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2017年06月18日11:40

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アニータ・ムアジャーニアの講演録3

アニータ・ムアジャーニアの講演録1
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1960988607&owner_id=5089039

アニータ・ムアジャーニアの講演録2
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1961005480&owner_id=5089039


あの領域で最初に遭遇した存在は・・・私はそこで愛情深い存在に囲まれているのを感じていたのですが・・・とても愛情溢れている存在で、そのいくつかは見覚えがあり、いくつかは見分けの付かない存在でした。こういった存在たちはただエネルギーでした。エネルギー的な存在と私の間には分離はありませんでした。そして対話は瞬時に行われました。声を使ってのものではありません。ここ物質界で声を使ってコミュニケーションを取るとき、文を繋げて言葉を使って、1度に一言ずつ話しをします。そしてその文が完了するまでその人の言おうとしていることは理解できません。

昨日お話ししたことですが、人と繋がり対話をするために言語を習得したとしても、私たちの多くが、言葉によって他人との距離を広げてしまっているのです。自分の感じていることを隠すために、そして本当の自分を隠蔽するために言葉を使っています。そして人を避けるために言葉を使います。言語がなく、純粋なエネルギーだけで対話は、ただ繋がるだけでいいのです。エネルギーとエネルギー、エッセンスとエッセンスで繋がるのです。

そこには誤解は一切ありません。そして対話は瞬間的に為されます。対話する唯一の方法は愛なのです。

そこで最初に遭遇した存在は、実の父親でした。私の父は、私が臨死体験をする10年前に他界しました。両親はヒンドゥー教徒で、私もヒンドゥー教徒として育ちました。そして育ちは香港。香港は文化的には殆ど中国であり、中国人の居住地ですよね。当時私が育った頃は、英国領だったのです。なので、両親は英語を習得させたくて、私は英国人学校に通学していました。ですから学校の子供達の殆どは英国人だったわけです。ですから私は広東語と英語と両親のインドの方言を同時に話していました。2歳の頃から3カ国語を同時に話していたのです。

しかし私の両親は子供達がヒンドゥー文化に溶け込んでいくことを願っていました。ですから成長の過程で、両親はヒンドゥー的なことを教え込もうとしましたが、私はもっと英国人学校の同級生たちに溶け込みたかったのです。常にあの学校には自分の居場所はないと感じていたし、実際、子供の頃はひどく虐められたものでした。それは自分がそこに合っていないと感じていたからなのです。人種も文化も違うし、他のどの子とも違っていました。両親がインドに連れていってくれたときも、私は西洋的過ぎて、インド人にもなりきれませんでした。

でも、英国人の子供達と学校にいたときは、皮膚も白くないし、十分に英国人ではないということでイジメにあっていたわけです。そして中国の文化にもフィットできなかったので、本物の不適応者だったのです。生涯を通じて、自分が居るべき場所にいるという気持ちになったことはありません。いつもそう感じていました。

そして年齢が進んだときに、両親が私にお見合い結婚をしてほしいと持ちかけてきました。お見合い結婚に関しては私は反発していました。そして、お見合い結婚が決まると、その結婚式の3日前に私は逃げ出してしまったのです。これは私のコミュニティー・家族・婚約者の家族にとっての、大きな恥となってしまいました。そしてコミュニティー内では、私はわがまま者のレッテルを貼られてしまいました。

レッテルはそれ以外にもたくさんありました。両親はコミュニティー内の人々から、もはやインド人男性は誰も私とは結婚しないだろうと言われました。もちろん彼らは私のすばらしい夫のダニーのことを知らなかったのですけどね。彼もインド人よ(笑)まあ彼も社会的な不適応者ですから(笑)社会的不適応者万歳!(拍手)

インド人男性は誰も私とは結婚しないだろうと言われたときは、私もインド人男性と結婚することを拒否するわと言っていました。インド人以外の男性を見つけるわ!と。ですから、両親には、インド人以外の男性と結婚するわと話したのです。でも実は、内側の奥深くで、どこかで自分はどこかおかしいのでないかという思いがありました。他の人の期待に決して添うことが出来ない自分はどこかおかしいのではないかと。いつも努力してきたのにまったく溶け込むことが出来ませんでした。英国文化ともインド文化とも適応しようとしたのに、出来なかった・・・。


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