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2018年08月17日12:46

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出雲と米子への旅;古代出雲王国とヤマト王権(後編)

(↓前編より承前)
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弥生時代の後半3世紀に入るころ、西日本には大きなクニないしクニの連合体が複数存在したとみられる:

・九州北部、筑紫のあたりなど
・イズモ(出雲=山陰)
・キビ(吉備=山陽)
・ヤマト王権(奈良盆地)
・濃尾平野や北陸などにもあった

イズモが先んじて鉄器を使っていたことに、ヤマトは警戒したのかもしれない。
鉄は当時の最先端テクノロジーであり最強の軍事兵器に転用できた。隣国で核兵器をもてあそぶ国があれば、先にぶっつぶしてしまえ!と暴発しかねないどこぞの現代国家と、考えることはまるで変わらないのかも。

イズモが楽浪郡と交流すれば、ヤマト王権は百済と手を結ぶ。
いかにしてヤマト王権がイズモを滅ぼしたかには諸説ある。
イズモが、キビと同盟したとも、
ヤマト王権が、キビと同盟したとも。

いずれにせよヤマトはイズモを滅ぼした。
これが、オオクニヌシによる国譲り神話の原型、その実態とも言われる。

表向きは、イズモの神オオクニヌシをまつる「おおやしろ」つまり出雲大社をつくることと引き換えに、穏便かつ平和裏にイズモがヤマトへ国を譲ったとある。
しかし日本書紀では、皇祖神アマテラスが軍神をイズモへ使者として派遣し、その軍神はオオクニヌシの眼前で剣を地面に上下逆さに刺して立てるという、武力を背景に国を譲るよう迫る場面がある。古事記では皇祖神アマテラスの使いが、まるでターミネーター2の T-1000 のように、腕をつららに次に剣へと変貌させ、対決を挑んだオオクニヌシの息子を天高くまで投げ飛ばしてしまうという軍事力で威嚇する描写がある。

前述の妻木晩田(むきばんだ)遺跡では、3世紀に入ったあとから急速にムラが失速、衰退し、そのあといきなりそれまで存在しなかったヤマト王権タイプの前方後円墳が出現する。おそらくイズモがヤマト王権に武力征服されたころと符号するのでは、とされている。
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そしてこのときにイズモを征服した代わりとして、ヤマト王権がイズモの神を祀るおおやしろを築き上げることで敗戦国イズモの祟りを恐れて鎮めんとしたのが、出雲大社の真の始まりである。
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さて、この出雲大社。
拝殿の大しめなわは、先月7月に6年ぶりに取りかえられたばかり、重さ 4.5 トンもある。
さらに神話では出雲大社は高さが数十メートルもあると記述され、いくらなんでもそれは大げさな古代人の妄想であろうと考古学会で一笑に付されていた。が、2000 年に行われた発掘調査により、出雲大社の境内から直径3メートルにもおよぶ前代未聞の巨大な柱が発見された。これは直径 1.3m の巨木を3本たばねることで3本あわせて直径3メートルの柱とするもので、これをもとに再計算した結果、古代の出雲大社は高さ 48m にもなる超高層木造建築であることが考古学的にも実証されてしまった。
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この高さは、奈良東大寺の大仏殿よりも平安京の大極殿よりも高い。事実、平安時代の教養として「雲太、和二、京三」という言葉が記録されており、当時の大建築おいて出雲大社が一位、大和の東大寺が二位、平安京の大極殿が三位という意味であった。
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出雲大社の宝物殿と大社のとなりにある古代出雲歴史博物館へ行くと、その直径3メートルもある柱の現物が拝める。
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同博物館には、十分の一の縮尺にて古代出雲大社を再現した高さほぼ5メートルにもなる巨大模型もあり圧巻。
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屋根の上にあるX字型にクロスした木の装飾は千木(ちぎ)と呼ばれ、実際はこんなにも大きい。
なおこの左上から右下へ斜めに走っているほうは解体修理の時に取り外されたモノホンであり、逆の方向から交差しているほうは合わせこんでつくられたレプリカ。
水平の木材は鰹木(かつおぎ)と呼ばれ、これもモノホン。
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出雲大社の本殿の前には、かつて存在した巨大柱の場所と大きさをしめす赤紫色のマークがいくつも石畳の上にほどこされており往時の巨大さを実感できる。石畳の上にミッキーマウスみたいに見えるのが、それ。
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驚かされるのがもうひとつ、同博物館に展示されている大きな弥生式土器、古代出雲の地から出土したものである。その側面には、なんと高床式の高層建築たるおおやしろとそこへつながる階段とが、実際に線画で描かれている。
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古代人は実際に出雲大社をまのあたりにし、その驚嘆すべき高さ大きさを描きとめずにはおれなかったのであろう。

