mixiユーザー(id:5138718)

2019年06月21日00:20

71 view

6月21日の記念日と歴史上の出来事

まずは記念日から。

「がん支え合いの日」。がん患者や家族を支援するNPO法人キャンサーリボンズが制定。
夏至になることの多いこの日を記念日としました。
「スナックの日」。かつて夏至に「歯固め」と称して正月の餅を固くして食べる習慣があったことから。でもそれがスナックとどう結びつくのだろう?

次は歴史上の記念日です。

756年、聖武天皇の遺品が東大寺蘆舎那仏に献納されました。後にこれを収納する為の正倉院を建立。正倉院は、校倉造(あぜくらづくり)の大規模な高床式倉庫。聖武天皇だけでなく光明皇后ゆかりの品をはじめとする、天平時代を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた建物で、1997年(平成9年)に国宝に指定され、翌1998年(平成10年)に「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。
1467年(応仁元年5月20日)、応仁の乱が勃発。山名持豊(宗全)、畠山義就らが挙兵。この内乱は文明9年(1478年)までの約11年間にわたって継続しました。室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大しました。明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされています。十数年に亘る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束しますが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃しました。
1582年(天正10年6月2日、明智光秀が京都の本能寺に滞在中の織田信長を襲撃し、信長は自害(本能寺の変)。信長の嫡男で織田家当主信忠は、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に退いて戦ったが、やはり館に火を放って自刃しました。2人の非業の死によって織田政権は崩壊し、天下人となった光秀でしたが、中国大返しで畿内に戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れて、僅か13日後に光秀もまた同様の運命を辿ります。この事件は戦国乱世が終息に向う契機となったので、戦国時代における最後の下剋上とも言われます。
1593年(文禄2年5月22日)、文禄の役。日本の天下統一を果たした天下人秀吉は大明帝国の征服を目指し、配下の西国の諸大名を糾合して遠征軍を立ち上げました。秀吉は(明の)冊封国である李氏朝鮮に服属を強要したが拒まれたため、この遠征軍をまず朝鮮に差し向けて、ここで第二次晋州城の戦いが始まります。「第二次」と呼ばれるのは、和平交渉が一度はなされたため。和平条件でもあった朝鮮半島南部の獲得を既成事実とするため、晋州城方面と全羅道の征服を図ったのです。晋州城を攻略した日本軍は直ちに全羅道へ進撃し、7月5日には求礼、7日には谷城へ進出し、明軍及び朝鮮軍を撃破しました。しかし、南原の守りが堅いと見ると9日には晋州城へ撤退しました。 攻略戦の最中、日本軍は恒久的在陣のため朝鮮半島南部に拠点の築城が開始され、晋州城は撤退時に破却された。
1635年、江戸幕府が「武家諸法度」を改訂。毎年4月の外様大名の参勤交代を義務化。起案者は林羅山、発布者は第3代将軍・徳川家光。この改定は何度も行われ、徳川綱吉の殉死の禁止や末期養子の緩和などを定めた1683年の天和令、最後の改訂となる徳川吉宗の1717年の享保令(実質は天和令)が知られています。
1669年(寛文9年6月4日)、シャクシャインの戦い。アイヌ民族が一斉蜂起しました。松前藩が独占していた交易レートは次第にアイヌ民族に不利なものとなっていきました。このレートはシャクシャインの戦い前夜の1665年には松前藩の財政難から一方的に従来の米2斗(約30kg)=干鮭100本から米7升(約10.5kg)=干鮭100本と変更され、アイヌ民族にとって極めて不利なものとなったのです。 このレートの上昇ですが、全国的な飢饉が発生しており、まさに寛文年間がピークだったのです。また和人からアイヌ民族に交易を一方的に強要する「押買」の横行や、大名の鷹狩用の鷹を捕獲する鷹待や砂金掘りの山師が蝦夷地内陸部を切り開く行為、松前藩船の大網による鮭の大量捕獲がアイヌ民族の生業基盤を脅かし和人への不満が大きくなりました。シャクシャインにオニビシを殺されたハエのアイヌは松前藩庁に武器の提供を希望しましたが、藩側に拒否されたうえ、サル(現日高振興局沙流郡)の首長ウタフが帰路に疱瘡にかかり死亡してしまいます。このウタフ死亡の知らせを、アイヌ人は「松前藩による毒殺」と流布したのです。