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2020年03月23日12:43

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第18章 離欲の完成


バガヴァッド・ギーターは、人の成長の段階や状況によってどのように考え、どのように行動し、どうあるべきかに光をあてます。
18章は、ここまで述べてきた教えの集大成です。前の章で扱われたとても大切なポイントがまとめられています。ここにおいてクリシュナのアルジュナに対する教えの全容が明らかになります。
最初の章でアルジュナが悲嘆にくれていた困惑や苦悩は、“何が真実か” を理解することで、自然と手放されてゆきました。
人は正当な理由なく悲しみや苦しみにしがみついていることがあります。その悲しみを取りのぞく教えがギーターです。

この章は、アルジュナの質問によって始まりました。
サンニャーサ (行いを手放すこと・放擲) の本当の意味とは何か?
ティヤーサ (結果の期待を捨てること・捨離) の意味とは何か?

3章から引き続き、形を変えて幾度も質問されたこの内容を最後の章でまとめています。
人が目指す自由とはモークシャ。これは知識を理解することによって達成される自由です。
“行い手” である自分、 ”個人“ である自分という、自我意識から自由になるということ。
そして自分自身の本質は、全体でありイーシュヴァラ(全体世界)と同じ真実であることを理解することが、人を苦しみや悲しみから自由にします。
自分自身が単なる行い手であり個であるという自我意識が知識によって落ちた時、本当の意味での行いの放棄「サルヴァカルマ・サンニャーサ(すべての行いの放棄)」が達成されます。
自由を目指すための生き方の2種類が、サンニャーサ(行いを手放すこと。放擲)とカルマヨーガ(行いのヨーガ)です。

行いをできるだけ手放す生き方をサンニャーサ(出家・放棄)といいます。
知識の探求のために、社会の義務と権利を手放し、行いを最小限にしていく出家の生き方です。

またこの章では、カルマヨーガ(行いのヨーガ)を行いの結果への執着を放棄すること、別名ティヤーガ(結果を捨てること、捨離)を説明しています。行いの際に、何か喜びや安全を得ようという結果への期待を手放すこと。行いを利己的な理由でしないこと。そしてダルマ(調和・秩序)においてすべきことを行い、結果のすべてをイーシュヴァラ(全体世界)からの贈り物として受け止める態度です。

この2つの生き方によって、人は落ち着いた心の準備ができるとクリシュナはいいました。
そうして準備のできた心に タット・トヴァン・アシ (あなたは全体です)というヴェーダ(聖典)全体の主題が理解されます。理解されたときに、人はモークシャ(自由)に至ります。

人の目指すモークシャ (自由) は、肉体を持っていても、どこにいて何をしていても、どんな人であろうと、今ここで可能です。正しい行いと理解によって、人は必ず自由である自分自身の本質を取り戻し、自由に至ることができるのです。これがバガヴァッド・ギーターの主題であり、ヴェーダ(聖典)のエッセンスであり、バガヴァーン(全知全能者)、イーシュヴァラ(全体世界)、クリシュナが人のために説いた教えの全てです。

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