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2019年09月23日14:25

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9月23日が忌日である人々

1555年(弘治元年9月8日)、越前国の戦国大名・朝倉氏の家臣、朝倉宗滴が加賀一向一揆の討伐する際の陣中で病に倒れ、一族の朝倉景隆に総大将と朝倉軍を任せて一乗谷に帰還しました。宗滴は手厚い看病を受けましたが、一乗谷にて病死しました。享年79。朝倉貞景・朝倉孝景(宗淳)・朝倉義景の3代の朝倉氏当主を一族の参謀格としてよく補佐し、各地を転戦して武名を轟かせました。茶器・九十九髪茄子を所有していたことでも知られます。
1728年、ドイツの哲学者、法学者のクリスティアン・トマジウスが1728年9月23日に73歳で亡くなりました。父親も著名だった哲学者ヤーコプ・トマジウス。トマジウスの学問的な業績は膨大であり、著作物については、1682年に彼が主査した学位請求論文から、死後の1745年にまとめられた書簡集までの305点が確認されています。1688年に、自然法に関する彼の最初の主著『神法学提要』を著します。この書では自然法などについて考察しています。彼は「ドイツ啓蒙主義の父」と呼ばれました。
1790年(寛政2年)、江戸時代中期の前句付けの点者、柄井川柳が数え73歳で死去しています。川柳の祖であります。明和2年(1765年)7月呉陵軒可有(ごりょうけんあるべし)の協力を得て刊行された「誹風柳多留」は、川柳評前句付の流行に拍車をかけました。後、前付句が独立して川柳と呼ばれるようになりました。
1832年(天保3年)、大坂生まれの江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、頼山陽が天保年間に入った51歳ごろから健康を害し喀血を見るなどしました。容態が悪化する中でも著作に専念しましたが、天保3年(1832年)に死去。享年53。主著に『日本楽府』『日本外史』があります。前者は幕末の尊皇攘夷運動に影響を与え、日本史上のベストセラーとなりました。文政9年(1826年)にはこの『日本外史』が完成し、文政10年(1827年)には江戸幕府老中・松平定信に献上されました。山陽の周辺には、京坂の文人が集まり、一種のサロンを形成しました。その主要メンバーは、父・春水とも関係があった木村蒹葭堂と交友した人々の子であることが多く、大阪の儒者篠崎三島の養子・小竹、京都の蘭医小石元俊の子・元瑞、大阪の南画家岡田米山人の子・半江、京都の浦上玉堂の子・春琴、岡山の武元登々庵が挙げられます。さらに僧雲華、仙台出身で長崎帰りの文人画家・菅井梅関・尾張出身の南画家・中林竹洞、やや年長の先輩格として陶工・青木木米、幕末の三筆として名高い貫名菘翁、そして遠く九州から文人画家・田能村竹田も加わり、彼らは盛んに詩文書画を制作しました。また、その後も文筆業にたずさわり『日本政記』『通議』などの完成を急ぎましたが、健康を悪化させ、死に至ったのです。
1870年、フランスの小説家、プロスペル・メリメが普仏戦争最中の9月に、滞在先の南仏カンヌにて66歳で没し、現地で埋葬されました。青年期に年長のスタンダールとも親交を持ち、公務の傍ら、戯曲や歴史書などを書きました。メリメは神秘主義と歴史と非日常性を愛しました。ウォルター・スコットの有名な歴史小説やアレクサンドル・プーシキンの非情さと心理劇の影響を受けていました。メリメの物語はしばしば神秘に満ち、外国を舞台にしており、スペインとロシアが頻繁に発想の源となっていました。彼の小説の一つがオペラ『カルメン』となりました。Joseph Lestrange名義の『スペインの女優、クララ・ガズル戯曲集』(1825年)と、Hyacinthe Maglanovitch名義の『ラ・グスラ』(1827年)――イリュリアの歌曲と称した選集です。『クララ・ガズル戯曲集』は文学的なまやかしの最も完璧なものの一つで、ロマン主義的な異国情緒の作品を作る人々などを刺激しフランスでのロマン主義革命を加速しました。1829年に本名で発表した歴史小説『シャルル九世治世年代記』によって、メリメは文壇から本格的に注目を集めました。
1877年、フランスの天文学者、数学者のユルバン・ルヴェリエが66歳で亡くなりました。ルヴェリエの最も有名な業績は海王星発見への貢献です。パリ天文台長の数学者フランソワ・アラゴの勧めによって、ルヴェリエは天王星の軌道運動の観測結果とケプラーの法則やニュートン力学から予言される運動との間の矛盾を説明するための計算を行いました。彼と同時期にイギリスのアダムズも同じ計算を行っていましたが、互いに相手の研究については知りませんでした。ルヴェリエは1846年8月31日に計算した結果を、同年9月18日にベルリン天文台のガレに手紙で連絡しました。9月23日に手紙を受け取ったガレはその晩の観測でルヴェリエの予測から1度以内の位置に新惑星と思しき天体を発見し、その後2日間の観測で新惑星(海王星)であると確認しました。
