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2021年04月18日00:27

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04月18日の日記

今日の出来事:1268年−北条時宗が鎌倉幕府執権に就任、1429年−足利義教に将軍宣下(籤引き将軍誕生)、1942年−第二次世界大戦:ドーリットル空襲(日本本土に対する初めての空襲)、1943年−海軍甲事件

今日は、北条時宗が鎌倉幕府執権に就任です。北条時宗は5代執権・北条時頼の子です。1257年、将軍御所にて宗尊親王を烏帽子親として元服し、その偏諱を賜って「相模太郎時宗」を名乗りました。1264年、6代執権・北条長時が出家し、7代執権に北条政村が就任すると、北条時宗は14歳にして執権の補佐を務める「連署」となりました。執権・北条政村や一族の重鎮・北条実時と協力して、1266年に幕府転覆を計画していた宗尊親王の廃位と京都送還、惟康親王の擁立を行いました。フビライ・ハーンがモンゴル帝国の皇帝に即位した8年後の1268年正月、高麗の使節が「元」の国書を持って大宰府を来訪、蒙古への服属を求める内容の国書が鎌倉へ送られました。4月18日に北条政村は、この難局を前に権力の一元化を図るため、執権職を18歳になった北条時宗に継承しました。こうして、北条時宗は第8代執権となりました。北条政村は連署として補佐になりました。こうして後に、モンゴル帝国の侵攻を2度も撃退し、日本を守った英雄と呼ばれる8代執権・北条時宗が誕生しました。

次に、足利義教に将軍宣下(籤引き将軍誕生)です。4代将軍・足利義持の子である5代将軍・義量が急逝し、義持も重病になりました。重臣達は評議の結果、岩清水八幡宮で、くじ引きにて将軍を決める事になりました。畠山満家が籤を引いた結果、義持の弟で僧籍に入っている義円に決まりました。このため「籤引き将軍」と呼ばれます。幕閣は権力の空白状態を埋めるため、一日も早い将軍就任を望みましたが、義円は元服前に出家したために俗人としてはいまだ子供の扱いであり、無位無官でした。さらに法体の者が還俗して将軍となった先例がなく、武家伝奏・万里小路時房は法体の者に官位を与えるのは、罪人に官位を与えるようなものであると反対しました。そして、義円の髪が伸びて元服が行えるようになってから、次第に昇任させるべきと回答しました。公卿の大半も同意見でした。幕閣はこの意見に従い、義円の髪が生えるまで待つ事にしました。幕府は将軍の書状である「御教書」を発給させて義円に政務を執らせようとしましたが、これも朝廷の反対にあったため「管領下知状」で代用する事となりました。義円は還俗して義宣と名乗り、「従五位下左馬頭」に叙任されました。その後、「従四位」に昇任しましたが、将軍宣下はありませんでした。このため、関東公方・足利持氏が将軍となるという流言が流れました。称光天皇が危篤に陥ると、義宣は密かに伏見宮貞成親王の皇子・彦仁王を伏見宮御所から京都に移し、後小松上皇に後継者を決めるよう要請しました。後小松上皇が彦仁王を後継とする意向を伝えると、義宣は彦仁王が京都にいる事を伝えました。この配慮に後小松上皇は喜び、称光天皇崩御後に彦仁王は即位して「後花園天皇」となりました。こうして、1429年4月18日に義宣は義教と改名して「参議近衛中将」に昇った上で「征夷大将軍」となりました。改名の理由は「義宣」が「世忍ぶ」に通じるという俗難があり、不快という事でした。当初は公家が協議して新たな名に「義敏」を決定していましたが、「教」の字の方が優れているという事で摂政・二条持基を通じて訂正させました。この6代将軍・足利義教は畠山満家の死後に、粛清や討伐を繰り返す恐怖政治を行ったため「悪御所」と言われ、恐れられる事になります。

