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2020年01月24日15:16

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コラム     歩く見る聞く 55 (2020年1月22日) 満蒙開拓青少年義勇軍  田中洋一

 日刊ベリタ記事の転載です。
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=202001241417385






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2020年01月24日14時17分掲載  無料記事  印刷用

コラム

歩く見る聞く 55 (2020年1月22日) 満蒙開拓青少年義勇軍  田中洋一


  小雪が時折舞う先週末、群馬県・赤城山南麓の大胡(おおご)公民館の一室は人で埋め尽くされた。シニア世代に加えて30代らしいカップルもいる。防寒具に身を固め、話に聞き入った。
  参加者54人の耳と目を引き付けたのは、75年前の敗戦まで日本が中国東北部で支配した満州国に入植した当事者の体験談だ。語り手は、10代半ばで満蒙開拓青少年義勇軍の一員として地元から満州に渡った星野輝義さん(92)。人前で話すのには慣れていない様子だが、聞き手の東宮春生さん(66)が引き出す。
  星野さんは国民学校高等科2年(現在の中学2年)の秋、学級担任から義勇軍の話を持ちかけられた。星野さんは級長で、「級長だけはぜひ満州に行って欲しい」と頼まれたそうだ。
  「先生に言われるまで義勇軍についてあまり考えていなかったの?」という東宮さんの問いに、そうだと答えた。帰宅して両親に伝えると、特に反対されなかったとのことだ。
  質疑の時間に私は尋ねた。「長男だったのですか?」。ここは押さえなければ、と考えた。星野さんは3人きょうだいの一番上で、弟と妹がいる。まだ14歳の長男の異国行きを認めた両親の気持ちに迷いはなかったのだろうか。
  今から10年ほど前、私は信州伊那谷で満蒙開拓団や青少年義勇軍の取材に力を入れていた。家族で渡満することの多い開拓団は別だが、子どもを送り出す義勇軍の場合、「親は反対した」と答える体験者が多かったように思う。とりわけ跡継ぎ息子の渡満は、簡単には認められず、それでも勝手に印鑑を持ち出して申請書に押し、親はやむなく事後承諾したと振り返る人もいた。
        ×        ×
  星野さんが語った場は群馬満蒙開拓歴史研究会だ。2014年11月に前身の会が発足してから毎月1回、一度も欠かさずに定例会を開き、今回は63回になる。配付資料もしっかりと作っている。
  青少年義勇軍の体験者がマイクに向かうのは同会で初めて。星野さんは帰国者で最も若い世代だが、それでも92歳。戦争体験の語り部が少なくなった平和資料館が各地に多いのも無理はない。
  国策だった満蒙開拓団と青少年義勇軍に、全国すべての都道府県から人が送り出された。全国の開拓団をまとめた『満洲開拓史』によれば、多い順に長野、山形、熊本で合計約30万人。群馬からは8775人で13位だ。全国的に多い方ではない群馬で研究会が熱心に開かれているのは代表の東宮(とうみや)さんの尽力が大きい。
  東宮さんは定年を前に信用金庫を退職し、郷土史をライフワークと定める。自費出版した著作を読んだジャーナリスト牧久さんの取材を受けたのを機に、深入りを避けていた「満州」に飛び込む。
  群馬で東宮といえば、思い浮かぶ人物がいる。満蒙開拓の父と呼ばれる東宮鐵男(かねお、1892-1937)だ。東宮代表の大叔父に当たる。
  東宮鐵男は満蒙開拓の先駆けとなる第1次弥栄村(入植式1933年2月)と第2次千振村(入植式7月)の入植地選定に携わる。主に在郷軍人の中から選ばれた移民団は「匪賊」の襲撃で犠牲者が出た。東宮自身も胸を貫く銃創を負う。34年には、後の青少年義勇軍につながる饒河(じょうが)少年隊(1期生は13人)の指導にも加わる。(牧久著『満蒙開拓、夢はるかなり』などによる)
  一方で、東宮と切り離せないのが、中国東北地方の軍閥の張作霖を爆殺したいわゆる満州某重大事件だ。1928年6月4日早朝、張作霖の乗る特別列車が爆破され、張は間もなく死亡する。
  「河本(大作大佐)により作られた爆破計画にしたがって、増派中の朝鮮軍旅団所属工兵隊が爆薬をしかけ、独立守備隊中隊長の東宮鉄男大尉が実際の指揮を行なった」(日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部編著『太平洋戦争への道1』)
  東宮さんは、満蒙開拓や義勇軍を導いた大叔父の事績に関心を抱きつつ、謀略のイメージに引きずられてか、現役時代は「満州」への深入りを避けてきた。「身内のことを伝えても、客観的には観てもらえない」
  だが、牧久さんとの出会いを機に一転する。満州の旅に毎年出かけ、群馬満蒙開拓歴史研究会の前身の活動を始めた。今年は満州国の首都が置かれた新京(現・長春)に向かう予定だ。
  北海道標茶町を調査で訪れた2017年、弥栄村開拓団が大連の避難収容所で過ごした人員名簿を入手した。ほぼ出身県別に1〜10班に分けられた計1111人の本籍・戸主・氏名をはじめ出生児や死者も書き込んである。引き揚げまでの避難行の窮状も伝えている。
  翌18年には小冊子が届いた。群馬県出身の弥栄村開拓団員に「大陸の花嫁」として嫁いだ故人の手記だ。弥栄村での生活やソ連参戦による混乱、引揚げ、戦後の再開拓が綴られた貴重な手記だ。
  それまで知らなかった新事実が含まれる一方、聞いたことのある事柄の裏付けにも役立った。「当時生活していた人々の雰囲気を知る手がかりともなる手記」と東宮さんは研究会で報告した。
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  具体的な史料を前に満州、満蒙開拓とは何だったのか。そのベールをはぐ魅力に東宮さんは引き込まれている。研究会は初めのころ自身を含めて満蒙の市民研究家やジャーナリスト、知り合った満蒙開拓団員の家族の方々が講師を務めた。それが前回、今回、次回と青少年義勇軍の体験者から話を聞く特別企画を進めている。
  今回の参加者は予想以上に多かった。「新聞に予告記事が載った影響もあろうが、義勇軍への関心が強いからではないか」と東宮さんはみる。研究会の役割について「今やれることは、存命の体験当事者から話を聞くこと。いずれ出来なくなってしまうから」。
  研究会の会員には満州に何らかの関わりを持つ人が多い。高崎市出身で長男の会計事務所で働く高橋美好さん(69)もその一人。祖父の高橋陸郎(故人)は1936年に渡満して中華料理店を経営しつつ、官民一体の「満州国協和会」の協議員に選ばれ、軍用地の管理にも携わる。敗戦後は哈爾浜で難民生活に耐えた。
  祖父が晩年に語った回想記を、高橋さんは2017年に自費出版する。祖父の写真を手に満州旅行もした。カルチャースクールの満州講座に今も通っている。「個人の理想や行動が通らなかった国家、満州。どうしてそうなったのか。もっと勉強して知りたい」

  田中 洋一

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