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2017年06月25日10:09

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正しいか正しくないかの基準



小林正観「人生を楽しむための30法則」から引用します。


朝9時に始まる会社があります。ある従業員が30分遅れて9時半になってやって来たとする。皆さんが社長だったら怒るでしょうか

実はその社員は、前夜に自分の親が突然倒れて、救急車で病院に運ばれた。それに付き添って入院させ、朝に帰って、夫や子どもに食事やお弁当を作った。
そして自分は全然寝ていない状態で、息を切らせながらやっと会社に出られたのが9時半だったのかもしれません。

そうしてみると、遅れてきたことがいけないこととは決められないのではないでしょうか。いけないとか間違っているということを誰が決めるのでしょうか。

宇宙にはそういう基準はありません。「私」が決めているだけです。「私」が人に迷惑をかけてはいけないと思うのだったら、「私」の基準でそれをやっていってもいいけれど、その同じ基準を人に押し付けないほうがよいと思います。

これが正しいことではないですか、と、その正義感を振り回して、周りを傷つけてしまうことがあります。でも、「私」がどう生きるかは別。「私」はどんなことがあっても、9時始まりに遅れないようにしようと思うのは構わない。でも、9時半に来た人をいきなり怒ったりするということは、宇宙的に支持されることではないかもしれません。

もし、事情を聞いてから、怒るか怒らないかを決めるのだったら、ではその人が事情を話さなかったらどうするのでしょう。私たちには相手の事情や悲しみなど、いろいろなことがわかっていません。ですから、正しいか正しくないかを基準に怒るのはやめよう、と思うのです。

私たちは神ではないので、自分の思ったことが正しいか、正しくないか、とは決められない。では、何を基準にして生きればよいのでしょうか。

自分が正しい、正しくないと思うこと自体は、変えなくてもよいから、それは自分だけの生き方に当てはめる。そして、他の人にその物差しを当てはめないことでしょう。

自分が正しいと思うのだったら、どんなことをしても「私」は人を傷つけないぞ、どんな状況であっても「私」は人を殺さないぞ、と決めるのはよい。

でも、その価値観や物差しを、人に対して一般論や常識として「こうあるべきだ」と、まるで自分のことが、自分の考え方を正しい物差しのように言って、相手を裁いたり計ったりするのは、やめたほうがいいように思います。

「私」がどう生きるかだけ。「私」が正しいと思う、その信念はあくまでも自分を律するという意味で、“実践”していってはどうでしょう。



キリストは、「許す者は許される。許さない者は許されない。裁く者は裁かれる。裁かない者は裁かれない」と言いました。

何が正しく何が正しくないのか、ということをキリストは言っていない。ですから、自分が正しいと思う感覚で人を裁かない方がいい、ということになるのです。

(以上)








皆さんからの“イイネ!”・・・9名(敬称略)


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