mixiユーザー(id:5138718)

2019年06月21日00:21

212 view

6月21日が誕生日、忌日となった人々

では、誕生日からいきましょうか。残念ながら古代にめぼしい人物が見当たりません。

1646年、ドイツに哲学者、数学者のゴットフリート・ライプニッツが生まれています。ルネ・デカルトやバールーフ・デ・スピノザなどとともに近世の大陸合理主義を代表する哲学者。学の傾向としては、通常、デカルトにはじまる大陸合理論の流れのなかに位置づけられますが、ジョン・ロックの経験論にも深く学び、ロックのデカルト批判を受けて、精神と物質を二元的にとらえる存在論およびそれから生じる認識論とはまったく異なる、世界を、世界全体を表象するモナドの集まりとみる存在論から、合理論、経験論の対立を回収しようとしたといえます。ライプニッツは、20世紀後半に至って、「必然的真理とは全ての可能世界において真となるような真理のことである」といった可能世界意味論に基づく様相理解の先駆者と見なされるようになりました。このような考え方は、ルドルフ・カルナップの『意味と必然性』を嚆矢とし、その後アーヴィン・プランティンガやデイヴィッド・ルイスなどの影響もあり、ライプニッツの様相概念についての通説として定着した感があるほどです。最近では、最晩年(1714年)に著した『中国自然神学論』が注目を集め、比較思想の観点からも(洋の東西を問わず)研究が進められつつあります。主著は、『モナドロジー』、『形而上学叙説』、『人間知性新論』など。ライプニッツは哲学者、数学者、科学者など幅広い分野で活躍した学者・思想家として知られていますが、政治家であり、外交官でもありました。17世紀の様々な学問(法学、政治学、歴史学、神学、哲学、数学、経済学、自然哲学(物理学)、論理学等)を統一し、体系化しようとしたのです。その業績は法典改革、モナド論、微積分法、微積分記号の考案、論理計算の創始、ベルリン科学アカデミーの創設等、多岐にわたっています。数学においては、微積分法をアイザック・ニュートンとは独立に発見・発明し、それに対する優れた記号法すなわちライプニッツの記法を与えました。現在使われている微分や積分の記号は彼によるところが多いのです。それと同等か、あるいはそれ以上に重要な業績は今日の論理学における形式言語に当たるものを初めて考案したことであります。ライプニッツによれば、それを用いることで、どんな推論も代数計算のように単純で機械的な作業に置き換えることができ、注意深く用いることで、誤った推論は原理的に起こり得ないようにすることができるというものです。2進法を研究したのもライプニッツの業績です。彼は中国の古典『易経』に関心をもっており、1703年、イエズス会宣教師ジョアシャン・ブーヴェから六十四卦を配列した先天図を送られ、そこに自らが編み出していた2進法の計算術があることを見いだしています。まさに「知の巨人」とでも言うべき存在です。
1738年、経世家で、高山彦九郎・蒲生君平と共に寛政三奇人の一人、林子平(六無齋主人)が出生。彼は地理書・経世書である『三国通覧図説』を著しました。日本に隣接する三国、朝鮮・琉球・蝦夷と付近の島々についての風俗などを挿絵入りで解説した書物とその地図5枚からなりますが、韓国ではこれを、同国の竹島・対馬領有権の証拠と主張し、中国ではこれを、同国の尖閣諸島領有権の証拠と主張しているように正確性にやや難のある書であります。また、『海国兵談』という書物も著しています。彼は同書の中で、「およそ日本橋よりして欧羅巴に至る、その間一水路のみ」と喝破して、当時の人びとを驚かせています。『海国兵談』は海防の必要性を説く軍事書であったため、出版に協力してくれる版元を見つけることができませんでした。そこで子平は、16巻・3分冊もの大著の版木を自ら彫り、自費出版で須原屋市兵衛から刊行しました。『海国兵談』は寛政3年(1791年)、仙台で上梓されます。しかし幕閣以外の者が幕政に容喙するのはご法度であり、両著はともに発禁処分が下され、『海国兵談』は版木没収の処分を受けることとなりました。しかしその後も自ら書写本を作り、それがさらに書写本を生むなどして後に伝えられたのです。最終的に、仙台の兄友諒の許へと強制的に帰郷させられた上、蟄居に処されます。蟄居中、その心境を「親も無し 妻無し子無し版木無し 金も無けれど死にたくも無し」と嘆き、自ら六無斎(ろくむさい)と号しました。寛政5年6月21日(1793年7月28日)死去。享年56。
