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2021年02月27日01:18

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02月27日の日記

今日の出来事:1564年−三河一向一揆:馬頭原合戦、1593年−文禄の役:碧蹄館の戦い、1871年−広沢真臣暗殺、1877年−西南戦争:高瀬の戦い、1936年−二・二六事件:戒厳令発令、1942年−第二次世界大戦:スラバヤ沖海戦

今日は、三河一向一揆:馬頭原合戦です。三河一向一揆は、戦国時代に三河国の西三河全域で1563年から1564年まで、半年ほど行われた一向一揆です。現在の安城市野寺の本證寺第十代・空誓(蓮如の孫)が中心となって真宗門徒に檄を飛ばし、領主の松平(後の徳川)家康と戦いました。中心勢力は、三河三ヶ寺と本宗寺および、桜井松平氏、大草松平氏、吉良氏、荒川氏といった反家康勢力でした。「三河一向一揆」は、「三方ヶ原の戦い」、「伊賀越え」と並び、「徳川家康の三大危機」とされています。敵からも「犬のように忠実」と半ば揶揄される形で評価された三河家臣団の半数が、門徒方に与するなど家康に宗教の恐ろしさを見せつけました。本證寺、上宮寺、勝鬘寺は、三河における本願寺教団の拠点で「三河三ヶ寺」と呼称され、松平広忠(家康の父)の代に「守護使不入の特権」を与えられていました。1562年に本證寺に侵入した無法者を西尾城主・酒井正親が捕縛したため、「守護使不入の特権」を侵害されたとして1563年正月に一揆が起こりました。また、1563年に松平氏家臣・菅沼定顕に命じて上宮寺の付近に砦を築かせ、上宮寺から兵糧とする穀物を奪った事により一揆が起こりました。不入特権を主張する「三河三ヶ寺」と、教団の利権を解体して三河国統一を目指す徳川家康との対立が深まり、「守護使不入の特権」が侵害された事に端を発して、本證寺第十代・空誓(蓮如の孫)は上宮寺や勝鬘寺と共に檄を飛ばし、門徒を招集して菅沼氏の砦を襲撃しました。真宗門徒の松平氏家臣や、吉良氏などの有力豪族や今川氏の残党なども加わり、松平氏の本城である岡崎城まで攻め上って家康を窮地に陥れました。一向一揆側についた家康の主な家臣は、本多正信(後の家康・参謀)、蜂屋貞次(徳川十六神将)、夏目吉信(「三方ヶ原戦い」で家康の身代りとして討死)、渡辺守綱(徳川十六神将・槍の半蔵)、本多正重、酒井忠尚、内藤清長、加藤教明などです。1564年2月27日の「馬頭原合戦」の勝利で徳川家康が優位に立ち、和議に持ち込んで一揆の解体に成功しました。一揆に与した武士の中には、主君への忠誠心と信仰心の板ばさみにあって苦しんでいる者もいました。その様な武士には一揆を離脱して帰参する事を望む者が多くいたため、一揆は収束に向かったのでした。またこの時、本宗寺は御坊を焼失し、勝鬘寺は伽藍を焼失していました。家康は和議を結ぶ事で一揆衆を完全に解体させた後、本願寺教団の寺院に他宗への改宗を迫り、これを拒んだ場合は破却しました。これより19年後の1583年まで、三河は真宗禁制の地となりました。しかし、家康は本願寺教団に厳格な処分を下す一方で、離反した家臣には寛大な処置で臨んだため、家中の結束を高める事に成功しました。この経験により、家康は本願寺教団の力が戦国大名にとって大きな脅威である事を身をもって理解しました。これが後世、本願寺教団の分裂に際し、教如を支持する一派(今の真宗大谷派)に土地を寄進して分裂を支持する行動に繋がりました。

