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2020年09月29日00:12

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9月29日の日記

今日の出来事:1364年−百年戦争:オーレの戦い、ブルターニュ継承戦争が終結、1600年−関ヶ原の戦い:木曽川・合渡川の戦い、1863年−本圀寺事件、1868年−北越戊辰戦争:赤谷の戦い、1911年−伊土戦争勃発、1989年−横綱・千代の富士に国民栄誉賞を授与

今日は、百年戦争:オーレの戦いです。オーレの戦いは百年戦争の一部、「ブルターニュ継承戦争」を終結させた戦闘です。1360年、「ブレティニィ・カレー条約」によりイングランド、フランスが停戦した後、ブルターニュでも和平交渉が行われていましたが、1364年に決裂し戦争が再開されました。ジャン4世は、イングランドのジョン・チャンドスの支援を受けて、1342年以来フランス・ブロワ側の支配下にあるオーレの町を攻撃し、町中にある城塞を包囲しました。城側は十分な食料が無かったため、ミカエルマス(9月29日)までに援軍が来なければ開城する事に同意しました。しかし、9月27日にシャルル・ド・ブロワとフランス軍を率いるベルトラン・デュ・ゲクランの援軍がオーレに到着し、28日に城の前を流れる川の左岸に展開しました。これに対し、モンフォール軍は城兵とブロワの援軍に挟撃される事を恐れ、オーレから離れて川の右岸に布陣しました。29日に交渉は決裂、ブロワ軍は川を渡って南面して布陣し、それに呼応したモンフォール軍は北面して布陣しました。ブロワ・フランス軍は、左にオーセル伯、右にゲクラン、中央にシャルル・ド・ブロワで、各部隊は約1000人でした。モンフォール・イングランド軍は、右にオリビエ・ド・クリソン、左にイングランドのロバート・ノールズ、中央にジャン4世とジョン・チャンドスで、ヒュー・カルヴェリーの元にかなりの予備隊が存在しました。フランス側のクロスボウとイングランド側の弓兵との小競り合いから始まり、まもなく重武装兵の正面からの激戦に突入しました。両陣営とも長期にわたる戦争の決着を意図し、捕虜を取るなと命令されていました。モンフォール軍は各隊が被害を受けましたが、予備隊からの補充により持ちこたえました。一方、ブロワ軍の右翼も被害を出しましたが補充が無いため崩れると中央に流れ込み、次いで左翼も崩れてオーセル伯が捕らえられました。中央の部隊は戦場からの逃走を図りましたが、シャルル・ド・ブロワは命令を忠実に守ったイングランド兵に殺されました。ゲクランは全ての武器が尽きるまで奮戦しましたが、ジョン・チャンドスに降服しました。この戦いの結果、「ゲランド条約」が結ばれ、「ブルターニュ継承戦争」は終結しました。1365年にフランス王シャルル5世はジャン4世を正式にブルターニュ公として承認しました。

次に、関ヶ原の戦い:木曽川・合渡川の戦いです。福島正則・池田輝政を中心とする東軍と織田秀信を中心とする西軍の戦いです。東軍は福島正則を大将とした一軍が木曽川の下流にある尾越から、池田輝政を大将にした一軍が上流の河田からそれぞれ渡河を開始しました。木曽川を越えると美濃国で、西軍の岐阜城主・織田秀信の領地でした。
米野の戦い:池田輝政、浅野幸長、山内一豊が率いる東軍1万8千人は、美濃国羽栗郡河田島村まで進軍し、木曽川を目前としていました。これに対し、岐阜城主・織田秀信は、百々綱家、飯沼長資らを美濃国羽栗郡米野村に配置しました。織田秀信の作戦は、米野村で撃破し、さらに中屋村、新加納村、川手村で残党を撃破するものでした。西軍は総勢9千人でした。池田輝政が率いる東軍は河田の渡しから木曽川渡河を決行、西軍は鉄砲隊を中心に撃破を試みましたが、東軍は木曽川の中洲の小屋場島まで進軍し、陣を張りました。そして対岸の米野村に進軍を開始しました。両軍は米野村で激突しました。米野村には西軍3千人が布陣していました。東軍1万8千人との戦力差は歴然でした。夕方には戦いは終わり、飯沼長資は戦死、百々綱家ら残存兵は岐阜城へ後退しました。
竹ヶ鼻城の戦い:福島正則・細川忠興・京極高知・黒田長政・加藤嘉明・藤堂高虎・田中吉政・井伊直政・本多忠勝ら16000の兵は下流の尾越の渡しに到着しました。対岸に竹ヶ鼻城主・杉浦重勝が織田秀信からの援軍、梶川三十郎・花村半左衛門や石田三成からの援軍、毛利広盛らと柵を作って布陣していました。鉄砲を撃ちかけてくるうえに、砂地のため馬で渡河するのは困難でした。そこで福島正則らは、さらに下流の加賀野井から船や筏で渡河しました。杉浦重勝らは竹ヶ鼻城に退却し、本丸を杉浦重勝、二の丸を毛利広盛が守備しました。渡河した東軍は、竹ヶ鼻城を攻撃しました。福島正則と旧知の間柄だった二の丸の毛利広盛は、降伏勧告を受けて降伏しました。孤立した杉浦重勝は城に火を掛け自刃しました。福島正則と池田輝政は合流し、岐阜城攻略に向かいます。

