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2019年09月17日05:34

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9月17日が忌日である人々

今日は不作だなあ。興味あるのは文化人類学者のルース・ベネディクトと哲学者のカール・ポパーぐらいです。

1928年、歌人の若山牧水が足の裏の火傷と下痢・発熱を起こして全身衰弱し、急性胃腸炎と肝硬変を併発して沼津市の自宅で死去しました。享年43。1911年(明治44年)創作社を興し、詩歌雑誌「創作」を主宰します。この年、歌人・太田水穂を頼って塩尻より上京していた歌人で、のちに妻となる太田喜志子(1888−1968)と水穂宅にて知り合いました。1912年(明治45年)友人であった石川啄木の臨終に立ち合います。同年、水穂が仲人となり喜志子と結婚。1913年(大正2年)長男・旅人(たびと)誕生。その後、2女1男をもうけました。
1920年(大正9年)沼津の自然を愛し、特に千本松原の景観に魅せられて、一家をあげて沼津に移住します。1926年(大正15年)詩歌総合雑誌「詩歌時代」を創刊。大変な酒豪として知られ、1日に1升の酒を飲んでいたそうです。
1938年、ロシアおよびソビエト連邦の経済学者、ニコライ・コンドラチェフですが、ソビエト政権の経済政策における好ましからざる人物となり、1930年に逮捕されました。ヨシフ・スターリンは彼の裁判に強い関心を持ちました。国際的評価を持った著名な経済学者であることで、コンドラチエフは政権に対する脅威と見做されたのです。コンドラチエフは架空の罪を自白することを強いられました。階級敵を意味する「クラーク教授」の名で有罪を宣告されることにより、彼は1932年にスズダリへ流刑となりました。1938年、最高潮となった大粛清により10年間外部との文通の権利が無い、という新たな刑の宣告を受けましたが、この常套句は死刑宣告のための暗号であり、コンドラチエフは刑が宣告された同日にモスクワ州のコムナルカ射撃場で銃殺されました。享年46。彼は生前、「西側陣営の資本主義経済が40〜60年規模の好不況からなる景気循環を持つ」という理論を提唱しました。この景気循環はヨーゼフ・シュンペーターによってコンドラチエフ循環と名づけられました。
1948年、文化人類学者のルース・ベネディクトがニューヨークにて61歳で亡くなっています。彼女の『文化の型』(1934年)は、あらゆる人間社会の中で現れてくる行動パターンの形成過程を記述し、文化の相対主義を表現したものでした。専門的な題材を扱ったにもかかわらず、本書は戦前期のアメリカで最も広く読まれた文化人類学の著作となりました。1936年、コロンビア大学の助教授に昇任すると、アメリカ合衆国が第二次世界大戦に参入するに当たって戦争に関連した研究や助言のため戦争情報局に招集されました。日本班チーフとしてベネディクトがまとめた報告書「Japanese Behavior Patterns (日本人の行動パターン)」を基に『菊と刀』が執筆されました。1946年、戦時中の調査結果をもとに代表作『菊と刀』が一般にも出版されました。『Patterns of Culture』は『文化の諸樣式』や『文化の型』という邦題がつけられ、現在、講談社学術文庫として出版されています。
1994年、オーストリア出身イギリスの哲学者、カール・ライムント・ポパーが92歳で死去。純粋な科学的言説の必要条件としての反証可能性を提唱しました。精神分析やマルクス主義を批判。ウィーン学団には参加しなかったものの、その周辺で、反証主義的観点から論理実証主義を批判しました。また、「開かれた社会」において全体主義を積極的に批判しています。「開かれた社会」の敵の一つである共産主義、およびそれに関する一連の思想にたいしては、ポパーはまず、「物事は一定の法則にしたがって歴史的に発展してゆく」とする歴史法則主義あるいは社会進化論を批判しました。また、弁証法を基軸とするヘーゲルやマルクスやフランクフルト学派などの思想も批判しました。1958年にスイスの海外研究所で行った講演『西洋は何を信じるか』において彼は、「赤でも無く、死でもなく」と言って、断固、ソビエト連邦の政治体制を拒否し、これに反対してゆくことを訴えました。マルクスに脳を支配された共産主義者達はポパーの著作を読めば、ぐうの音も出ないでしょう。しょせん、読みもせずに「ブルジョアの哲学だから」とかほざいて敬遠するのがオチなのです。
1997年、歴史家、評論家の会田雄次が京都市内の病院で肺炎のため死去。享年81。小気味よい保守派の論客でした。1942年から1948年まで京都帝国大学文学部副手、1942年から1947年まで龍谷大学予科講師。1943年に応召しビルマ戦線に歩兵一等兵として従軍。イギリス軍捕虜となり1947年に復員するまでラングーンに拘留されました。この時の捕虜体験を基に書かれたのが代表作『アーロン収容所』(中公文庫)です。

今日はここまでです。

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