1882年、ドイツの化学者、フリードリヒ・ヴェーラーが82歳で亡くなりました。シアン酸アンモニウムを加熱中に尿素が結晶化しているのを1828年に発見し、無機化合物から初めて有機化合物の尿素を合成(ヴェーラー合成)したことにより「有機化学の父」と呼ばれます。また、ユストゥス・フォン・リービッヒと独立に行なわれた異性体の発見、ベリリウムの発見などの業績があります。
1939年、オーストリアの精神科医、ジークムント・フロイトが癌の進行により、手術不能の状態となりました。癌性潰瘍によって眼窩と頬が瘦せ細り、手術による傷口からは異臭が漂っていました。それにも関わらず鎮痛剤の使用を嫌い、シュテファン・ツヴァイクが使用を勧めるも、はっきりと考えられないのなら苦痛の中で考えた方がましだ、と彼に訴えました。8月に入ると食事も困難となり、9月には敗血症を合併して意識も不明瞭となりました。1939年9月21日、末期ガンに冒されたフロイトは10年来の主治医を呼び、「シュール君、はじめて君に診てもらった時の話をおぼえているだろうね。いよいよもう駄目と決まった時には、君は手をかしてくれると約束してくれたね。いまではもう苦痛だけで、なんの光明もない」と言い、翌朝に過量のモルヒネが投与されて、23日夜にロンドンで83歳4か月の生涯を終えました。神経病理学者を経て精神科医となり、神経症研究、自由連想法、無意識研究を行い、さらに精神力動論を展開しました。精神分析学の創始者として知られます。人間が意識していないいわゆる「無意識」を初めて扱ったフロイトの精神分析は、「無意識の哲学」として大陸現代思想に大きな影響を及ぼしました。彼の思想は現代の精神医学にも大きな影響を及ぼしていますが、その功罪については論が分かれるところです。
1994年、アメリカの小説家、、SF作家、ホラー小説作家、脚本家および映画原作者のロバート・ブロックが77歳で癌との闘病生活の後、カリフォルニア州ロサンゼルスで没し、遺灰はウエストウッド・メモリアルパークの納骨堂に納められました。1959年、代表作『サイコ』が執筆されました。ロバートは、キャラクターの造形をエド・ゲインをもとにしたといわれています。ロバートは、連続殺人鬼や第2次世界大戦を暗示しつつ「本当の恐怖は、物陰でなく人間の頭の中にある。」と語りました。ヒッチコックの映画は、彼の小説をもとにしているものの後のシリーズは、関係なくロバートが提出した台本もスタジオに拒絶されました。
1994年、女優の京塚昌子が1971年に糖尿病を患い、1983年に公演先の愛媛県松山市で脳梗塞で倒れてからは、1984年から1985年にかけては後遺症に耐えながら一度は復帰したものの、やはり症状が悪化。1986年4月には「体調が不本意なため、納得のできる仕事ができない」と休業宣言し、山梨県甲府市の病院に入院しました。その後は静岡県、長野県と各地の病院を転々として療養生活を送り、事実上の芸能界引退状態となりました。晩年は長い闘病生活を送り、心不全のため死去。64歳没。1968年、伊志井の娘である石井ふく子プロデュース作品『肝っ玉かあさん』で、蕎麦屋を切り盛りするしっかり者で涙もろい母親役を好演。『ありがとう』などでも母親役を演じ、1970年代のテレビ業界において、「恰幅が良く、割烹着が似合う母親役」で絶大な人気を誇りました。京塚は「日本を代表するお母さん女優」と呼ばれ、CMにも起用されていました。上記の石井プロデュース作品が当たり役となったことから、「石井組(ファミリー)」の一員に数えられていました。
1996年、漫画家の藤子・F・不二雄が肝不全のため慶應義塾大学病院で死去。62歳没。「F」とは本名の「藤本(フジモト)」の頭文字を意味します。隣接の氷見市出身の安孫子素雄(藤子不二雄Ⓐ)と共に“藤子不二雄”としてコンビを組み、数多くの作品を発表。児童漫画の新時代を築き、第一人者となります。代表作は『ドラえもん』『パーマン』『キテレツ大百科』『エスパー魔美』『21エモン』など。『オバケのQ太郎』は安孫子や石ノ森章太郎との合作。安孫子との“藤子不二雄”のコンビ名を解消したのは、二人の間に収入の格差が生じたという、ドライな理由からでした。

今日もこんなところです。

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