次に、文禄の役:碧蹄館の戦いです。明の軍勢による「平壌陥落」、「大友吉統の逃亡」などによって一時混乱状態にあった日本勢でしたが、朝鮮半島北部各地に展開していた諸将を漢城に集めて戦力を立て直し、宇喜多秀家を総大将、小早川隆景を先鋒大将として兵力をほぼ二分して「碧蹄館の戦い」に臨みました。一方の明軍は、歩兵と火器の大部分を残し、李如松の部下である遼東の馬軍(騎兵)を基幹とした約20000の兵を先行させました。翌日に発生した偵察隊同士の戦闘で圧勝した事で、李如松は「日本軍の精鋭は平壌で壊滅し漢城には弱兵が残るのみ」との報告を信じ、日本軍の戦力を下算して全軍を集結させないまま攻撃を仕掛けました。日本軍先鋒隊は27日未明より行動を開始し、午前6時頃から礪石嶺で先陣・立花宗茂と高橋統増が明の副将・查大受が率いる明軍先鋒と激戦を開始しました。日本軍先鋒隊は、先鋒500を率いた十時連久を正面に少ない軍旗を立てる事で、明・朝鮮軍を騙してこれを側面奇襲して撃退しましたが、十時連久は突撃の際に毒矢を受けて戦死、旗奉行・池辺永晟が先鋒隊の指揮を暫任しましたが、中陣と替わる殿後の最中に戦死しました。寡兵の立花宗茂・高橋統増勢は苦戦しながらもこれを支え、小早川隆景勢の来援を得て明軍先鋒を撃退しました。この戦端が開かれた時点では日本軍本隊はまだ漢城に在りました。午前10時頃、明軍は左・右・中央の三隊の陣形で押し寄せました。日本軍は全軍を碧蹄館西面の小丸山に埋伏させました。疲労の深い立花宗茂勢を後方に下げ、替わって前面に出た小早川隆景軍の先陣二隊の内、明軍の矢面に立った粟屋景雄隊が次々と繰り出される新手を支えきれずに後退を始めると、明軍はすかさず追撃に移りました。しかし、戦機を待ってそれまで待機していた井上景貞隊がその側背に回り込んで攻撃した事で、明軍は大混乱となりました。その機を逃さず、立花宗茂、高橋統増勢が左方から、小早川秀包、毛利元康、筑紫広門勢が右方から側撃、小早川隆景の本隊と吉川広家、宇喜多秀家の家臣・戸川達安も正面より進撃し、明軍前衛を撃破して李如松が率いる本隊に迫りました。そこに明軍副総兵・楊元が火軍(火器装備部隊)を率いて援軍として駆けつけると態勢を回復して防戦に努めましたが、身動きもままならない狭隘地に三方から包囲される形となって壊走を始めました。立花宗茂の部将・安東常久と一騎討ちして李如松が落馬しましたが、李如梅の矢を受けて安東常久は戦死しました。落馬した李如松は小早川隆景の部将・井上景貞の手勢に迫られましたが、側近・李有声が盾となってこれを助け、李如梅、李如柏らが救出しました。こうして、日本軍本隊の本格的な戦闘参加を待たずに正午頃には戦いの大勢は決し、日本軍は退却する明軍を碧蹄館北方の峠・恵隠嶺まで追撃しました。さらに追おうとする立花宗茂勢を小早川隆景が押しとどめました。それ以上の深追いはせず、夕刻までに漢城に引き上げました。立花宗茂軍の金備え先鋒隊長・小野成幸や与力衆・小串成重、小野久八郎と一門の戸次鎮林も戦死しました。立花宗茂はこの激戦で騎馬まで血塗れとなり、四つの甲首を鞍の双方に付け、刀は歪んで鞘に戻せなくなったと言います。この一戦で明軍の被った損害は戦死者数6000余に上りました。この戦いの敗北によって李如松は戦意を喪失して明軍の勢いはそがれ、武力による日本軍撃退方針を諦めて講和交渉へと転換する事になります。その一方で、日本軍も明軍に漢城近郊・龍山の兵糧倉を焼き払われ、食料調達が困難な時に、兵糧面で甚大な損失を出したため長期戦が難しくなり、石田三成、小西行長らは明との講和交渉を開始します。