その次に、本圀寺事件です。幕末の鳥取藩は、第12代藩主・徳川慶徳が江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜の兄であったため、佐幕・尊王という微妙な立場をとりました。藩内でも尊王派と佐幕派の対立が激しく展開されました。1863年9月25日、長州藩が朝廷に働きかけて攘夷決行の行動を進めました。天皇による攘夷親征の実行「大和行幸」が決定しました。これに対して、公武合体派の公家や会津藩、薩摩藩などは密かに「大和行幸」阻止の行動を開始しました。28日に京都御所の門に、鳥取藩主・徳川慶徳が幕府と通じて「大和行幸」を阻止しようとしていると張り紙がされました。これに激怒した鳥取藩の尊王派藩士達は、側用人・黒部権之助、小姓頭・高津省己、小姓頭・早川卓之丞、学校奉行・加藤十次郎が関与していると見て暗殺を計画しました。29日の夜、22人の藩士達は本圀寺内のそれぞれの宿所を襲撃しました。中堂寺へは河田佐久馬(景与)、河田精之丞、加須屋武文、佐善元立、永見和十郎、塩川孝次、渋谷平藏が向かい、黒部権之介を殺害しました。本実院へは早川卓之丞、高澤省己、加藤十次郎へは伊吹市太郎、奥田萬治郎、加藤助之進、吉岡平之進、吉田直人、山口謙之進、新貞老、清水乙之丞、足立正声、太田権右衛門、大西清太、中井範五郎、中野治平、詫間樊六、渋谷金藏が向かい、早川卓之丞、高澤省己を殺害しました。加藤十次郎は不在でしたが、翌日に切腹しました。22人の藩士達は、知恩院内の良正院に謹慎して処分を待ちました。翌早朝、「八月十八日の政変」が始まりました。新貞老は逃走、奥田萬次郎は切腹しました。残りの20人が「因幡二十士」と呼ばれる事になります。「因幡二十士」は、謹慎処分となりました。「池田屋事件」の時、河田佐久馬は藩邸を抜け出して参加していましたが、会合時間を外れて到着したため逃れました。鳥取藩の儒者で目付役・堀庄次郎は「第一次長州征伐」の際、鳥取藩の長州出兵の支持者と誤解されて、1864年10月5日に沖剛介、増井熊太に暗殺されました。亨年35でした。沖剛介と増井熊太は、10月11日切腹を命じられました。「因幡二十士」は黒坂、鳥取と幽閉先が変わりましたが、「第二次長州征伐」が始まると抜け出して長州を目指しました。「因幡二十士」脱走の話が伝わると、殺された4人の遺族18人(早川家:二宮牛之助、二宮杢之助、早川久之助、幸田寅之助、早川俊蔵、高沢家:高沢作太郎、杉田甚左衛門、杉田肇、黒部家:黒部勝次郎、臼田慶之助、臼田八百人、岩越左次馬、岩越述人、岩越清之進、本部泰、野崎品蔵、加藤家:加藤伊之助、加藤伊保松)が仇討ちのために集結して後を追いました。松江藩領に入った「因幡二十士」は、松江藩士に咎められて人質として5人(詫間樊六、吉田直人、中野治平、太田権右衛門と中原吉兵衛の息子・中原忠兵衛)を残して出立しました。1866年9月11日、追い駆けて来た18名が手結の浜に到着し、仇討ちが始まりました。そして、5人を討ち取って見事に本懐を遂げました。生き残った「因幡二十士」の残党は、長州藩に向かいました。河田佐久馬(景与)は、東山道先鋒総督参謀として「戊辰戦争」を戦い、「廃藩置県」後に最初の鳥取県権令となりました。中井範五郎は「箱根戊辰戦争」に軍監として従軍し、小田原で惨殺されました。