1730年(享保15年5月7日)、国学者・文献学者・医師であった本居宣長が誕生。荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤とともに「国学の四大人(しうし)」の一人とされています。代表作は随筆の『玉勝間』。他に国学の『古事記伝』『うひ山ぶみ』などもあります。20世紀以降の活字による翻刻版として、本居宣長全集のほかに岩波文庫と日本思想大系とがあり、日本思想大系は注釈もついています。
1781年、フランスに数学者でもあり、物理学者でもあるシメオン・ドニ・ポアソンが生まれています。数学では確率論や積分学に功績があり、物理学者としては電磁気学を研究しています。
1893年には翻訳家でもあり児童文学者でもある村岡花子が生誕。児童文学の翻訳で知られ、『赤毛のアン』をはじめとしたモンゴメリの著作の多くと、エレナ・ポーター、オルコットなどの翻訳を手がけています。自ら創作した作品には『紅い薔薇』『村岡花子童話集』『桃色の玉子』『きんぎょのおともだち』などがあります。他にナイチンゲールやヘレン・ケラーのことをつづった随筆・評論なども多数。1968年10月25日、脳血栓で死去。75歳没。
1905年にはフランスに実存主義哲学で有名なジャン=ポール・サルトル が生まれました。彼はロリコンで教え子をはじめとした若い女の子を同棲生活に引っ張りこんでいます。生涯の伴侶となるシモーヌ・ド・ボーヴォワールと知り合い、1929年には2年間の契約結婚を結んでいます。この結婚は、結婚関係を維持しつつお互いの自由恋愛を保障するなど前衛的なものでありましたが、結果的には幾度かの波乱はあったものの、ジャン=ポール・サルトルが逝去するまでの50年間以上に渡りこの関係は維持されました。サルトルの哲学はクロード・レヴィ=ストロースや構造主義の研究家ら後輩の哲学者によって徹底的に論破・批判され、世界中を席巻しましたものも今ではその輝きを失っています。1973年に激しい発作に襲われ、さまざまな活動を制限することになりました。また、斜視であった右目は3歳からほぼ失明していましたが、残る左目からの眼底出血により、この時期に両目とも失明しています。彼はマルクスの共産主義思想には人間性への洞察が欠けているとし、自分の実存主義こそがそれを埋めるものだという主張をしていました。これがアルベール・カミュやメルロー=ポンティとの決別の原因のひとつとなりました。主著は小説の『嘔吐』、哲学では1943年に『存在と無』を著しました。1980年、肺水腫により74年の生涯を閉じたときにはおよそ5万人がその死を弔いました。
1935年にはフランスの小説家、フランソワーズ・サガンが誕生。代表作は『悲しみよこんにちは』。ジャン=ポール・サルトルと交流が深く、作品には実存主義の影響が見られます。
1937年には歌舞伎役者の2代目坂東吉彌が生まれています。敵役を中心とした名優で、私も何度も彼の舞台を見る機会に恵まれています。歌舞伎以外の一般的な演劇にも数多く出ていることから、「しょせん、あっしゃあ色物の役者で」と謙遜しながら、スター級のわき役が演じる「蝙蝠安」のような大役を見事に演じていました。2004年4月23日没。忘れられない役者の一人です。
1941年には女優の長山藍子が誕生。映画化される前、テレビドラマだった時代の『男はつらいよ』において、妹の「さくら(櫻)」を演じていました。映画版では倍賞千恵子が演じていましたね。テレビ版のほうでは寅の脱いだジャケットに長山が頬をうずめるという、映画を見慣れた人にはすぐわかる、二人の間に近親相姦的な関係があったことを匂わせていました。他のテレビドラマでは『女と味噌汁』シリーズや『渡る世間は鬼ばかり』など、TBS制作のホームドラマ・石井ふく子プロデュース作品に数多く出演しています。
