さて、「シン・ゴジラ」のSFの味が濃いだろうと考えた理由として
ストーリーが演繹的
人間ドラマ/個人の視点の重要性なし
の2点を挙げたわけだが、実はこれがSFの必要条件というわけではないし、十分条件でもない。他の要素と作用した場合にSFの味が出てくる、という具合である。ここらへんが、SFの味、SFらしさを語ろうとするときの、難しさめんどくささなのだな。
とにかく、SFらしい作品構造のひとつとして、
現実世界に現実にはない要素を一つだけポンと放り込み、それによって現実世界がどうなるか
をなるべくリアルに展開していく、というものがある。「シン・ゴジラ」の宣伝文句に「現実対虚構」というのがあり、ズバリこのスタイルを表していると思う。
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ハリウッド作品には、一応SFに分類するしかないのに、SFの味が希薄なものが多数ある。ローランド・エメリッヒに代表されるような作品群である。
わたいが見た、SFっぽいがSFとしてはトホホなエメリッヒ作品は
インデペンデンス・デイ
デイ・アフター・トゥモロー
2012
である。また、エメリッヒ以外では、「アルマゲドン」がトホホを通り越してムチャクチャなひどさである。
これらに共通するのは、主に次の2点である。
1.物語を作る際に「こういう絵を撮りたい」「こういう展開にしたい」ということを優先している(演繹的ではなく帰納的)
2.試聴者が感情移入しやすい登場人物(主人公)を置き、その個人の運命を物語の重要要素とする
本職のSF作家であれば、こうした出発点からでもちゃんとした「SF」を作ることはできるのだが、映画界にはそういう人材はないらしい。
そのため、1によって説得力がなくなり、往々にして科学的に破綻しているストーリーや場面描写になる。例えば「インデペンデンス・デイ」で、異星人のコンピューターにウイルスを送り込む、などである。OSどころかアーキテクチャもマシン語も全く違うのに、どうやってウイルス作るんだよ...
2は、エンターテイメントとしてはアリなんだが、SF的視点では、SF的アイデアに直接絡まない特定の個人の運命などどうでもいいわけで、それをメインにされると当然SFの味はなくなる。
「デイ・アフター・トゥモロー」も「2012」もねえ、序盤は結構SFの味があって面白いんだよ。「何が起きているのか」という「知的興奮」がある。が、中盤から「どうでもいい」個人の運命が中心になって、自称筋金入りのSF読者としては、トホホ感全開なのであった。
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これが「シン・ゴジラ」では、ネット上の情報からの判断、及び冒頭から30分を見た限り、ゴジラというファンタジー(虚構)が現実世界に現れたらどうなるか、をなるべくリアルに、即ち演繹的に描いているし、特定の個人に焦点を合わせることをせず、全体像の推移で試聴者をひきつけることに成功していると思う。これが、わたいの考える「SFの味」を出しているのであーる。
もちろん、映画であるからには、「ゴジラと対峙する戦闘ヘリコプター」のような、「絵」の魅力も重要であるし、わたいもそれを楽しむけどね。
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SFとしてペケな映画には、「未知との遭遇」や「アビス」のパターンもある。まあ、これは例が少なそうだし、ここでは取り上げずにおく。
なーんか中途半端な気もするが、とりあえず今回はここまで。
(おわり)
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