その次の次に、北越戊辰戦争:赤谷の戦いです。会津藩軍は、新発田から津川へ向かいました。会津藩飛地領赤谷で境川で新政府軍と対峙しました。9月29日の早朝、新政府軍(新発田藩、加賀藩、薩摩藩、長州藩、広島藩)1600人と会津藩軍220人との遭遇戦となりました。「会津遊撃隊」隊長・三宅小左衛門は壮絶な戦死を遂げ、小隊頭・赤埴平八も戦死しました。会津軍は、新谷へ退却しました。

そのまた次に、伊土戦争勃発です。イタリア王国とオスマン帝国の間で戦われた戦争です。「露土戦争」終結後に「ベルリン会議」が開催され、バルカン諸国のオスマン帝国からの解放が決定されました。フランス共和国はイギリス帝国のキプロス占領を認める代わりに、モロッコ地方とチュニジア占領を認めさせました。これについてチュニジアに権益を持っていたイタリアが反対すると、フランスは「代わりに隣のトリポリタニアを占領すればよい」と誘いをかけました。ジョヴァンニ・ジョリッティ首相によって遠征は検討されました。左翼・右翼双方を取りまとめていたジョリッティは非戦主義のイタリア社会党を懐柔して、国内の反対派を押さえ込みました。この時に植民地戦争反対を唱えた人物の一人が後のファシスト政権の独裁者ベニト・ムッソリーニでした。イタリア王国はトリポリタニア割譲を求める最後通牒をオスマン帝国の「統一と進歩委員会」政府に対して提示しました。オスマン帝国はイタリア王国に対してトリポリタニアの形式的宗主権を認めてくれれば、実効支配を委ねてもよいと返答しました。イタリア王国はこれを満足できる回答ではないとして宣戦布告しました。イタリア王立海軍はトリポリ港に対する攻撃を開始しました。この時に先遣隊として揚陸された海兵部隊は駐屯していたオスマン軍を撃退してトリポリを占領しました。イタリア王国軍は2万名の第一次遠征軍をトリポリタニア・キレナイカの主要拠点に揚陸させました。戦闘でトリポリ・トブルク・デルナ・ベンガジなど両地域の沿岸部を占領しました。イタリア陸軍は先進的な装備で敵を圧倒しましたが、その中には空軍だけでなく装甲車も含められていました。イタリア陸軍航空隊は、オスマン軍部隊に爆弾を投下しました。これは世界で最初の「空軍による地上攻撃」となりました。イタリア王国軍は、オスマン帝国本国に対する攻撃を敢行しました。イタリア海軍のジュゼッペ・ガリバルディ級装甲巡洋艦「フランチェスコ・フェルッキオ」、「ジュゼッペ・ガリバルディ」がオスマン帝国本土のベイルート港に突入、応戦したオスマン海軍の装甲艦「アヴニッラー」と水雷艇「アンカラ」を撃沈する一方的な勝利を収めました(ベイルート海戦)。オスマン海軍を殲滅した後、損害のなかったイタリア海軍はベイルート市街地を砲撃で徹底的に破壊して帰還しました。この敗戦はオスマン海軍の弱体さを示すと共に、東地中海の制海権が完全に失われた事を示しました。イタリア王国軍はエリトリア駐屯軍を増強して、東西からオスマンの北アフリカ領を圧迫する事ができるようになりました。またイタリア海軍はエーゲ海にまで足を伸ばしてドデカネス諸島とロドス島を占領し、首都イスタンブールを砲撃するなど本土周辺を自国近海のように行動しました。これらは単にオスマン帝国海軍に精神的な屈辱を与えるだけでなく、状況を見ていたバルカン諸国に強い衝撃を与えました。イタリア海軍が東地中海を席巻する事は、バルカン方面のオスマン軍が非常に不利な状態になる事を意味しました。そして、ブルガリア、セルビア、ギリシャは「バルカン同盟」を結成、イタリア海軍によって孤立させられていたバルカン半島のオスマン軍を攻撃します(第一次バルカン戦争)。