たたりを恐れあがめることによって、逆に呪い封じ込める。

これがヤマト王権がイズモを屈服させ支配するに使った手段。そしてヤマトへ統治権をゆずるかわりに、信仰のやしろと神話とを手にしたイズモ。こうしてイズモは政治権力を失ったかわりに精神的な支柱を得て存続することになった。

ある意味このときにヤマト王権がとった政策は、単なる皇祖神アマテラスとイズモ神オオクニヌシとの対決を超え、祭政一致社会であった彼らの世界における彼らなりの政教分離のようなものと言えなくもないのかもしれない。
さらにこの構図は、少しだけではあるが第二次大戦後GHQが天皇制をあくまで象徴として残したことにも、ちょっとは似ているかもしれない。敗北した敵をさらに完膚無きまでにたたきのめすのではなく、国家体制を根本からつくりなおしつつも精神的なよりどころは残す。
かくしていにしえのイズモを屈服せしめた皇祖神アマテラスその末裔とされる帝国の皇族は、今度は民主国家にて人間天皇として象徴天皇として精神的支柱として存続できることとなった。
この本質を理解し得なかった G. W. ブッシュ米大統領とラムズフェルト国防長官のような、ゼロ年代のネオコン政治家たちが、世界を単純化しすぎた解釈のもとに稚拙きわまりないイラク戦争を起こし、結果中東にカオスを引き起こしてしまい果ては自己肯定感を喪った暴徒 ISIL のような、それこそカリフ国家を自称する鬼子たるテロリスト集団を生み出してしまったことにも、つながるかもしれない。


とはいえ弥生時代の倭もまた、やはり大原則として祭政一致の政治社会であったことに変わりはなく、ヤマト王権はオオクニヌシをまつる出雲大社を創建する一方、それとバランスをとるかのように大和盆地から正反対の方向と場所に皇祖神アマテラスをまつる神道の中心地、伊勢神宮を建てている。
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先述の米子市にある、かつて海に浮かぶ小島だった丘、粟島。
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この上にあって一寸法師のようにちいさな神スクナビコナをまつる粟島神社。ここでは山頂にある本殿の裏側に、かなたにある出雲大社への遥拝所がある。
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しかも本殿をはさんでそのまったく正反対方向に、伊勢神宮への遥拝所までもが設置してある。
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祭神スクナビコナがともに協力してイズモをつくって国家経営した神オオクニヌシ。その国父オオクニヌシを拝むべく出雲大社の方角へ向いた遥拝所と、戦火をまじえてでもイズモを屈服させたヤマトその皇祖神アマテラスを拝む遥拝所。こんな小さな神社にまでこの二つが併存するあたり、なんともアイロニカル。


