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2022年01月21日00:14

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01月21日の日記

今日の出来事:754年−鑑真が仏舎利を携え、薩摩坊津に来日、1542年−浅井亮政死去、1793年−フランス国王・ルイ16世が断頭台で処刑

今日は、鑑真が来日です。鑑真は、唐の揚州江陽県の生まれで20歳で長安に入り、翌年弘景について登壇受具し、律宗・天台宗を学びました。律宗とは、仏教徒、僧尼が遵守すべき戒律を伝え研究する宗派ですが、鑑真は四分律に基づく南山律宗の継承者で、4万人以上の人々に授戒を行いました。揚州の大明寺の住職であった742年、日本から唐に渡った僧・栄叡、普照らから戒律を日本へ伝えるよう懇請されました。奈良には私度僧(自分で出家を宣言した僧侶)が多かったため、伝戒師(僧侶に位を与える人)が必要なため、聖武天皇は優秀な僧侶を捜していました。仏教では、新たに僧尼となる者は、戒律を遵守する事を誓う必要がありました。戒律のうち自分で自分に誓うものを「戒」といい、サンガ内での集団の規則を「律」といいます。「戒を」誓うには、10人以上の正式の僧尼の前で儀式(授戒)を行う必要があります。これら「戒律」は仏教の中でも最も重要な事項の一つとされていますが、日本では仏教が伝来した当初は自分で自分に授戒する「自誓授戒」が行われるなど、授戒の重要性が長らく認識されていませんでした。しかし、奈良時代に入ると、戒律の重要性が徐々に認識され始め、授戒の制度を整備する必要性が高まっていました。栄叡と普照は、授戒できる僧10人を招請するため渡唐し、戒律の僧として高名だった鑑真のもとを訪れました。栄叡と普照の要請を受けた鑑真は、渡日したい者はいないかと弟子に問いかけましたが、危険を冒してまで渡日を希望する者はいませんでした。そこで鑑真が自ら渡日する事を決意し、それを聞いた弟子21人も随行する事となりました。その後、日本への渡海を5回にわたり試みましたが、ことごとく失敗しました。最初の渡海企図は743年夏で、この時は渡海を嫌った弟子が、港の役人へ「日本僧は実は海賊だ」と偽の密告をしたため、日本僧は追放されて鑑真は留め置かれました。2回目は744年1月、周到な準備の上で出航しましたが激しい暴風に遭い、明州の余姚へ戻らざるを得なくなりました。再度、出航を企てましたが鑑真の渡日を惜しむ者の密告によって栄叡が逮捕され、3回目も失敗に終わりました。その後、栄叡は病死を装って出獄に成功し、江蘇・浙江からの出航は困難だとして、鑑真一行は福州から出発する計画を立て、福州へ向かいました。しかし、この時も鑑真の弟子・霊佑が鑑真の安否を気遣って渡航阻止を役人へ訴えました。そのため、官吏に出航を差し止めされ、4回目も失敗しました。748年、栄叡が再び大明寺の鑑真を訪れて、懇願すると鑑真は5回目の渡日を決意しました。6月に出航し、舟山諸島で数ヶ月の風待ちをした後、11月に日本へ向かい出航しましたが、激しい暴風に遭って14日間の漂流の末、遥か南方の海南島へ漂着しました。鑑真は当地の大雲寺に1年滞留し、海南島に数々の医薬の知識を伝えました。そのため、現代でも鑑真を顕彰する遺跡が残されています。751年、鑑真は揚州に戻るため海南島を離れました。その途上、端州の地で栄叡が死去しました。動揺した鑑真は広州から天竺へ向かおうとしましたが、周囲に慰留されました。この揚州までの帰上の間、鑑真は南方の気候や激しい疲労などにより、両眼を失明してしまいました。752年、必ず渡日を果たす決意をした鑑真のもとに訪れた遣唐使・藤原清河らに渡日を約束しました。しかし、当時の玄宗皇帝が鑑真の才能を惜しんで渡日を許しませんでした。そのため753年に遣唐使が帰日する際、遣唐大使の藤原清河は鑑真の同乗を拒否しました。それを聞いた副使の大伴古麻呂は密かに鑑真を乗船させました。遣唐使船が出航してほどなくして暴風が襲い、藤原清河の大使船は南方まで漂流しましたが、大伴古麻呂の副使船は持ちこたえ、754年1月21日に薩摩坊津の秋目に無事到着し、実に10年の歳月を経て仏舎利を携えた鑑真は宿願の渡日を果たす事ができました。鑑真は大宰府観世音寺に隣接する戒壇院で、初の授戒を行いました。平城京に到着すると聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住する事となりました。鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けました。これが日本の「登壇授戒」の嚆矢となりました。併せて、常設の「東大寺戒壇院」が建立され、その後761年には日本の東西で「登壇授戒」が可能となるよう「大宰府観世音寺」と「下野国薬師寺」に戒壇が設置され、戒律制度が急速に整備されていきました。758年、淳仁天皇の勅により大和上に任じられました。政治にとらわれる労苦から解放するため僧綱の任が解かれ、自由に戒律を伝えられる配慮がなされました。759年、新田部親王の旧邸宅跡が与えられ「唐招提寺」を創建し、戒壇を設置しました。鑑真は戒律の他、彫刻や薬草の造詣も深く、日本にこれらの知識も伝えました。また、悲田院を作り、貧民救済にも積極的に取り組みました。763年、唐招提寺で死去(遷化)しました。76歳でした。死去を惜しんだ弟子・忍基は鑑真の彫像を造りました。これが、現代まで唐招提寺に伝わっている「国宝・唐招提寺鑑真像」が、日本最古の肖像彫刻とされています。また779年、淡海三船により鑑真の伝記「唐大和上東征伝」が記され、鑑真の事績を知る貴重な史料となっています。