その次に、第二次世界大戦:ドーリットル空襲です。ドゥーリトル空襲は、1942年4月18日にアメリカ軍が航空母艦に搭載した陸軍の爆撃機によって行った、日本本土に対する初めての空襲です。名称は空襲の指揮官であったジミー・ドーリットル中佐に由来します。1941年12月8日に行われた「真珠湾攻撃」以降、アメリカ軍は日本軍に対して各方面で一方的な敗退が続きました。さらに開戦後には、「真珠湾攻撃」の援護を行っていた日本海軍の巡潜「乙型潜水艦」計9隻(伊9、伊10、伊15、伊17、伊19、伊21、伊23、伊25、伊26)は、太平洋のアメリカとカナダ、メキシコの西海岸に展開し、12月20日頃より連合国、特にアメリカに対する通商破壊戦を展開しました。その結果、翌年上旬までにアメリカ西海岸沿岸を航行中のアメリカのタンカーや貨物船を5隻撃沈、5隻大破させ、その総トン数は6万4669トンに上りました。西海岸沿岸の住宅街の沖わずか数キロで、日中に多くの市民の目前で貨物船を撃沈した他、浮上して艦船への砲撃を行い撃沈するなど、活潑な作戦を行いました。1942年2月24日には、日本海軍の「伊17乙型」大型潜水艦によるカリフォルニア州サンタバーバラのエルウッド石油製油所への砲撃など、本土への先制攻撃を行いました。これまで長い間本土を攻撃された経験のないアメリカ政府やアメリカ国民に、大きな衝撃を与えました。アメリカ軍は士気を高める方策として帝都、東京を攻撃する計画を立てました。ルーズベルト大統領は、「真珠湾攻撃」後、海軍に日本本土空襲の可能性を研究させていました。1月31日、空母「ホーネット」を上空から視察した海軍作戦部作戦参謀フランシス・S・ロー海軍大佐は、双発爆撃機を空母から発進させるプランを思いつきました。アメリカ海軍の潜水艦乗組員が「航続距離の長い陸軍の爆撃機を空母から発艦させ、爆撃後には同盟国である中華民国の領土に着陸させてはどうだろうか」とルーズベルト大統領に進言しました。「B−25」を搭載する空母は「ホーネット」とされ、姉妹艦「エンタープライズ」が護衛に付く事となりました。1942年4月1日、16機の「B−25」を搭載した空母「ホーネット」と護衛の巡洋艦3隻、駆逐艦3隻はサンフランシスコを出撃しました。途中、空母「エンタープライズ」と巡洋艦2隻、駆逐艦4隻と合流し、日本へ向かいました。午前6時44分、米艦隊は哨戒艇を視認しました。それは、日本軍特設監視艇「第二十三日東丸」でした。「第二十三日東丸」は軽巡「ナッシュビル」の砲撃で午前7時23分に撃沈され、乗員14人全員は艇と運命を共にしました。午前6時45分「敵航空母艦2隻、駆逐艦3隻見ゆ」の発信が「第二十三日東丸」最後の無電となりました。午前7時に「栗田丸」、午前10時に「海神丸」、午前11時に「第一岩手丸」と「第二旭丸」、「長久丸」、午前11時30分に「第一福久丸」、「興和丸」、「第二十六南進丸」、午後12時には「栄吉丸」と「栗田丸」(2回目)、「第三千代丸」をそれぞれ攻撃しました。「第一岩手丸」は米軍機の爆撃と機銃掃射で航行不能になり、翌日午後5時に沈没しました。船員は潜水艦「伊七四」に救助されました。「長久丸」は機銃掃射で火災が発生し、翌日午前3時に沈没しました。生存者は「栗田丸」に救助されました。「栄吉丸」は航行不能となり、支援艦「赤城丸」に曳航されて本土に向かいました。午後12時50分、「第二一南進丸」が至近弾で航行不能となり、翌日午後5時に軽巡洋艦「木曾」が砲撃処分しました。乗員は「木曽」に救助されました。午後1時、「長渡丸」は米空母2隻、米巡洋艦2隻を発見したと通報しました。約30分後の午後1時36分、「ナッシュビル」が「長渡丸」を6インチ砲102発、5インチ砲63発と1時間を消費して沈めました。乗員9名が戦死し、5名が「ナッシュビル」に救助されました。第二哨戒艇部隊は監視艇3隻と22名(行方不明14、戦死7、重軽傷13)を失い、第三哨戒部隊は監視艇2隻と15名を失いました。ドーリットルが率いる「B−25」爆撃機16機は東京府東京市、神奈川県川崎市、横須賀市、愛知県名古屋市、三重県四日市市、兵庫県神戸市を爆撃しました。ドーリットル機は茨城県から東京上空に侵入し、午後12時15分に空襲を行いました。陸軍造兵廠東京工廠を目標としていましたが、全く無関係の場所を爆撃しました。早稲田中学校庭にいた4年生の小島茂と他1名が死亡、重傷者4名、軽傷者15名、家屋50棟という被害が出ました。6番機は中国沿岸で不時着しました。爆撃手ダイター軍曹、航空機関士フィッツマーリス伍長が死亡し、機長ホールマーク中尉、副機長メダー少尉、ネルソン航空士が捕虜となりました。16番機(ウィリアム・G・ファロウ中尉)は名古屋から和歌山に向かい、後に中国奥地で全員が捕虜になりました。この16番機は各地で民間人に対する機銃掃射を行ったため、後に死刑判決を受けました。8番機(エドワード・J・ヨーク大尉)は鹿島灘から侵入しましたが、燃料消費がはやく、北上して栃木県西那須野駅、新潟県阿賀野川鉄橋付近を爆撃し、日本海へ抜けてウラジオストクに向かいました。日本海を越えて午後7時35分にソ連本土に不時着しましたが、すぐにソ連警察によって拘留されました。乗員は各地を転々と移送された後、イラクに脱出して1943年5月29日にアメリカに帰還しました。13番機(エドワード・E・マックエロイ中尉)は、房総半島の南部を横断して横須賀に向かいました。午後1時頃、記念艦「三笠」の上空から爆撃を開始し、3発目の爆弾が横須賀軍港第4ドックで潜水母艦から空母へと改装中だった「大鯨(龍鳳)」に命中しました。13番機は日本海軍の中枢を爆撃する事に成功し、対空砲火の中を離脱しました。他にも14番機が名古屋を、15番機が神戸を爆撃しました。空襲を終えた15機の「B−25」は日本本土南岸の洋上を飛んで中国大陸に向かいました。この時、「B−25」は遭遇した船舶に対して機銃弾のある限り攻撃を行いました。午後3時、室戸岬沖で漁船「高島丸」が攻撃を受けて重傷1名、午後4時に足摺岬沖で漁船「第二三木丸」が2機に銃撃され、2名が死傷、午後5時15分に鹿児島県口永良部島近海で漁船「昌栄丸」が機銃掃射を受け、重傷1名が出ました。この「ドーリットル空襲」で日本側は、死者87名、重軽傷者466名、家屋262戸の被害が出ました。

