この物語を聞いていると聖書のヨブ記を思い出す。
どんなに善い生き方に励んでも、それには関係なく災難は巡ってくる。
火付けの現行犯だから火あぶりの極刑は下さねばならない。
さてそこで奉行越前は、猫ババされた百両のことを調べる。
帯屋Bの仕業と分かっても証拠が無い。 そこで少し力業を使う。
「返しには行ったんだが、取り込み中だったので間違いがあるといけないから、
後でもう一度返しに行こうと思い、忘れたのではないか!?」と、納得させる。
では百両を返しましょう、となったが、「利息はどうする?」ということになった。
当時の利息から勘定すると10年で150両、併せて250両となった。
即座に返すことになったが、手元には百両しかない。
そこで越前は、「奉行所から百両貸すから準備でき次第返却しなさい。」
「残りの50両は年分割にて返して宜しい。 年いくら返せるか?
10両か?・・・、ン?5両か?、・・・、ン?・・・1両か?
「1両なら返せるのか!? 宜しい。 さて、裁きを申し渡す。」
「帯屋Aは火付けという大罪を犯したにより、火あぶりに処す。
ただし、処刑は返金が済んで後の50年後とする。」
それまでは親戚預けとし裁きを待ちなさい。 という大岡裁きの一席。
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