ちなみにこの後のヤマト王権は、仲良かった山陽の同盟国キビのクニも滅ぼしている。
記紀にて初めは良い国、あとで悪しき国として描かれたキビ。すなわちヤマトとキビとが協力して倭の統一をすすめていたものの、キビが大きくなりすぎ、それを恐れたヤマトがキビを追い落としたのである。
これが桃太郎伝説の始まりとも言われる。
桃太郎が鬼が島へ鬼退治するは、キビを征服するヤマトだとも。
事実、吉備王国は滅亡させられたばかりか、備前、備中、備後、美作の四ヶ国に分割され引き裂かれ、二度と連合して大勢力とならぬよう地政学的かつ構造的にも弱体化させられてしまった。これがのちのちの幕藩体制をへて、今の岡山・広島県にいたる分割された行政と郷土意識にまで刷り込まれてしまっているのである。
分割統治、その言葉に大戦後のドイツと朝鮮半島とを思う。
そういえば東西ドイツが再統一を果たしたとき、ヨーロッパの中央に巨大国家が誕生する以上はかつてのドイツ帝国が復活するようなことにつながるのではないかと懸念する声が、けっこう大きかったことを思い起こしてみても、やはり国力をそぐための分割統治というものは古くて今なお新しい統治手法なのだろう。
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さらにヤマト王権には、切り札があった。

私のふるさと京都府には日本海に面した丹後半島があり、ここにも小さな独自の古代国家があったことが考古学にて推定されている。それもヤマトに併呑されてしまったわけだが、浦島太郎伝説はその古代国家に由来するという説がある。竜宮城は大陸にある先進国の宮廷であり、そこへ朝貢しにいったものの帰国してきたら祖国がヤマトによって滅亡してた、という話だという。

その丹後半島の南に大江山(おおえやま)という連峰がある。大江山はめずらしくマントル物質が造山運動により上へと押し上げられその芯が残って山になったものであり、上部マントルを構成するカンラン岩や蛇紋岩などが露出した巨大岩体である。その生成年代はじつに約4億6千万年前の古生代オルドヴィス紀にまでさかのぼるという。
そしてここには酒呑童子(しゅてんどうじ)なる鬼がいたという伝説があり、これを退治したのに使われたのがこともあろうに出雲で製鉄してつくった「童子切(どうじぎり)」なる史上初の日本刀であったという伝えもある。

日本刀といえば鉄。

古代イズモの鉄器文化は、のちに中国山地から豊富にとれる砂鉄を使った日本オリジナルの精錬方法「たたら製鉄」へとつながっていった。そして出雲をして日本屈指の製鉄と「はがねづくり」の地へと押し上げる。
古代出雲歴史博物館ではたたら製鉄に使う大きなフイゴの実寸大の模型があり、実際に上に乗ってフイゴを動かす重労働を追体験できる。
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ジブリ映画「もののけ姫」に出てきたエボシ御前が率いる巨大なたたら場は、この出雲がモデル。

そして鉄でつくった剣といえばイズモのヤマタノオロチを退治したスサノオ。
スサノオは皇祖神アマテラスの弟だが、暴れん坊すぎたがために姉たる太陽神アマテラスによって天界から追放され地上に降り立ち、そこでヤマタノオロチに食べられそうになっていた女神を助けその女神と夫婦となり、その家系からイズモの神オオクニヌシが生まれる。
そのスサノオが倒したヤマタノオロチの中から出てきた神剣「草なぎの剣」は、のちに皇位継承に必須の三種の神器のひとつとして今なお皇室につたわることになる。
つまり、イズモからヤマトへと渡された剣である。

その剣は大陸風の直線的な大刀、あの聖徳太子の肖像にも描かれているものと同じかたち。直刀と呼ぶ。

直刀は古墳時代の出雲からも出土している。
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それがさらにのちの時代、反ったかたちに湾曲した湾刀へと進化した。湾刀は直線的な太刀よりも打撃力が強いがためであり、やがてそれは武士のシンボルたる日本刀になった。そして出雲は江戸時代にいたるまで玉鋼(たまはがね)と称される高品位な鉄鋼を量産している。

弥生時代から古墳時代にかけて、ヤマトはイズモの進んだ鉄器技術を手中におさめ、それをベースに次々と他国を攻め滅ぼし、それら敵対国家を酒呑童子のように鬼あつかいしながら征服し倭における覇権を広げていったのかも。