次に、浅井亮政死去です。浅井亮政は浅井長政の祖父です。北近江の国人で浅井氏の庶流・直種の子として生まれました。浅井氏嫡流で従兄弟の浅井直政の娘・蔵屋と結婚し、嫡流を継承しました。浅井亮政が浅井氏を継承した頃、浅井氏は北近江半国の守護・京極氏の被官でした。京極氏の当主・高清が家督を次男・高吉に譲る意向を示した事で、御家騒動が発生しました。この時、浅井亮政は近江国衆・浅見貞則とともに、高清の長男・高延を後継者に推し、高清と対立しました。浅見貞則と浅井亮政は主君・高清、高吉、そして高吉を推す上坂信光を尾張に追いました(尾上城の戦い、今浜城の戦い)。これ以後、京極氏は国人一揆が主導する事になり、浅井亮政はその中心的役割を担いましたが、京極高清を追う際に共に戦った浅見貞則が専横を極めたため、浅井亮政は今度は浅見貞則を追い、国人一揆の盟主となって京極家中における実権を掌握しました。こうして江北で勢力を築いた浅井亮政でしたが、亮政の勢力拡大と共に南近江の守護・六角定頼と対立するようになりました。六角氏はもともと近江源氏・佐々木氏の嫡流で、京極氏の本家筋にあたる存在でした。足利将軍を庇護して室町幕府へ関与するなど、勢力を強めていました。もともと近江守護職であった六角氏との対立は、浅井亮政にとって不利であり、度々侵攻を許す事になりましたが配下となった国人層を掌握して、こうした侵攻をしのぎました(小谷城の戦い、内保河原の戦い)。一方で浅井亮政の傀儡化した京極氏でしたが、こうした亮政の専横に不満を募らせた京極高延が父・高清と和解し、上坂氏をはじめとする反亮政派の国人衆らとともに亮政と対立するようになりました。浅井亮政は六角氏との対立がある中、更に京極氏と争う余力がありませんでした。「箕浦の戦い」で六角定頼に敗れると、1534年に京極父子と和解しました。その後、京極高清が死去すると長男・高吉と次男・高延が再び家督争いを始めました。浅井亮政は京極高延を擁し、京極高吉を擁した六角定頼と戦いました(佐和山城の戦い、鎌刃城の戦い、国友河原の戦い)。しかし、1541年に再び京極高延が浅井亮政に反旗を翻しました。浅井亮政は京極氏との対立を解決しないまま、1542年1月21日に死去しました。死後、嫡男・久政と婿養子の田屋明政が家督継承を巡って争うようになり、田屋明政が京極高延と結んで久政を攻めたため、浅井久政は六角氏へ臣従しました。浅井亮政は5男5女を儲けており、婿養子として一族の田屋明政がいました。家督を相続したのは長男・久政です。男系子孫は孫・長政が織田信長に滅ぼされた事により、絶えました。しかし、亮政の曾孫にあたる「江」の子孫は彼女の子にあたる徳川家光の曾孫・徳川家継まで江戸幕府の将軍職を世襲し、浅井の血を残しました。久政の娘・「初」が京極高吉に嫁いだ為、皮肉にも浅井亮政が終生争った京極氏として女系子孫は現代に伝わりました。

