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2020年04月01日11:47

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原発雑考第381号  運頼みの新型コロナウイルス感染症対策  フクシマから9年(2)など

原発雑考第381号の転載です。



2020・ 4・5
発行 田中良明
転載自由
連絡先 豊橋市富士見台二丁目12-8 E-Mail tnk24@tees.jp



運頼みの新型コロナウイルス感染症対策

 今回の新型コロナウイルスは、無症状者からも感染することがあり、従来の感染症対策では想定されていなかった新しいタイプのウイルスである。無症状者からも感染するとなると、有症者のみから感染する場合に較べて、感染拡大防止は格段に難しくなる。その意味で想定外の深刻な事態をもたらすウイルスであり、現にその事態が世界的に発生している。
 新型コロナウイルス感染症にたいして日本で採られている対策は、感染が強く疑われる人にPCR検査をして感染を発見するとともに、感染者と濃厚接触した人を割り出してPCR検査をして潜在的な感染者を発見し、感染者は症状の有無にかかわらず原則全員を入院させるというものである。これは従来想定されていたタイプのウイルスにたいする対策と基本的に変わらない。
 ところが感染者が多い東京などではすでにベッド不足で新規感染者の受け入れが困難になっている。この状況に押されて、軽症や無症状の感染者は自宅療養にする方針に転換されつつあるが、自宅療養にも問題がある。重症化を防ぐ適切な治療ができないし、家族への感染も防げない。さらに家族から第三者への感染もありうるからである。対策は破綻に瀕している。
 そもそも必要だったのは、この対策で時間稼ぎをしている間に、PCR調査能力の拡充、重症者治療態勢の拡充、軽症者収容施設の開設準備などの、新タイプのウイルスに対応した本格的な対策を整備することだった。これらは爆発的大流行への備えにもなるはずである。しかしこの2ヶ月間、対策を担う中枢である政府はそのような努力をせず、時間稼ぎをしている間に流行が終息することに期待するだけだった。政府には、想定外の事態に正面から立ち向かう意思と能力のいずれか、あるいは両方が欠けていた。
 福島原発事故では、事故対応は迷走を重ねたが、幸運が働いて、本州の半分が居住不能になるような破滅的大惨事には至らなかった。今回も、ここに至っては流行が自然終息する幸運を待つほかなさそうである。


フクシマから9年(2)