こうしてヤマト王権はやがて倭を統一し、飛鳥、藤原京、平城京などを経て、最終的には平安京をその小宇宙の中心核とする帝国を築き上げた。
そしてその間に熊襲(クマソ)を、磐井(イワイ)を、蝦夷(エミシ、エゾ)を、その他多くの勢力を滅ぼした。

古代出雲歴史博物館の特別展での展示、同じ時代の古墳を飾った像から3体。
・左;不思議なかたちの出雲型
・中;福岡県八女市から出土した石像
・右;大阪府高槻市にある、継体帝のものと目される前方後円墳から出土した武人の埴輪
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上の写真でいちばん右にあるヤマトの武人をかたどった埴輪は、そのデザインといい皇帝の命を受け前線にて帝国の支配域を広げていくその立ち位置といい、言わば「古代日本のダース・ヴェーダー」といったところか。

東北地方に住んでいたエミシの英雄アテルイを、坂上田村麻呂が討伐し奥州を平定したとき、当時の日本に君臨し平安京の始祖であった桓武帝は大いに喜んだであろう。なぜなら桓武帝には、一刻も早く日本列島統一を果たすことで日本を大陸の列強に拮抗しうる単一国家としてまとめあげ、1つの小宇宙を建設する国際政治的な必要があったからである。
しかしながらその大義名分の下に、あまたの「まつろわぬものども」が歴史の闇に葬り去られてしまったことを平安京の末裔たる私は思わずにはおれず、まつろわなかった多彩なひとびとをしのぶ旅をしたくなった。
坂上田村麻呂が建立にかかわった京都の清水寺は世界遺産になっている。だがその境内の一隅に、ひっそりと目立たぬところに、坂上田村麻呂によって捕虜にされ桓武帝によって処刑されたエミシの英雄アテルイを追悼する石碑があることを、知る人は少ない。

桓武帝は、平城京時代から続く渤海との貿易も進めるなどしたたかでもあった。
しかも渤海は遣唐使ならぬ遣日本使、すなわち日本への朝貢すらしてきた。
小笠原には江戸時代の初めまでポリネシア系の先住民がいたとも言われる。
シベリアにいたツングース系のウィルタ、言語系統が不明なニヴフ=ギリヤークといった北東アジアからの少数民族も、サハリンを経由し北海道に渡ってきてもいた、それも戦後しばらくまで。


さて、最後に話はふたたびの古代イズモ圏に戻って終わる。

出雲の東、伯耆(ほうき=今の鳥取県西部)の国には有名な大山(だいせん)がある。
伯耆大山とも呼ばれ、標高1,729m、成層火山だが約1万7千年前の噴火を最後に活動していないとされる。
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西側から見ると綺麗な円錐形にそびえて見えることから、伯耆富士の異名もある。
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この大山にその名も大山寺という寺が創建され、大山が日本最古の霊山となり山岳信仰の中心となってから偶然にも今年でちょうど1,300年。つまり大山は奈良に平城京が建設されてわずか8年後に、日本最初の霊山として信仰の対象としてあがめられることになる。今年は開山1300年祭ということで大山エリアは観光客でにぎわっている。
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こうして大山は、高野山、比叡山とならぶ、日本三大霊山のひとつ、かつ最古の存在として一時期は大山寺にて僧兵3,000人もかかえていたという。


信長はんに目ぇつけられへんで、ほんに良かったな笑
信長やら秀吉やらが大山までたどりつく以前に、毛利攻めで備中高松城を水攻めにしている最中に本能寺の変が起きたもんやさかい。

まぁ信長の叡山延暦寺焼き討ちは、手段はさておき信長なりに政教分離を実行したつもりなのだろうとは思う。
延暦寺はもちろん大山寺に僧兵三千、南都と言われた奈良の寺にも多大な軍事力があり、それがゆえ信長は政治に宗教勢力が口出さぬよう政教分離を断行した。ただその発想が当時としては斬新すぎ、さらに手段がむごすぎて誰も追いつけなかったのが、信長の孤高と悲劇とも言えよう。
そして信長が政教分離を実践していなかったら、あるいは現代日本も宗教テロが起きる国になっていたのかな?

