雄に出会い、1976年に蜷川演出『近代能楽集 卒塔婆小町』主演を皮切りに、『王女メディア』『近松心中物語』『NINAGAWAマクベス』『タンゴ・冬の終わりに』『テンペスト』『グリークス』『リア王』など長年に渡り蜷川演出作品に主演、海外公演でも高い評価を得ます。1993年には、東京グローブ座でシェイクスピア全37作品上演に挑戦するという壮大な計画を発表。以後『マクベス』(1993年)、『ハムレット』(1994年)、『オセロ』(1995年)、『十二夜』(1995年、1998年)、『リア王』(1997年)、『テンペスト』(2000年)など、着実に実行していきました。陰影に富んだ格調の高い演技で悲劇的人物を得意としていました。テレビドラマにも多数出演。特に大河ドラマの常連俳優の一人で、計7回出演。1970年放送の『樅ノ木は残った』で主人公の原田甲斐を演じ、大河ドラマ初出演にして初主演を果たしました。また映画出演も多く、『他人の顔』、『天城越え』、『帝都物語』などの代表作があります。演出家としての顔も持ち、中村玉緒主演の舞台等の演出も手がけていました。
2017年、ゴスペル歌手の亀渕友香が2014年頃に肝細胞がんを患い、闘病中に腰椎や胸椎を骨折しつつも活動を続けてきましたが、2017年10月22日、神奈川県川崎市内の病院で死去。72歳没。小学校の時、マヘリア・ジャクソン出演映画『真夏の夜のジャズ』を観て彼女の歌声に衝撃を受け涙を流します。以来サッチモ、ゴールデン・ゲイト・カルテット、アレサ・フランクリンなど、ゴスペルミュージシャンをヒーロー&ヒロインとし、ブルース、ジャズ、アフリカン音楽に至るまでの黒人音楽を聴きながら成長。1968年、R&Bグループ「リッキー&960ポンド」のボーカルとしてデビュー。1993年、ゴスペルを主とするコーラスグループ「亀渕友香&VOJA(The Voices of Japan)」を結成。ライヴ、コンサート活動、アーティスト楽曲コーラス、TVバックコーラス、小中高校での芸術鑑賞会、特別支援学校(養護学校)でのライヴなど、幅広く活動。ボイストレーナーとしても活動し、指導したミュージシャンには杏里、山下久美子、久保田利伸、大黒摩季、MISIA、SPEED、倖田來未、MAX、小沢健二、和田アキ子、平松愛理、研ナオコ、平井堅、持田香織、和央ようか、米倉涼子、観月ありさ、田中ロウマらがいます。

本日はここまでです。
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