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2020年05月05日03:28

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昔の事。おぼろげな記憶。

最近、若者が平気で外出したり旅行するのをけしからんだのとっちめようという風潮がある。
それで命を落とす人もいるぞ。お前のせいだと。
こういうのを放置するのも悪だと言われそうだが、放置している。

踊らされた市民が自警団気取りで他の市民を監視してモノも言えない雰囲気を作り出すと、戦時中の不自由な空気を思い出すし、何より俺自信がアホな若者だったので、今の若者がアホでも多目に見ている。注意すべき時はするけど、昔を忘れて虫のいいこと言おうとは思わない。
何で戦時中の記憶があるかだって? そういう雰囲気は戦後もずっと続いてたのよ。
それがだんだん薄まって人が自由にモノが言えるようになったのはつい最近のこと。その最近もなぜかみんな忘れ出したようであったかどうだか信じられない記憶になっていると思う。パワハラって言葉が出てきた頃からかな。それ以前は我慢の方が正しかったし、モノが言えない時代て長かった。

自分がどんな若者だったかというと、バイクは路駐してたね。出先でも家でも。都内で。その前は横浜で。
今では信じられない迷惑行為だが、ライダーはかなり多くがそうやってたのよ。
途中から厳しくなってね。というか、車も車庫証明が要らない時代、路駐で過ごせる場所や人があった。
時々取り締まりがあったら、違反切符で8000円とか16000円とかだったかな。税金みたいなもんだと思って、反省するどころか、やられる度にキレてたからね。このやろうって。まあダメな子だったわ。厳しくなった後もしばらく1,2年は道路ではない緑道とかに停めて違反を逃れた。。そんなクルパーの馬鹿者に若者をしかる資格があるとしたら、やんわりたしなめる程度だわな。

まあ、スピードも普通に無視してたし。夜中の環七で140キロ位出してましたわ。今思うと自殺行為だな。よく生きてたわ。何度かコケてるし。
というか、バイクの死亡事故って今のコロナの死者より多かったからね

あとさ、ライダーだけに限らないけど、物騒な世の中だったね。95年位かな。対抗車線走ってる野郎と目があっただけで喧嘩売られたりしたね。なんだコラーみたいな。そんときゃ逃げたよ。怖かったけど、夜ドキドキして眠れなかったような、でも2,3日位で忘れたね。だって相手がどこの誰かも知らないし、もう一回追いかけてこない気がするから。
乗ってる車種や改造や服装ってのもなめられたり喧嘩売られる原因になるから注意が必要だった。それもさ、昔ながらのヤンキー文化が先にあって、俺も当然、昔ながらのヤンキーな訳ないじゃん。ファッションバイカー的だから狙われたよ。都内以外では。都内に住んでからは楽だった。

なめられない方法はさ、自分もヤバいぞって雰囲気出すのよ。
それってどうやって出すのか説明できないけども、ヤンキーではないヤバさってギャング的とかヤクザ的とか横浜特有の港っぽさとか。そういう場所に出入りして自然に身に付くのかな。
夜の仕事したりヤバい界隈でバイトしたりしてだんだんに馴染んでいったと思う。
パッと見で学生か生のツッパリか見分けられるというのと一緒。
どんどん学生じゃない風体になっていったと思う。パッと見でポン中、売人、娼婦、その筋の人は区別できた。バブル崩壊はヤクザ界にもあって、足を洗ってカタギになる人も多かったので、乞食や酒場や飲食業界にもそういう人はいた。

女連れて歩いててもいきなり不良が飛びげりしてきたり、バイトしててもヤクザが来たり。別にバイカー以外でも危険だったな。仲裁するのもヤクザという。あ、俺のバイトのケツモチってヤクザだったのね。っていう。

あとさ、話は変わるけどパン屋てさ、ベーカリーじゃなくて、工場で焼いた敷島パンとか山崎パンを売るだけのパン屋が町にたくさんあったよね。ヤタローパンてのもあった。
余談だが、貧乏人同士でロシアってパンの話をすると思い出して笑うよね。ただ安くてデカイだけのパン。あれで2日は過ごせるとか。

あとさ、俺、モデル事務所に応募してポッキーのポスターのモデルだったような夢を見たんだが、夢の中ではまんざらでもなく信じてたのよね。45才だというのに。

あり得ない夢は信じるが、あり得なそうな現実は消えていってしまうのね。
というそれだけ。
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