最後に、フランス国王・ルイ16世が断頭台で処刑です。ルイ16世は、フランス最後の絶対君主にして、フランス最初の立憲君主です。1754年8月23日、父ルイ・フェルディナン王太子、母マリー=ジョゼフ・ド・サクスの三男ルイ・オーギュストとして誕生しました。長年敵対してきたブルボン家とハプスブルク家の間の和議を結ぶため、オーストリアのマリア・テレジアにより、娘マリア・アントーニアとブルゴーニュ公ルイ・ジョゼフとの政略結婚が画策されていましたが、1761年のルイ・ジョゼフの死去により1763年5月、ルイ・オーギュストとの結婚の使節としてメルシー伯爵が大使としてフランスに派遣されました。結婚の反対者であった父ルイ・フェルディナンが1765年に死亡した後、1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られました。1770年5月16日、ヴェルサイユ宮殿にて王太子ルイ・オーギュストとマリア・アントーニアの結婚式が挙行され、王太子妃はマリー・アントワネットとなりました。1774年5月10日にルイ16世はフランス国王となり、1775年にランスのノートルダム大聖堂で戴冠式を行ないました。1783年には「名士会」の開催と「三部会」招集の布告を行ないました。貴族層に対抗する窮余の策として招集した「三部会」は思わぬ展開を見せ、平民層を大きく政治参加へ駆り立てた事で、結果的に1789年7月14日の「バスティーユ襲撃」に始まる「フランス革命」を呼び起こしました。国民議会の封建制廃止などの要求に対して、ルイ16世は「余は決して、余の僧侶たちと余の貴族たちを剥ぎ取られることに同意しないだろう」と強硬な姿勢を崩しませんでした。10月の20万人の群集による「ヴェルサイユ行進」に際しては、議会の代表団に際して食糧の放出を裁可しました。この後「国王万歳」、「国王をパリへ」の叫び声が上がり、パリに連行される事になりました。ルイ16世は本心では革命の進展を望んでいなかったため、1791年に家族とともにパリ脱出を企てましたが、ヴァレンヌで発見されて捕らえられました(ヴァレンヌ事件)。ルイ一家はただちにパリへ護送され、以後テュイルリー宮殿に軟禁されました。1792年6月、オーストリアなどによる対仏戦争の最中、デュムーリエは国防大臣を辞任する際、宣誓忌避僧に対する法案に拒否権を行使し続けるルイ16世に対し、「僧たちは虐殺されるでしょう。そしてあなたも…」と語りましたが、これに対してルイ16世は「私は死を待っているのだ。さようなら。幸せでいるように」と述べました。6月20日、群集がテュイルリー宮殿に押し寄せた際、そのリーダーが王に誠意ある態度を求め、幾人かが槍を王に向けて振り回しました。喧騒の中、彼は「余は憲法と法令が、余に命じていることをしているにすぎない」と冷静に述べ、威厳を示しました。その後「8月10日事件」で王権が停止され、国王一家はテュイルリー宮からタンプル塔に幽閉されました。幽閉されたルイ16世は家族との面会も叶わず、名前も「ルイ・カペー」と呼ばれ、不自由な生活を強いられる事になりました。その間、国王の処遇を巡って、国王を断固として擁護する「フイヤン派(および王党派)」、処刑を求める「ジャコバン派」、裁判に慎重な「ジロンド派」は対立し、長々と議論が続けられていました。1793年1月15日〜1月19日、国民公会はルイ16世の処遇を決定するために四回の投票を行いました。投票方法は、指名点呼という方法で行われる事が事前に取り決めされており、各議員は登壇して意見を自ら表明する必要がありました。第一回投票では、まず「国王は有罪であるか否か」が問われて、各議員(定数は749)は賛成693対反対28(欠席23・棄権5)で有罪を認定しました。「ジロンド派」が公会の判決は人民投票で可否を問われなければならないと主張していたため、第二回投票では「ルイに対する判決は人民投票によって批准されるべきか否か」が問われ、これは賛成292対反対423(欠席29、棄権5)で、「ジロンド派」の予想に反して否決されました。そして、第三回投票では「ルイは如何なる刑を科されるべきか」という刑罰を決める投票が行われ、初めて賛否では決まらない意見表明の投票となりました。集計したところ「無条件の死刑」が387票で最多となり、次いで「その他の刑」が334名で、内訳は鉄鎖刑2名、禁錮刑かつ追放刑286名、執行猶予付き死刑46名でした。387対384(欠席23・棄権5)で死刑と決まりました。第四回投票では、死刑延期の賛否が投票されましたが、賛成310対反対380(欠席46・殺害1・棄権12)で、これも70票差で否決され、即時の死刑執行が決まりました。1793年1月21日午前10時22分、シャルル=アンリ・サンソンの執行により革命広場(現コンコルド広場)でギロチンで斬首刑にされました。

今日の誕生日:屈原、板垣征四郎、久我美子、竜雷太、郷原洋行、高田純次、三浦洋一、京本政樹、加藤高道(狩人・弟)、平尾誠二、黒木香、川上つよし(東京スカパラダイスオーケストラ)、宮崎吾朗、岡田展和、ka−yu(Janne Da Arc)、水樹奈々、川原克己(天竺鼠)、KEIJI(EXILE、EXILE THE SECOND)、山村隆太(flumpool)、KENZO(DA PUMP)、橋本楓(元アイドリング!!!21号)、シンボリクリスエス

今日の記念日:ライバルが手を結ぶ日、料理番組の日、瞳の黄金比率の日、スイートピーの日

今日の「今日訓」:本日は、慶応2年1月21日(旧暦)、坂本龍馬らの仲介により長州藩と薩摩藩が「薩長同盟」を結びました。この事から「ライバルが手を結ぶ日」、1937年に世界初の料理番組「夕べの料理」を開始した事により「料理番組の日」、意識調査によって白目と黒目の比率が「1:2:1」の瞳がかわいいとされた事から、瞳の黄金比率「1:2:1」の語呂合わせで「瞳の黄金比率の日」、スイートピーは花弁が左右対称で3種類の花びら(旗弁、翼弁、舟弁)からなり、それぞれ1枚、2枚、1枚ある事から121「スイートピーの日」となりました。
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