最後に、海軍甲事件です。連合艦隊司令長官・山本五十六海軍大将の乗った七〇五航空隊の「一式陸上攻撃機」が、アメリカ軍機により撃墜された事件です。日本軍の暗号電報がアメリカ海軍情報局に解読され、待ち伏せを受けました。日本海軍は「い号作戦」を実行し、ソロモン諸島、ニューギニア方面の連合国艦隊に攻撃を加えました。この作戦が一応成功し、山本五十六長官自らがショートランド島方面に視察と激励に行く事になりました。4月14日早朝、前線の各基地に視察計画が暗号電報で通知されました。米軍は日本海軍の暗号電報を直ちに解読し、その情報は太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツに報告されました。ニミッツは、山本五十六長官よりも優秀な軍人が後任になるなら攻撃を手控えようと本国に連絡して伺いを立てました。その結果、本国からは「山本五十六に代わるような軍人は山口多聞だが、彼は「ミッドウェー海戦」で戦死しているので山本五十六機を撃墜して構わない」と回答、ニミッツもそれに従って山本五十六の殺害計画を進める事にしました。ニミッツは、ウィリアム・ハルゼーに「予備計画の作成の権限の授与」を山本五十六長官の行程と共に通知しました。ラバウル基地を発進した山本五十六は1号機、宇垣纏は2号機に搭乗しました。「零式艦上戦闘機」6機に護衛されてブイン基地へ移動中、ブーゲンビル島上空でアメリカ陸軍航空隊「P−38ライトニング」16機に撃墜されました。1番機に搭乗していた山本五十六長官以下11名は全員戦死、2番機に搭乗していた宇垣纏参謀長ら3名も負傷しましたが救助されました。山本五十六の死は一ヶ月以上秘匿されました。戒名は大義院殿誠忠長陵大居士。東京都府中市の多磨霊園7番特別区に埋葬されました。墓石は茨城県産出の真壁小目で建立されました。右には東郷平八郎元帥の墓、左には古賀峯一大将の墓が並び、墓石の文字は米内光政が書きました。その後、遺骨は新潟県長岡市の長興寺に改葬されていますが、山本五十六を偲ぶ廟は多摩霊園に現存しています。

今日の誕生日:真夏竜、岸田敏志、巨砲丈士、宅麻伸、小宮悦子、黒田清子(元皇族・紀宮清子)、伊藤裕子、Fayray、都築龍太、上地雄輔、星村麻衣、ジェシカ(少女時代)、くぅ〜ちゃん(チワワ)

今日の記念日:世界アマチュア無線の日、発明の日、お香の日、よい歯の日、よい刃の日、よい肌の日、毛穴の日、三重県民の日

今日の「今日訓」:本日は三重県民の日です。1876年、安濃津県と度会県が合併し、現在の三重県となりました。三重とはヤマトタケルがこの地(四日市)を訪れた際に「足が三重に曲がってとても疲れた」と言った事からこの辺りは三重郡と呼ばれるようになりました。最初は、四日市に県庁を置いたので郡名から「三重県」となりました。その翌年、県庁が安濃津(津の正式名称、省略されて津市になる)に移されますが県名は変えられなかった為、三重県の県庁は津市となりました。1925年4月18日、パリ大学で国際アマチュア無線連合(IARU)結成総会が行われた事で「世界アマチュア無線の日」、1885年4月18日、現在の「特許法」の元となる「専売特許条例」が公布された事で「発明の日」、595年4月に香木が日本に漂着したという最初の記録が「日本書紀」にある事から、4月と「香」を分解した「一十八日」にかけて「お香の日」、「よ(4)い(1)は(8)」の語呂合わせで「よい歯の日」、「よい刃の日」、「よ(4)い(1)はだ(8)」の語呂合わせで「よい肌の日」、「毛穴の日」となりました。
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