最後に、横綱・千代の富士に国民栄誉賞を授与です。史上2位の記録である通算31回の幕内最高優勝を果たしたほか、共に歴代2位の通算勝利数(1045勝)と幕内勝利数(807勝)、53連勝(取り直し制度導入後歴代3位)など、数々の栄光を手にした史上有数・昭和最後の「大横綱」です。小兵ながら速攻と上手投げを得意にして一時代を築きました。現在は年寄「九重」として日本相撲協会理事・事業部長に在籍し、九重部屋の親方でもあります。1981年1月場所、関脇での優勝決定戦では北の湖を右からの上手出し投げで下し、14勝1敗で幕内初優勝を果たしました。場所後に千代の富士の大関昇進が決定しました。千秋楽の大相撲中継視聴率は52.2%、千代の富士の優勝が決まった瞬間の最高視聴率は65.3%に達し、現在でも大相撲中継の最高記録となっています。次の3月場所、5月場所と連続して千秋楽まで優勝争いに残り、横綱昇進が懸かった7月場所に2度目の優勝(14勝1敗)を果たして横綱に推挙されました。横綱土俵入りは九重と同じ雲龍型を選択しました。「2代目・千代の山」の襲名を打診されましたが、これを「横綱2人分(千代の山+北の富士=「千代の富士」)で今の四股名のほうが強そうだから」と固辞しました。新横綱となった9月場所の2日目、ライバルと言われた隆の里との取組で場所前から痛めていた足を負傷し、新横綱が途中休場となりました(新横綱の休場は昭和以降では武藏山・吉葉山に次いで3人目)。新横綱誕生の期待が一転して失望に変わり、11月場所は進退が懸かるなどと言われました。しかし、11月場所で朝潮との優勝決定戦を制して横綱としての初優勝を飾る事で復活を見せました。この1981年は、同一年中に関脇・大関・横綱の3つの地位で優勝するという史上初の記録を達成しました。関脇から横綱へ一気に駆け上がるとともに新横綱での挫折、翌場所の復活優勝と、千代の富士にとって激動の1年となりました。「ウルフフィーバー」と言われ、若い女性や子供まで知名度が高まり、一種のアイドル的な人気を得ました。この後は、史上3人目となる年間80勝を達成、3年ぶり2度目の年間最多勝、1986年5月場所から1987年1月場所までの5連覇達成、1988年5月場所7日目から11月場所14日目まで53連勝を記録するなど、他を寄せ付けない強さで1980年代後半から平成初期にかけての「千代の富士時代」を築き上げました。53連勝で止まった1988年11月場所千秋楽(対大乃国)が奇しくも昭和最後の取組となりました。53連勝は、双葉山(69連勝)、白鵬(63連勝)に次いで歴代3位です。1989年6月には、誕生したばかりの女児をSIDS(乳幼児突然死症候群)で亡くす不幸に見舞われました。千代の富士の家族や自身も精神的なショックが大きく、相撲は取れないのではないかと思われましたが、直後の7月場所は首に数珠を掛けて場所入りし、12勝ながらも千秋楽の優勝決定戦で北勝海を下して奇跡の優勝を果たしました。9月場所には通算勝ち星の新記録を達成し、9月28日に大相撲で初となる「国民栄誉賞」の受賞が決定しました。この日は先代九重(千代の山)の13回忌が行なわれた日で、千代の富士は「苦労をかけた師匠に良い報告ができます」と言いました。協会は一代年寄「千代の富士 貢」を満場一致で承認しましたが、本人は断わりました。そして9月29日に「国民栄誉賞」が授与されました。

今日の誕生日: ホレーショ・ネルソン、真田幸貫、今谷明、林隆三、レツゴー長作(レツゴー三匹)、鳴戸親方(第59代横綱・隆の里)、松沼博久、ウォーレン・クロマティ、蓮池薫、毛利公子(元シュガー)、山下容莉枝、INORAN(LUNA SEA)、森昭一郎、ビビる大木(元ビビる)、2代目林家木久蔵、アンドリー・シェフチェンコ、久保田和靖(とろサーモン)、榎本加奈子、長野せりな(元アイドリング!!!13号)、岸優太(King&Prince)、りゅうちぇる、小野瑞歩(つばきファクトリー)、チェ・イェナ(IZ*ONE)

今日の記念日:ミカエルマス、クリーニングの日、招き猫の日、洋菓子の日、接着の日

今日の「今日訓」:本日は、ミカエルマス「大天使ミカエル、ガブリエル、ラファエル」の聖名祝日です。「ク(9)リーニ(2)ング(9)」で「クリーニングの日」、「929(来る福)」で「招き猫の日」、菓子職人の守護聖人・大天使ミカエルの聖名祝日(ミカエルマス)である事から「洋菓子の日」、「く(9)っつ(2)く(9)」の語呂合わせで「接着の日」となりました。
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