その次に、広沢真臣暗殺です。広沢真臣は、「維新の十傑」の1人です。長州藩士・柏村安利の四男として誕生、同藩士・波多野直忠の婿養子となり、波多野金吾と称しました。高杉晋作や伊藤博文、山県有朋ら「正義派」がクーデターによって藩の実権を掌握すると、「中間派」であった波多野金吾が政務役として藩政に参加する事となりました。藩命によって広沢藤右衛門と改名し、更に翌月には広沢兵助と改名しました。1866年の「第二次長州征伐」の講和交渉では、幕府側の勝海舟と安芸厳島にて交渉しました。坂本龍馬や薩摩藩の五代友厚と会談して「商社示談箇条書」を作成するなど、木戸考允の代理人かつ同僚として奔走しました。1867年には大久保利通らと共に「討幕の密勅」の降下に尽力しました。維新政府の発足後は、参与や海陸軍務掛、東征大総督府参謀を務め、内国事務掛や京都府御用掛、参議を歴任しました。「戊辰戦争」では、米沢藩の宮島誠一郎と会談して会津藩「帰正」の周旋を建白させるなど、木戸考允と同様に寛典論者でした。1869年、復古功臣として木戸考允や大久保利通と同じ永世禄1800石を賜り、民部大輔や参議の要職を務めました。1871年2月27日、東京府麹町富士見町の私邸で宴会後の深夜、刺客の襲撃によって暗殺されました。享年39でした。横井小楠、大村益次郎に続く維新政府要人の暗殺で、広沢真臣を厚く信頼していた明治天皇は「賊ヲ必獲ニ期セヨ」という犯人逮捕を督促する異例の詔勅が発せられました。広沢家の家令と妾に対する苛烈な捜査の結果、両者の密通や広沢家の私金流用の事実も判明しました。1875年には陪審員列席による裁判が行われましたが、両者は無罪となり釈放されました。多くの者がこの暗殺事件を迷宮入りと観念する中、木戸孝允だけは捜査を督促し続けました。小河一敏、雲井龍雄など、80数名が暗殺の容疑者として取り調べられましたが下手人の特定には至らず、真相は不明となりました。

その次の次に、西南戦争:高瀬の戦いです。2月24日、政府軍の第1旅団(野津鎭雄少将)と第2旅団(三好重臣少将)は相次いで南下しました。久留米で木葉の敗戦報告を聞いた両旅団長は南下を急ぐ一方、三池街道に一部部隊を分遣しました。歩兵第14連隊(乃木希典少佐)は石貫に進む一方で高瀬方面へ捜索を出しました。25日、歩兵第14連隊は山鹿街道と高瀬道に分かれて進撃しました。山鹿方面では第3旅団の先鋒1個中隊の増援を得て、24日に転進して来た野村忍介の5個小隊と対戦する事になりました。高瀬道を進んだ部隊は薩摩軍と戦闘をする事なく高瀬を占領しました。この時の薩摩軍の配置は、山鹿:野村忍介(5個小隊)、植木:越山休蔵(3個小隊)、池辺吉十郎(熊本隊主力)、伊倉:岩切喜次郎・児玉強之助(3個小隊)、佐々友房(熊本隊3個小隊)でした。これに対し、政府軍の征討旅団は南関に入って本営を設け、ただちに石貫に派兵し、岩崎原に増援を送りました。政府軍が高瀬川の線に陣を構築するのを見た岩切喜次郎らは高瀬川の橋梁から攻撃を仕掛け、熊本隊は渡河して迫間・岩崎原を攻撃しました。しかし、岩切喜次郎らは石貫東側台地からの瞰射に苦しみ、熊本隊は増援を得た歩兵第14連隊右翼に妨げられました。激戦対峙すること2時間、夜になって退却しました。2月26日、越山休蔵の3個小隊は政府軍の高瀬進出に対し、山部田と城の下の間に邀線を敷き、佐々友房らの熊本隊3個小隊と岩切喜次郎・児玉強之助らの3個小隊は寺田と立山の間に邀線を敷いて、高瀬前進を阻止しようとしました。池辺吉十郎の熊本隊主力は佐々友房らの部隊が苦戦中という誤報により、寺田に進みました。山鹿の野村忍介の部隊は進撃を準備していました。この時、桐野利秋・篠原国幹・村田新八・別府晋介らが率いる薩摩軍主力は大窪(熊本市北)に集結中でした。薩摩軍主力は大窪で左・中・右3翼に分かれて、高瀬及び高瀬に進撃して来る政府軍を挟撃する計画でした。右翼隊(山鹿方面):桐野利秋(3個小隊約600名)、中央隊(植木・木葉方面):篠原国幹・別府晋介(6個小隊約1200名)、左翼隊(吉次・伊倉方面):村田新八(5個小隊約1000名)でした。これに対して政府軍は、薩摩軍主力の北進を知らず、前面の薩摩軍が優勢でないとの判断で部署を定めました。第一陣、前駆:乃木希典少佐(4個中隊)、中軍:迫田大尉(2個中隊)、後軍:大迫大尉・知識大尉(2個中隊)、第二陣、予備隊:長谷川中佐(4個中隊)、山鹿方面守備隊:津下少佐(3個中隊)、応援(総予備隊):(2個中隊、1個大隊右半隊)でした。薩摩軍の右翼隊は未明に山鹿から菊池川に沿って南下し、玉名付近の政府軍左翼を攻撃しました。中央隊は田原坂を越えて、木葉で政府軍捜索隊と遭遇戦になりました。左翼隊は吉次峠・原倉と進み、ここから右縦隊は高瀬橋に、左縦隊は伊倉・大浜を経て岩崎原に進出しました。政府軍は捜索隊の報告と各地からの急報で初めて薩摩軍の大挙来襲を知り、各地に増援隊を派遣し、三好重臣旅団長が自ら迫間に進出しました。政府軍と薩摩軍の戦いは激しく、三好重臣少将が銃創を負うほどの銃砲撃戦・接戦が行われました。午前10時頃、桐野利秋が率いる右翼隊は、迂回して石貫にある政府軍の背後連絡線を攻撃しました。この時に第2旅団本営にたまたま居合わせた野津道貫(弟)大佐は旅団幹部と謀って増援を送る事と、稲荷山の確保を命じました。この山を占領した政府軍は、何度も奪取を試みる薩摩軍右翼隊を瞰射して退けました。次いで、南下してきた野津鎮雄(兄)少将の兵が右翼隊の右側面を衝くと、猛将・桐野利秋の率いる右翼隊は江田方面に退きました。稲荷山は低丘陵でしたが、この地域の要衝であったため、ここをめぐる争奪戦は「西南戦争」の天王山と言われています。右翼隊の左縦隊は政府軍を岩崎原から葛原山に退けましたが、中央隊は弾薬不足で退却しました。この機に援軍を得た政府軍中央諸隊は反撃に出ました。西郷小兵衛・浅江直之進・相良吉之助ら三小隊も敵前渡河を強行し、高瀬奪回を試みましたが政府軍の増援に押されて日没がせまったため、大浜方面へ退却しました。政府軍も疲労のため、追撃する余力がありませんでした。この方面の激戦で西郷隆盛の末弟・西郷小兵衛が戦死しました。