1946年、元ザ・モップスのボーカルであり、後に俳優にもなった鈴木ヒロミツが生誕。彼の歌う『傘がない』は作者の井上陽水のそれを凌駕しています。1971年に放映されたモービル石油(現:JXTGエネルギー)のCM「のんびり行こうよ」編ではCM演出家の木村俊士とともにガス欠のクラシックカーを押す青年の役を演じ、昭和の名CMの一つとなりました。刑事ドラマ『夜明けの刑事(デカ)』では坂上二郎や石立哲男らと共演していました。芸能界きっての美食家としても知られ、紀行番組のグルメリポーターとしても活躍、2002年に自らが堪能した絶品料理を紹介した単行本『食わずに死ねるか!』を出版しています。2007年3月14日午前10時02分、肝細胞癌のため東京都千代田区の病院で死去。60歳没。
1948年には作曲家の都倉俊一が生まれています。1970年代にはピンク・レディーや山口百恵などアイドルの曲を手がけヒットを連発。かつてラジオに出ていた時、パーソナリティーを差し置いて自己のオーケストラについて延々と語ったり、大信田礼子と結婚していた時代、「フランス革命は何年だ!? 都倉家の嫁はそれくらい答えられないでどうする」とうそぶいていた事をばらされるなど、私は彼に対して、あんまり良い印象を持っていません。
1955年、漫才コンビ「大木こだま・ひびき」の大木ひびきが生まれています。そうかあ。彼も私と同い年かあ。本当に昭和30年生まれには有名人が多いですねえ。彼らの漫才は、ひびきがツッコミ担当ですが、そう単純なものではありません。こだまのボケに対してひびきがつっこみ、それに更にこだまが一種の屁理屈のようなボケでつっこみ返すというパターンを持っています。2015年、10歳年下の一般女性と約10年の交際期間を経て結婚。尚、吉本興業所属前に一度結婚歴があるそうです。
これも1955年生まれ。俳優の長谷川初範です。1980年、特撮テレビドラマ『ウルトラマン80』(TBS)に主人公・矢的猛役で初主演しました。1989年、何を思ったのか、芸名を「長谷川ショパン」に改めましたが、のちに再び「長谷川初範」に戻しています。改名する人は「悩む人」だと吉田豪はよく言っていますが。格闘技をはじめとしたスポーツへの傾倒゛りも有名で、1986年、元タイガーマスクの佐山聡主宰シューティングタイガージムに一年間ジム生として参加、特別講師のキックボクシング藤原敏男にも教えを請うています。
1965年には「花の82年組」の一人、歌手で女優の松本伊代が誕生。「伊代はまだ16だから♪」の歌詞で有名なデビュー曲『センチメンタル・ジャーニー』が最大のヒット曲。夫はタレントのヒロミ。『マイ・ラグジュアリー・ナイト』のヒットで知られる歌手のしばたはつみははとこで、遠縁にあたります。ヒロミと結婚した直後、出演していたTV番組で突き飛ばされたり、揶揄されるなど、ぞんざいな扱いを不可解にも受けていました。
1993年にはももいろクローバーZのメンバー、高城れにが生まれています。グループでのイメージカラーは紫で、ボーカル・ベース・ギター担当。2016年からはレギュラー番組『高城れにの週末ももクロ☆パンチ!!』(文化放送)のパーソナリティも務めています。女優としても活動。他のメンバー4人とともに青春映画『幕が上がる』での主演を果たしました。たしか、かつて「山田うどん」のCMキャラもつとめていたかと思うのですが、検索しても出てきません。私の勘違いかな…。
1976年には漫才お笑いコンビ『米粒写経』のツッコミ担当、サンキュータツオが生まれています(相方は居島一平)。早稲田大学第一文学部文学科文芸専修卒、同大学大学院文学研究科日本語日本文化専攻修士修了。一橋大学・早稲田大学・成城大学で非常勤講師をつとめたり、辞書『広辞苑』も執筆するという、世にも珍しい「学者芸人」、日本初の大学院博士課程芸人でもあります。それにしてもあのお堅いことで知られる岩波書店の辞書にカタカナ名前の執筆者が加わっているとは、世も変わりました。