叡山をながめてた京都人として、思わず連想。


さてこの大山を「だいせん」と、すなわち「山」を「せん」と読むのは、漢字を音読みするときに、漢音で読むか呉音で読むか、の違い。たとえば「利益」を「りえき」と読むのは漢音、ご利益のように「りやく」と読むのは呉音。呉音は古い時代の読み方とされ、特に仏教用語に多く用いられる。
そして、大山のように「せん」と読む名を持つ山は日本全国でも 70 峰ほどしかなく、その大半が鳥取、島根、岡山の三県に存在する。古い時代の仏教なのか渡来系なのか?

さらに大山は、山岳信仰では火神岳(ほのかみだけ)として崇拝されている。
噴火は1万年以上も前におさまったはずなのに、なぜに火の神?
奇説では、ヤマタノオロチは1万年以上も前の噴火における溶岩流を目撃した縄文人の記憶と伝承だとも。
あるいは鉄器をつくっていただけに酸化鉄が多く赤土が多い中国山地にて、洪水の時に赤い濁流が襲った記憶だとも。
最新の地質学では大山の山腹にて三千年ほど前に火砕流が起きた可能性があるとの説もある。

なおこの中国山地の北側には大山を主峰とする火山帯があり、弓ヶ浜の内側にある汽水湖、中海には大根島(だいこんじま)という名の日本ではめずらしい玄武岩質による楯状火山の島がある。島の中央に標高 42.2m のスコリア丘があるほかは非常になだらかであり、さしずめミニ・ハワイ島。火山活動は約19万年前に停止しており、予約すれば風穴などを見せてもらえる。


こうして出雲は古代から信仰の国として、やがては出雲大社や伯耆大山を軸とする神々の国、神仏の聖域として生き残った。
今でも十月になるとよそでは神無月となるのが出雲では神在月となるとされるが、これは中世に出雲大社の関係者が全国へ流布して回った、あとづけの伝承ともいう。これがためにわざわざ出雲大社では十月にあつまった神々を出雲大社へ迎え入れるべく、出雲大社から西へ2キロほどのところにある日本海に面した砂浜、稲佐の浜(いなさのはま)にて海から上陸する神々を迎え入れる儀式が行われる。
この稲佐の浜は「日本の渚100選」にも選ばれている景勝の地。
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ちなみにこの砂浜には弁天島という巨岩がそびえたち、じつは 1965 年ごろまでは本当に島だったのだが、近年砂浜が成長して陸続きになってしまい波打ち際にそそりたつようになってしまった。そしてその上にある小さなほこらはじつは出雲大社系の末社でもなんでもなく、むしろ反対の皇祖神アマテラス系いわゆる天孫降臨へとつながる「天孫系」の神、しかも伝説の初代皇帝である神武帝の祖母をまつっているとも、あるいは神武帝の曽祖父たる海神ワダツミをまつっているとも言われる。
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またこの浜で他ならぬ国譲りの交渉が行われたと言われている。すなわち皇祖神アマテラスがつかわした軍神がこの浜に上陸し、オオクニヌシに対し、国を譲れと迫ったのである。
こんなところまでアイロニカルなのか。古代のノルマンディー上陸作戦なのか。


それでもなお出雲系の神々は、天孫系とならびつつもここ古代イズモが遺した土地のあちこちにて、こだまして聞こえるかのように散在する。
たとえば、こちらは米子市のはずれ近くにある山あいの小さな神社、阿陀萱(アダカヤ)神社。
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伝承に曰く
「昔、宝石天より降りて一夜に出現す、降りし三宝石は村中に二つ、神社に一つそれ故に宝石山と称す」

つまり、隕石が三つ落ちてきてそのひとつがこの神社に落ちたのだと。
鳥居の前にある大きな石が天から降ってきたその隕石すなわち「宝石」だという。
そして、神社背後の小さな山は宝石山と呼ばれる。
残り二つの宝石も近隣の集落にぽつぽつと存在する。