そのまた次に、二・二六事件:戒厳令発令です。2月26日に「二・二六事件」が発生しました。27日、午前1時すぎ、石原莞爾、満井佐吉、橋本欣五郎らは帝国ホテルに集まり、善後処置を協議しました。山本英輔内閣や蹶起部隊を戒厳司令官の隷下に入れる事で意見が一致し、村中孝次を陸相官邸から帝国ホテルに呼び寄せてこれを伝えました。午前3時、「戒厳令」の施行により九段の軍人会館に「戒厳司令部」が設立されました。東京警備司令官・香椎浩平中将が「戒厳司令官」に、また参謀本部作戦課長で早くから討伐を主張していた石原莞爾大佐が「戒厳参謀」にそれぞれ任命されました。しかし、「戒厳司令部」の命令「戒作命一号」では反乱部隊を「二十六日朝来出動セル部隊」と呼び、反乱部隊とは定義していませんでした。「皇軍相撃」を恐れる軍上層部の動きは続きましたが、天皇の怒りはますます高まり、午前8時20分に「戒厳司令官ハ三宅坂付近ヲ占拠シアル将校以下ヲ以テ速ニ現姿勢ヲ徹シ各所属部隊ノ隷下ニ復帰セシムベシ」の奉勅命令が参謀本部から上奏され、天皇は即座に裁可しました。侍従武官長・本庄繁は決起した将校の精神だけでも何とか認めてもらいたいと天皇に奏上しましたが、これに対して天皇は「朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ凶暴ノ将校等、其精神ニ於テモ何ノ恕スベキモノアリヤ」と一蹴しました。奉勅命令は翌朝5時に下達される事になっていましたが、天皇はこの後、何度も鎮定の動きを本庄繁に問いただしました。本庄繁はこの日だけで13回も拝謁する事になりました。午後0時45分に拝謁に訪れた陸相・川島義之に対して天皇は、「朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ、真綿ニテ朕ガ首ヲ締ムルニ等シキ行為ナリ」、「朕自ラ近衛師団ヲ率ヰテ、此レガ鎮定ニ当タラン」と強い意志を表明し、暴徒徹底鎮圧の指示を繰り返しました。午後1時過ぎ、憲兵によって首相・岡田啓介が官邸から救出されました。奉勅命令はまだ叛乱部隊に伝わっていませんでしたが、「皇軍相撃」を恐れる陸軍首脳や反乱部隊の将校らも駆け引きを活発化させました。午後2時、陸相官邸で真崎甚三郎・西義一・阿部信行ら3人の軍事参議官が反乱軍将校と会談を行いました。この直前、反乱部隊に北一輝から「人無シ。勇将真崎有リ。国家正義軍ノ為ニ号令シ正義軍速カニ一任セヨ」という「霊告」があった旨の連絡があり、反乱部隊は事態収拾を真崎甚三郎に一任するつもりでした。真崎甚三郎は誠心誠意、真情を吐露して青年将校らの間違いを説いて聞かせ、原隊復帰をすすめました。相談後、野中四郎大尉が「よくわかりました。早速それぞれ原隊へ復帰いたします。」と言いました。午後4時25分、反乱部隊は首相官邸、農相官邸、文相官邸、鉄相官邸、山王ホテル、赤坂の料亭「幸楽」を宿所にするよう命令が下りました。午後7時、戒厳部隊の麹町地区警備隊として、小藤歩一の指揮下に入れとの命令(戒作命第7号)がありました。夜、石原莞爾が磯部浅一、村中孝次を呼んで、「真崎甚三郎の言うことを聞くな、我々が昭和維新をしてやる。」と言いました。そして、反乱部隊に「奉勅命令」の情報が伝わります。