それでは忌日を。

1185年、壇ノ浦で源氏方に捕えられ、鎌倉から京都への送還中に平宗盛が斬られてしまいました。享年数え39歳。父は平清盛。
1527年、イタリアの政治家、思想家のニッコロ・マキャヴェッリが58歳で死去。マキャヴェッリはその軍事思想を『君主論』、また『政略論』や『戦術論』に記しています。しかし代表作は何と言っても政治学の著作『君主論』でしょう。歴史上の様々な君主および君主国を分析し、君主とはどうあるものか、君主として権力を獲得し、また保持し続けるにはどのような力量(徳、ヴィルトゥ)が必要かなどを論じています。その政治思想から現実主義の古典として位置づけられています。ここではどんな手段や非道徳的な行為も、結果として国家の利益を増進させるのであれば許されるという考え方が示されています。後世、これをマキャヴェリズムと呼ぶようになり、また卑俗な使用例として、目的のためには手段を選ばない姿勢をマキャヴェリストというのがあります。本来のマキャヴェリストとはマキャベリズムの支持者や行為者を指します。
1793年には『海國兵談』の著者、林子平が数え56歳で亡くなりました。彼についてはさんざん触れた気がするので、ここでは割愛いたします。
1852年には幼稚園を創始したドイツの教育学者、フリードリッヒ・フレーベルが70歳で死去。
1872年、第15代土佐藩主の山内豐信(山内容堂)が数え46歳で亡くなっています。明治時代には麝香間祗候に列し、生前位階は正二位まで昇りました。薨去後は従一位を贈位されました。「容堂」は隠居後の号。
1874年、スウェーデンの物理学者(分光学)、アンデルス・オングストロームが59歳で亡くなりました。長さの単位Å(オングストローム)は彼の名前にちなんでおります。
1957年、歌手でコメディアンの川田晴久が腎臓結核に尿毒症を併発し、都内の病院で50年の生涯を閉じました。1937年、伝説のボーイズ第一号「あきれたぼういず」を結成。メンバーであった坊屋三郎によると、流行歌にオチを付けた漫談をしようとの狙いから、流行していた美ち奴のヒット曲「ああそれなのに」のパロディを浅草花月の「吉本ショウ」で演じたところ観客から大受けに受け、以後、坊屋三郎、坊屋の実弟である芝利英、益田喜頓とグループを組み、浅草を基盤とした人気コメディアンの座に駆け上がることになります。この人気に目を付けたビクターレコードでは、「四人の突撃兵」「スクラム組んで」をレコードとして発売。その後も「珍カルメン」「四文オペラ」「商売往来」といった舞台でのヒット作をレコード化し、学生やインテリ層を中心に人気を広げていきました。やがて川田を除く3人のメンバーが新興なるオフィスに移籍。「あきれたぼういず」は事実上解散となり、川田は新たに実弟の岡村龍雄、頭山光、菅井太郎(後に有木三多と交代)らと新生グループ「川田義雄とミルク・ブラザース」(ミルス・ブラザースのもじりであり、乳兄弟の洒落でもある)を結成し、引き続き吉本で活躍していきます。このミルク・ブラザース時代にレコード化された「地球の上に朝が来る」は川田のテーマソングとして、生涯オープニングテーマとして歌い続けられました。「地球の上に朝が来る、その裏側は夜だろう」のフレーズは「犬が西向きゃ尾が東」という浪花節でよく用いられる対極を歌った独特のセンスを踏襲しており、ここに川田のギター漫談のスタイルが確立されたのです。エノケン、ロッパ、エンタツ・アチャコといった喜劇のスターにたちまち肩を並べた川田は、東宝映画で「ハモニカ小僧」に主演。1941年には当時の大スター長谷川一夫と「昨日消えた男」(監督:マキノ正博)で共演するにまで至ります。脊髄カリエスに罹るもこれを克服し、1948年には「川田義雄とダイナ・ブラザース」を結成して舞台に復帰しました。翌年には姓名判断によって「川田晴久」と改名。「川田晴久とダイナ・ブラザース」としての再出発をした川田に、大きな出会いが待っていました。横浜国際劇場に出演した際に人気歌手小唄勝太郎に花束を渡す役として登場した少女・美空ひばりとの出会いです。川田はひばりをそばに置いて可愛がり、多くの影響を与え、また、スターへの道を拓きました。ひばり自身も「師匠と呼べるのは父と川田先生だけ」と語っていたそうです。川田晴久と改名後の人気は戦前を上回るものとなりました。1950年、自らの自伝的映画と言われる東宝映画「笑う地球に朝が来る」に主演。美空ひばりと共演した「東京キッド」「新東京音頭 びっくり五人男」「とんぼ返り道中」「母を慕いて」「底抜け青春音頭」などの他に、設立されたばかりの民放ラジオ局の番組や地方巡業などに積極的に活躍し、川田の生活は多忙を極めていたのです。1956年、映画撮影中に腎炎が悪化して倒れるが、その後、死の直前まで続けることとなるラジオミュージカル「遠山の金さん」を製作。病床にまでラジオの器材や持ち込ませ収録を続ける執念を燃やし続けた川田晴久でしたが、都内の病院で50年の生涯を閉じました。