さびれた神社だが古事記にも載っている。
この神社にまつられているのは、イズモの神オオクニヌシの娘たる女神。それがここで暮らしたという。

こないごっつい岩が天から降ってきたら直径数キロのクレーターができるはずだが、たぶん伝承が伝えているのはそんな野暮なマジレスではなくもっと別なことを意味し、その象徴がこの巨石ではないかと。
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少なくともこの石が、神々が降臨する磐座(いわくら)であることは確か。
さらには、古代イズモのクニにおけるなんらかの意味があったのかもしれない。皇祖神アマテラスなどの天孫系ではなく、出雲系の神それもオオクニヌシの娘たる女神をまつっていることからも、古代イズモの王族や王女、ひょっとしたら女王あるいは首長や有力者に関係することなのかもしれない。

ちなみにこの神社にて、本殿の前に寄進されている石灯籠はかなり風変わり。
というのもたいへんに装飾が多く、この写真ではわかりにくいがまずてっぺんに龍がとぐろをまいてからみつき、そこから下へ向かってさまざまな鳥獣などが彫り込まれ、最後にはなんと宝剣が垂直に突き刺してあるのが描かれている。
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これはなにを意味するのか? かなうものなら深く掘り下げて取材してみたい。

今では氏子も少なくさびれる一方の阿陀萱神社(アダカヤ)だが、かつては有力な戦国大名も寄進したとかで栄華を誇ったであろう。
現代のこのあたり一帯は米子市の中心市街地から少し離れた農村なのだが、このような小さな村の神社や地元のローカルな地名の多くが古事記などの神話に記載されていることに、おどろかされる。

やはりイズモは、神々の国として神話に生き残っているのであり、それが今はたから見ればただの小さな集落が散在するにしか見えない田園風景の中に、ふつうにあたりまえに、脈々と存続しつづけていることに、イズモのクニが今なお息づいているそのあかしたる息吹き、その風を、肌で感じる。

それは弥生の風であり現代の風であり、現代に吹く弥生の息吹きであり、弥生に吹く現代の息吹きであり。


さて、古代出雲をはじめまつろわなかった多彩な人々をしのぶ旅。
なんでもネットで知れる今だからこそ、現地へ出向いて行ってみたい。現場の空気を吸い、全身の DNA 二重らせんが、まるで細い糸くずたちがそれこそ現場の空気によって弦のようにびりびり震えるのを感じとらないと、わからないことなんていくらでもある。
だから私は沖縄に行き今回はイズモへ行ってみた。まだまだ行きたいところは、北に南に西に東にいくらでもある。
そして、妻木晩田遺跡(むきばんだ)に密集していたイズモ式の墳丘墓群からはるけく見下ろせる日本海と浜辺とを、古代イズモの人々は、あるいは古代ヤマトから征服してきた人々は、今なおこの地に眠りつつ、どう見ているのか。
思索はつづく。
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二千年以上も前からの、弥生時代における古代イズモの先進性を裏付ける数々の考古学的発見、そして国譲り神話の真意。
それは古代日本において、隣国・列強に対抗しうる統一国家建設という大義名分の下に、戦火で失われし数々の王国たち、人々、文化、多様性。
さらには、倭国の支配権をヤマトへ譲る代わりに出雲を霊的な精神性でもって守った神話、その意味するもの。そしてその古事記などに記載されている、ごくふつうに小さな神社やローカルな地名までもが、今なお普通にあたりまえに日常に溶け込んで存在する、出雲から米子にかけての地。
平和、権力、権威、技術、文化、信仰、精神、多様性、などなど、ヤマト王権に征服されて以来、黄泉の国とも言われ、陰陽における陰を歩んできた出雲・松江・安来・米子・大山というひとつの圏域における旅路、これらが未来にかたるものは、あまりにもまだまだ大きすぎる。
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