この誤報によりアイヌ民族は松前藩、ひいては和人に対する敵対感情を一層強めました。シャクシャインは蝦夷地各地のアイヌ民族へ松前藩への蜂起を呼びかけ、多くのアイヌ民族がそれに呼応しました。シャクシャインらの呼びかけによりイシカリ(石狩地方)を除く東は釧路のシラヌカ(現白糠町)から西は天塩のマシケ(現増毛町)周辺において一斉蜂起が行われました。決起した2千の軍勢は鷹待や砂金掘り、交易商船を襲撃しました。突然の蜂起に和人は対応できず東蝦夷地では213人、西蝦夷地では143人の和人が殺されました。一斉蜂起の報を受けた松前藩は家老の蠣崎広林が部隊を率いてクンヌイ(現長万部町国縫)に出陣してシャクシャイン軍に備えるとともに幕府へ蜂起を急報し援軍や武器・兵糧の支援を求めます。幕府は松前藩の求めに応じ弘前津軽氏・盛岡南部氏・秋田(久保田)佐竹氏の3藩へ蝦夷地への出兵準備を命じ、松前藩主松前矩広の大叔父にあたる旗本の松前泰広を指揮官として派遣しました。弘前藩兵700は藩主一門の杉山吉成(石田三成の嫡孫)を大将に松前城下での警備にあたりました。シャクシャイン軍は松前を目指し進軍し、7月末にはクンヌイに到達して松前軍と戦闘を行いました。戦闘は8月上旬頃まで続きますがシャクシャイン軍の武器が弓矢主体であったのに対し松前軍は鉄砲を主体としていたことや、内浦湾一帯のアイヌ民族集団と分断され協力が得られなかったことからシャクシャイン軍に不利となりました。このためシャクシャインは後退し松前藩との長期抗戦に備えました。9月5日(8月10日)には松前泰広が松前に到着、同月16日(8月21日)にクンヌイの部隊と合流し28日(9月4日)には松前藩軍を指揮して東蝦夷地へと進軍しました。さらに松前泰広は松前藩と関係の深い親松前的なアイヌの集落に対して、幕府権力を背景に恫喝して恭順させアイヌ民族間の分断とシャクシャインの孤立化を進めました。シブチャリに退いたシャクシャインは徹底抗戦の構えであったため、戦いの長期化による交易の途絶や幕府による改易を恐れた松前軍は謀略をめぐらしシャクシャインに和睦を申し出ました。シャクシャインは結局この和睦に応じ11月16日(10月23日)、ピポク(現新冠郡新冠町)の松前藩陣営に出向きましたが和睦の酒宴で謀殺されます。この他アツマ(現勇払郡厚真町)やサル(現沙流郡)に和睦のために訪れた首長も同様に謀殺あるいは捕縛されました。翌17日(24日)にはシャクシャインの本拠地であるシブチャリのチャシも陥落します。指導者層を失ったアイヌ軍の勢力は急速に衰え、戦いは終息に向かいました。翌1670年には松前軍はヨイチ(現余市郡余市町)に出陣してアイヌ民族から賠償品を取るなど、各地のアイヌ民族から賠償品の受け取りや松前藩への恭順の確認を行いました。戦後処理のための出兵は1672年まで続きます。
1752年、ベンジャミン・フランクリンが、ライデン瓶による積乱雲の帯電を証明する実験を行いました。フランクリンは凧を用いた実験で、雷が電気であることを明らかにしたことでも知られています。
1795年、小笠原諸島を探検した代官・伊奈忠易が幕府に珍獣・奇木を献上しました。
1900年、義和団事件で清が日米英独仏伊墺露の8か国に宣戦布告。義和団については何度も記述したので、もう良いでしょう。
1948年、アメリカのコロンビアレコードがLPレコードを初めて発表。この結果、長時間の楽曲が一枚のレコードに吹き込むことができるようになりました。ジャズの分野では、ハード・バップという曲のテーマ(冒頭と最後に流されるメロディー)と長時間のアドリブ・ソロを重視する音楽が可能となりました。
1962年、「産経新聞」で司馬遼太郎の『竜馬がゆく』が連載開始。歴史上の事象や人物像を小説という形式を通じてそのまま受け取るというのは、愚かな一面もあります。そういう意味でも司馬という存在には効難の両面があります。
1968年、三派全学連などが「日本のカルチェラタン」を叫んで神田駿河台の学生街を占拠しました。団塊の世代でも、こうした運動に関わって、挫折した経験を持つものはまだマシな人たちです。当時、大学の休校が続いていたのを良いことに、遊び惚けていたノンポリ系団塊の世代は、本当にどうしようもない連中です。
1993年、自民党を離党した武村正義ら10人が「新党さきがけ」を結成。1996年に党が分裂した際には、武村正義は政界を引退してしまいました。
1995年、羽田発函館行き全日空機が、休職中の銀行員によりハイジャックされました。
2000年、岡山県で高校3年の男子生徒が母親を金属バットで殴って殺害。

この項目はここまで。次は誕生日と忌日に移ります。
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2019年06月>
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30