最後に、第二次世界大戦:スラバヤ沖海戦です。スラバヤ沖海戦は、「太平洋戦争」中の1942年2月27日〜3月1日にかけて、インドネシア・スラバヤ沖で日本軍のジャワ島攻略部隊を連合国軍が迎撃した海戦です。日本海軍が連合軍の艦隊を撃破し、これにより日本軍のジャワ島上陸・占領が進む事となりました。「太平洋戦争」の勃発と共に、日本海軍は「マレー沖海戦」で英国東洋艦隊の主力戦艦2隻(戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」、巡洋戦艦「レパルス」)を撃沈し、東南アジア方面の最大の脅威を排除しました。日本軍は、資源地帯であるオランダ領インドネシア占領を目標としていました。1942年2月になると、その中心地であるジャワ島占領を目的として行動を開始しました。連合国軍は日本軍の進撃を阻止するため、ABDA司令部を設置し、ジャワやオーストラリアの防衛のため艦隊を再編しました。トーマス・C・ハート(米海軍大将・アジア艦隊司令長官)はカレル・ドールマン少将を司令長官とするABDA艦隊を編成しました。2月27日11時50分、バリクパパン基地所属の日本軍偵察機が連合軍艦隊を発見しました。水上機母艦「ラングレイ」が、「一式陸上攻撃機」の爆撃で大破、駆逐艦「ホイップル」 、「エドサル」によって自沈処理されました。16時59分、第二水雷戦隊(田中頼三少将)旗艦・軽巡「神通」が「敵艦隊発見」を報じました。海戦はスラバヤ北西約48kmの海域ではじまりました。「羽黒」が放った魚雷がオランダ駆逐艦「コルテノール」に命中しました。竜骨を折られた「コルテノール」はV字型に折れて轟沈しました。混成艦隊は日本の潜水艦が近くに居るものと錯覚し、隊列を乱して遁走を始めました。この混乱を見たドールマン少将は一旦戦場を離脱し、体勢を立て直す事を決断、艦隊の針路を南東へ向けて戦域離脱を図りました。高木武雄少将は、直ちに全軍突撃を命じました。突撃を開始した直後、「羽黒」の主砲弾が重巡「エクゼター」に命中、魚雷が駆逐艦「コルテノール」に命中、爆沈しました。ドールマン少将は被弾して速力の低下したイギリス重巡「エクセター」の避退を援護するため、イギリス駆逐艦「エレクトラ」、「エンカウンター」、「ジュピター」に対して阻止攻撃を下令しました。この時「エレクトラ」は「エクセター」を守ろうと「エクセター」の日本艦隊側に進出しました。「エレクトラ」は煙幕を抜けたところで「神通」以下から集中砲撃を受けました。「エレクトラ」は缶室に被弾して航行不能となりましたが、反撃の一弾が「朝雲」の機械室に命中、「朝雲」は航行不能に陥りました。「エレクトラ」の艦長C・W・メイ中佐は総員退去を命じ、自身は19時54分に艦と運命を共にしました。戦場を離脱したABDA艦隊は再編成後、再び攻撃のために北上を開始しました。「那智」、「羽黒」を発見すると即攻撃を開始しました。しかし、魚雷は届かずに沈んでしまいました。ドールマン少将は日本艦隊が追いかけて来なかった事から、日本艦隊は船団護衛のため一旦後退したものと考えて、敵船団攻撃のため反転して進撃を始めました。22時55分、最後尾の英駆逐艦「ジュピター」が突如大爆発を起こして炎上し「われ雷撃を受く」を報告、4時間後に沈没しました。日本潜水艦からの雷撃と判断したドールマン少将は、急いで海域を離れるべく艦隊を北上させました。しばらく北上すると、昼戦時に撃沈された「コルテノール」の生存者が多数漂流していたため、艦隊に唯一残っていた駆逐艦「エンカウンター」が救助、スラバヤへ後送するため艦隊を離れました。こうして連合軍艦隊は軽巡3、重巡1の巡洋艦戦隊だけとなりました。しかし、ドールマン少将は日本船団に対する攻撃を諦めず、ひたすら日本船団がいると思われる海域へ北上しました。28日0時33分、両軍は会敵しました。連合軍艦隊に最も近かったのは第五戦隊でした。0時52分、「羽黒」が4本、「那智」が8本の魚雷をそれぞれ順次発射しました。この発射に連合軍艦隊は気づかず進路を変えませんでした。1時06分、「デ・ロイテル」後部に魚雷1本が命中して火薬庫に引火・炎上、後続の「パース」と「ヒューストン」は炎上する旗艦と魚雷を回避しましたが、1時10分に最後尾の「ジャワ」艦尾に魚雷が命中、急速に沈没しました。「ヒューストン及びパースは我が生存者に構わずバタビアに撤退せよ」これがドールマン少将の最期の命令となりました。通信が終わった直後、「デ・ロイテル」は沈没しました。ドールマン少将以下ほとんどの乗員が脱出できず、救出された生存者は「デ・ロイテル」が17名、轟沈した「ジャワ」は2名のみでした。命令を受けた「パース」とウォーラー艦長は「ヒューストン」を従えて反転すると最大戦速で海域を離脱し、バタビアへ避退して無事に入港し、ヘルフリッヒ司令官にドールマン提督の戦死を伝えました。

