下村胡人の「次郎物語」から引用しました。
主人公の次郎(14才)と兄の恭一に叔父の徹太郎が、岩を突き破って大きくなっている松の木を指しながら、命というもの、人生というものについて話を進めている場面である。
「この松の木だって、もとは草みたいなものだったんですね」
と言う恭一(中学生)に徹太郎は、
「そうだ、最初岩の割れ目に松が根をおろした時には、指先でもみつぶせるほどの柔らかいものだったのだ。それが、どうだ、このとおり固い岩を真っ二つに割って、それをじりじりと両方に押しのけている。
目には見えないが、今でも少しずつ押しのけているのにちがいないんだ。この松ノ木を見たら命というものがどんなものだか、よく分かるだろう」。
次郎の目は光ってきた。
「だが!」と、
徹太郎はチラリと次郎を見て、
「命も命ぶりで、卑怯な命は役に立たない。卑怯な命というのは、自分の運命を喜ぶことのできない命なんだ。・・・・・・わかるかね」。
「運命って、わからないな」
と次郎。
「なるほど、境遇と言っても良い。何百年かの昔、一粒の種が風に吹かれて、あの岩の小さな裂け目に落ち込んだ。それは種にとって運命だったのだ。つまり、そういう境遇に巡りあわせたんだね。こんな運命に巡り合わせたのは、その種のせいではない。種自身では、それをどうすることもできなかったんだ。わかるだろう・・・・・」。
続いて、
「そこで運命を喜ぶということなんだが、どうすることもできないことを泣いたり、うらんだりしたって、何の役に立つものではない。
それよりか、喜んでその運命の中に身をまかせることだ。身をまかせるというのは、どうなってもいいと言うんじゃない。
その運命の中で気持ちよく努力をすることなんで。それが本当の命だ。
あの松の木の種はそういう本当の命があった。だから、姉妹には、運命の岩をぶち破り、それを突き抜けて根を地の底に張ることができたんだ。
松の木は今でも岩にはさまれたままだが、もうそんなことは何でもないことになってしまったんだ。・・・・・」。
しばらくして徹太郎はまた話しだした。
「君らはこれまで運命を戦うように教えられてきたかもしれん。それもうそではない。
だが、戦うことばかり考えていると、つい無茶をやるようになる。無茶では運命に勝てない。・・・・
岩を割る力は幹の堅さではなくて、命なんだ。じりじりと自分を伸ばす工夫をするにかぎる。
勝つとか負けるとかということを忘れて、ただ自分を伸ばす工夫をしてさえいけば、自ずと勝つことになるのだ」。
徹太郎は少し考えて、
「自分を伸ばすためには、まず運命に身を任せることが大切だ。
岩の割れ目で芽を出したら、その割れ目を自分の住家にして、そこで楽しんで生きる工夫をするんだね。
岩を敵に回して戦うのじゃない。むしろありがたい味方だと思って親しんでいく。それでこそ本当に自分を伸ばすことができるんだ。
運命を喜ぶものだけが正しく伸びる。そして正しく伸びるものだけが運命に勝つ。そう信じていれば、まず間違いないね」。
・・・・・・以上。
「次郎物語」は学生時代読んで、大変感動しましたが、今改めて読み返し、感無量です。
運命をひたすら受け入れる。今、ここに命を立てる。 どんなことがあっても、ジタバタしない。そこに自分の命を立てる。立命です。そのまま受け止めるところから、感謝です。「ありがとう」です。
病弱、貧困、不遇・・・・等どのような境遇にあろうとも、「今、ここ」にしか自分はないのですから・・・・。
とくに、この数年間、何回も何回も思いがけぬガンとの闘病を強いられた小生には、ジーンときた文章でした。
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