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2019年02月22日13:45

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全盛期の国際プロレスを支えた男 ストロング小林 その14

時系列を乱してしまいますが、ストロング小林に同じ国際プロレスで牙をむいた選手たちを取り上げます。

一番手はラッシャー木村。昭和48年のことです。木村が小林のIWA世界ヘビー級タイトルに挑戦してきたのです。当時、この試合は「力道山vs.木村政彦いらいの日本人大物対決」とさえ言われました(もっとも、力道山も木村政彦も韓国・朝鮮人だったのですが)。この時は小林がからくも小林が2-1で勝利しました。木村のチョップ攻撃は強烈で、小林もたじたじになっておりました。前宣伝が不十分だったので、客入りはよくなかったようですが。

同じ昭和48年、第5回 IWAワールド・シリーズが開催されました。大本命の小林がここで星を落としてしまったのです。Aブロックに振り分けられていた小林は、ラッシャー木村にこそ買ったものの、まさかのラーズ・アンダーソンに負け、そして先輩ではあるものの格がはるかに下だったはずの寺西勇に回転エビ固めで連敗してしまいました。
この結果、小林は決勝戦に進むことができず、木村の後塵を拝することになってしまいました。ちなみに優勝者は決勝戦でブラックジャック・マリガンを下した木村でした。

ここからは試合ではなく、足を引っ張られた話になってまいります。先輩のサンダー杉山はよく小林をからかい半分にいびっていたそうです。
「あんたチャンピオンなんでしょ? チャンピオンなんだから強いはずなんだから」とか。

そして決定的なのが草津です。草津は小林のGAY性癖をさんざんにののしっていたらしいです。小林がどこでGAYの世界に入り込んでしまったのか。推測するに、立川米軍基地でボディビルに打ち込んでいた時代が考えられます。アメリカ人のボディービルダーにはGAYの人が多いですものね。
草津の「口撃」はこれだけではありませんでした。吉原社長に小林の悪口を吹き込むだけ吹き込んでいたとか。ために小林と吉原社長との間には亀裂が入り、以後、両者の人間関係は吉原功が新日本の顧問に就任するまで、修復できなかったのです。
草津の人間性については、十数年前、浅草の小畑千代さん&佐倉輝美さんのスナックでもつぶさに伺いました。草津と一緒にいるのを嫌った彼女たちは国際プロレスの選手用バスで移動するのを拒否し、自前で列車移動をしていたそうです。
草津は東京12チャンネル主導の「国際プロレス女子部」の設立に、吉原社長とともに最後まで反対していたから、彼女たちへの当たりもひどかったのでしょうね。
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