1970年、インドネシアの初代大統領、スカルノが69歳でジャカルタで死去。Soekarnoでフルネーム。1965年の「9月30日事件」によって失脚した後は不遇の晩年を送りましたが、いまなお国民には「ブン・カルノ」(カルノ兄さん)と呼ばれ、国父(建国の父)として敬意をもって愛され続けており、紙幣(最高額面の10万ルピア)に肖像が使われています。第三夫人が日本名・根本七保子のラトナ・サリ・デヴィ。
1997年、俳優の勝新太郎が入院先の千葉県柏市の国立がんセンター東病院において下咽頭癌で死去。享年67(65歳没)。三味線芸の「杵屋」の次男。兄は勝と対照的に下戸であった若山富三郎。勝の三味線芸は天下一品だったそうです。1979年には映画『影武者』の主役に抜擢されますが、監督の黒澤明と衝突し降板。1990年1月、勝はアメリカ合衆国ハワイ州のホノルル国際空港で下着にマリファナとコカインを入れていたとして現行犯逮捕されます。麻薬を下着に入れていた理由について「気付いたら入っていた」としらを切り、逮捕後の記者会見では「今後は同様の事件を起こさないよう、もうパンツをはかないようにする」「なぜ、私どもの手にコカインがあったのか知りたい。」ととぼけ通し、結局、誰から薬物を受け取ったかについて、最後まで口を割ることはありませんでした。帰国した翌年に日本でも麻薬及び向精神薬取締法違反の容疑で逮捕され、懲役2年6か月・執行猶予4年の有罪判決を受けることになります。映画『座頭市』のシリーズや『悪名』シリーズが代表作ですが、私は敢えて『兵隊やくざ』シリーズをお勧めいたします。田村高廣とのコンビは絶品。テレビドラマでは『痛快!河内山宗俊』も印象深いです。
2016年、政治家の鳩山邦夫が十二指腸潰瘍のため、都内の病院にて67歳で死去。鳩山威一郎の次男。兄の由紀夫も政治家ですが、兄弟の仲はあまり良くなかったようです。ただし、改憲については一致していて、共に改憲論者でした。東大法学部を首席で卒業しています。高校時代は駿台予備校の模試を5回受け、1回目は600番くらい、3回目が105番、4回目に60番、5回目に1番になりました。1976年(昭和51年)の第34回衆議院議員総選挙に新自由クラブ推薦で旧東京8区から出馬し、初当選。同じく無所属の宇都宮徳馬、麻生良方と衆院無党派クラブを結成。1978年12月に自民党入党後は、田中派→竹下派に所属しました。1993年(平成5年)に自民党を離党し、第40回衆議院議員総選挙では無所属で当選。1996年(平成8年)に新進党を離党し、兄・由紀夫らと旧民主党を結党、副代表に就任。その後、民主党を離党し、1999年東京都知事選挙に立候補しました。不出馬を表明した青島幸男知事の後継指名、及び民主党・生活者ネット・改革クラブの推薦を受けましたが、石原慎太郎の後塵を拝し、2位で落選しました。自民党に復党後、2003年(平成15年)の第43回衆議院議員総選挙では突然「あのような人物を一国の総理にするわけにはいかない」と、民主党代表の菅直人の選出選挙区である東京18区に国替えし、出馬。小選挙区では落選しましたが比例東京ブロックで復活当選しました。2010年(平成22年)3月15日、自民党に離党届を提出し、24日の党紀委員会で了承されました。2011年(平成23年)末、自民党に復党届を提出しますが、党内の反発で先送りされました。2012年(平成24年)12月16日の第46回衆議院議員総選挙には無所属で出馬し、自民党の推薦を受けて12選しました。翌日、安倍晋三総裁宛ての復党願を同党福岡県連に提出。その後、党紀委員会にて復党が了承され、11日後の12月28日に2年ぶりに復党したのです。死去する三週間ほど前の6月1日、衆議院本会議に出席した時に非常に痩せ細った姿が見られました。余りの変貌ぶりから健康不安が囁かれましたが、この時はあくまで否定していました。…しかし政治家、とくに自民党関係者について触れるのは、なんだか疲れるなあ(笑)。

では今日もこんなところで失礼いたします。
2 2

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2019年06月>
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30      

最近の日記