今日の誕生日:コンスタンティヌス1世、長谷川一夫、エリザベス・テーラー、夏木陽介、大楠道代、榊原まさとし(ダ・カーポ)、グッチ裕三(元ビジーフォー)、新沼謙治、中村うさぎ、ナンシー・スパンゲン(元セックス・ピストルズ)、徳永英明、富田靖子、室井佑月、マーク・パンサー(globe)、ケント・デザーモ、藤田伸二、清水宏保、万城目学、平田弥里、向清太朗(天津)、佐藤隆太、安倍麻美、蓮佛美沙子、瑞季(元私立恵比寿中学)、ヒルマン・ニナ(Niziu)、ヒシアケボノ、ハルウララ

今日の記念日:絆の日、冬の恋人の日、Pokemon Day

今日の「教訓」:本日は、2月14日の「バレンタインデー」と3月14日の「ホワイトデー」の間に、恋人同士の絆を深める日を設けようと制定された「絆の日」です。絆の「ずな」→「づな」→「ツー・ナナ」→「27」の語呂合わせから、2月27日が選ばれました。「2人の強い結びつきをを表す絆(きず(2)な(7))」で「冬の恋人の日」、1996年に「ポケモン」の最初のゲームソフト「ポケットモンスター 赤・緑」が発売された事で「Pokemon Day」となりました。
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