 原発をめぐる世論は、再稼働にも新設にも批判的であり続けている。各種世論調査では、再稼働反対が過半数で、かつ賛成の2倍程度という比率が常態化している。この割合は、原発政策における即時脱原発支持と段階的脱原発支持を合わせた割合とほぼ同じである。おおざっぱにいえば、原発政策で段階的脱原発を支持する人も、個々の原発の再稼働については反対に回っているということである。再稼働についてこうであるから、原発新設の是非が具体的に問われることになれば、段階的脱原発を支持する人が新設反対に回ることはほぼまちがいないだろう。政党レベルでは段階的脱原発は事実上の原発容認を意味するが、社会的には段階的脱原発は脱原発を意味しているということである。
 こうなっている最大の理由が福島原発事故の記憶であることはいうまでもない。フクシマの記憶の風化が喧伝されているが、どんな記憶であれ、直接強烈な体験をした人以外は、9年も経てば日常意識の表層からは消えていくのが自然なことで、重要なのは、意識の深層にそれが固着しているかどうかということである。風化というのは、記憶が表層から消えるだけでなく深層に固着してもいない状態を指すのであり、表層から消えたことをもって風化というのはおかしい。
 推進派は、時間が経てばフクシマの記憶は風化すると考え、時間稼ぎをしてきた。しかし風化はしなかったのである。いま軽率にフクシマの記憶の風化を言い立てるのは、事実に反しているだけでなく、フクシマを忘れさせようとする策謀への加担にもなっているのである。
 経済界においても〈原発から再エネへ〉という動きが加速している。それが世界の趨勢であり、それに追随しなければ世界から取り残されてしまうことが分かってきたからである。
 このように日本社会においては脱原発指向が明白かつ安定的に多数派である。しかし脱原発派が勝ちきれていない、脱原発を決めきれていないことも事実である。その結果として、原発推進と脱原発の間で一種の均衡状態が生じている。これが日本の現状である。
 原発はいずれ消滅する。しかしそれを待つだけの待機主義は不可である。その間に過酷事故が発生する可能性があるし、処理困難な高レベル放射性廃棄物が増えつづけることになるし、原発の存在が再エネ普及を阻害し続けることにもなるからである。可及的速やかな脱原発が求められる。
 いまでは原発を終わらせることに決定的な障害は存在しない。原発がなくても電力の安定供給は可能であり、脱温暖化には原発はないほうがよいからである。脱原発は政治的決定さえあれば完全に可能だということである。そして脱原発を実現する法案がすでに野党から国会に提出されているが、自民党の抵抗で審議すらされない状態が続いている。野党のほうも、各党の政略のなかでこの法案の優先度はかならずしも高いとはいえない。
 脱原発運動の内部では、個人やグループがさまざまな課題に取り組んでいるが、ややもすると個々の課題の深掘りに傾斜しがちのように見える。課題の深掘りは重要であるが、それによって広い視野での連携のための努力がおろそかになってしまい、積極的に脱原発を達成しようとする意思も希薄になってしまっては宜しくない。そういう傾向が見られるということである。
 この認識に立つと、脱原発運動に係わる個人やグループがそれぞれの課題を追求しつつも、同時に広く繋がって脱原発達成に照準を合わせた議論を活性化させることが、現在の均衡状態を打破するために必要のように思える。そこで議論されるべき問題は多々あるが、私としては、「脱原発を社会の圧倒的多数意見とするために必要なことはなにか」と、「 脱原発と脱温暖化はいかなる関係にあるのか」の2つの論点を提案したい。
 前者については、「原発は危険だが、電力供給、各電源の発電コストの比較、温暖化対応などを考えると、必要悪として原発に一定程度頼らざるをえない」と思っているグループを脱原発側に取り込むことが最重要だと私は考える。このグループの属する人は、原発の危険性は認識しているのだから、それをいくら訴えても取り込むことはできない。必要なのは、電力供給、各電源のコスト比較、温暖化対応などについてのこの人たちの認識がまちがいであることを具体的に説明して説得することである。それは難しいことではない。
 後者については、日本の脱原発運動では脱温暖化についての関心が低すぎ、西欧で「脱温暖化の一部としての脱原発」という認識が一般化しているのとは大ちがいである。日本には、福島原発事故があり、それにもかかわらずいまだに原子力利益共同体が権力中枢に蟠踞しているという特殊事情があり、脱原発は独自に取り組まれるべき課題であることはいうまでもない。しかし、だからといって人類史的課題である脱温暖化に無関心であってよいわけがないし、脱温暖化と脱原発は相互促進的なのだから、脱温暖化との係わりを避けるのは脱原発にとって百害あって一利もない愚挙である。
 過度の専門店化は、日本の社会運動の伝統、あるいは体質である。その克服という重たい課題が、いま脱原発運動に突きつけられているのである。


雑 記 帳

 この冬は記録的な暖冬だった。庭の花木では、春一番に咲くはずのマンサクが彼岸になってやっと満開になった。サクラは冬の冷え込みが弱いと開花が遅れるというが、マンサクもそうなのだろうか。そのサクラ(団地内の公園のソメイヨシノ)は月末になってやっと五分咲きだった。
 ツバメの初見は3月19日。団地内と万場緑地周辺で数羽見かけた。これまでは初見日には1羽しか見かけなかったが、今年は群れでやってきたようだ。その後もよく見かけ、庭先を飛んで、玄関の壁にある巣の様子を検分したりもしている。はたしてわが家の巣を使ってくれるだろうか。今年は、家の前の公園に天敵のカラスがあまり姿を見せない。これは好材料である。
 新型コロナウイルス禍については、愛知県では名古屋など県西部で150人を越す感染者が報告されているが、県東部の豊橋とその周辺では感染者は報告されていない。ただしマスクは品切れのまま、手作りマスクの材料にするのか、ガーゼも品切れである。個人的には3月は一度も遠出せず(用事がなかった)、風が吹き抜ける万場緑地でネコの相手をして過ごしたので、このウイルスには遭遇しなかったはずである。
  
万場緑地のネコ 第8話 昨年秋、半歳くらいのメスネコ(そら)が、オスの成ネコ2匹(いずれも去勢済み)の餌場の近くに捨てられた。今年になってオス2匹は少し離れた場所に餌場を変えた。オスの成ネコとメスの仔ネコの間では、こういうことがときどきある。昨年暮れに姿を消したヤセも、その少し前に自分の餌場をメスの仔猫(コサビ)に譲っている。

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