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2020年09月28日00:18

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9月28日の日記

今日の出来事:1863年−教法寺事件、1868年−戊辰戦争:喜連川騒動「二階堂事件」、1898年−戊戌の政変、1902年−足尾台風、小田原で小田原大海嘯が発生、1921年−安田財閥総帥・安田善次郎が大磯の別邸で右翼浪人に暗殺される、1977年−ダッカ日航機ハイジャック事件

今日は、教法寺事件です。教法寺事件は1863年9月28日、下関の教法寺で長州藩の「奇兵隊」と「撰鋒隊」が衝突し、撰鋒隊士が斬殺された事件です。高杉晋作により、身分を問わずに農民や町人を主体とした「奇兵隊」が結成されると、藩士から成る藩の正規部隊である「撰鋒隊」との間に軋轢を生じました。両隊とも下関に駐屯していましたが、撰鋒隊士は「奇兵隊」を「百姓兵」、「烏合の衆」などと罵り、奇兵隊士は「下関戦争」の際に敗退した「撰鋒隊」を「腰抜け侍」と罵ったりするなど、両隊の感情的な対立が深刻化していました。「奇兵隊」は前田砲台、「撰鋒隊」は壇ノ浦砲台を担当しており、毛利定広が両砲台を視察する事となりました。最初に「奇兵隊」が銃隊の訓練・剣術試合などを披露し、続いて「撰鋒隊」が披露する事となっていましたが、時間が押して日没が近づいたため「撰鋒隊」の披露は中止されてしまいました。撰鋒隊士は視察を仕切っていた奇兵隊士・宮城彦輔の陰謀であるとしてこれを恨み、宮城彦輔や「奇兵隊」を激しく罵倒し、宮城を襲う勢いを示しました。これを知った宮城彦輔ら激昂した奇兵隊士は、「撰鋒隊」の屯所である教法寺に押し寄せました。これに驚いた撰鋒隊士の多くは逃走しましたが、病臥中であった隊士・蔵田幾之進が奇兵隊士により斬殺されました。それを知った「撰鋒隊」はその報復に、奇兵隊用人の奈良屋源兵衛を殺害しました。藩は騒動の原因となった宮城彦輔に切腹を命じ、宮城は10月9日、教法寺で切腹しました。高杉晋作は切腹を免れましたが事件の責任を問われ、結成からわずか3ヶ月程で奇兵隊総督を罷免されました。河上弥市と滝弥太郎の二人がその後任となり、「奇兵隊」の本拠は小郡に移動させられました。

次に、戊辰戦争:喜連川騒動「二階堂事件」です。1867年、二階堂主殿輔貞明・貞則父子は隠居に追い込まれ、古河衆・大草仲が代わって家老職に就任しました。1868年、二階堂父子が藩主・喜連川縄氏が会津藩と内通しているとして、密かに横山将監を新政府軍の陣所へ遣わして訴え出ました。新政府軍の因幡鳥取藩隊長・高塩又四郎は、元は喜連川藩の出で学問を志して上方へ赴いた際に因幡鳥取藩の人数に加わって下向していました。高塩又四郎は疑問を抱いて喜連川藩を調査するため、新政府軍の佐賀藩士・中島彦九郎を同道して喜連川御所を訪れました。そして、殿中に重役一同を集め、二階堂父子の訴状を示して問い糺したところ、二階堂父子の讒訴が発覚しました。二階堂父子の他、この企てに加わった者は9月28日に処刑されました。計画を主導した二階堂主殿助貞明は梟首、二階堂貞則、二階堂邦之助、小貫貫作、横山将監、松島村源五郎が死罪となりました。

その次に、戊戌の政変です。「戊戌の政変」は、清で西太后が、栄禄、袁世凱らとともに武力をもって「戊戌の変法」を挫折させた「反変法」のクーデターです。「戊戌の変法」は、1898年6月11日より光緒帝の支持の下、康有為・梁啓超らによって推し進められた政治改革です。孤立した状況の中で「変法派」は軍事力によって西太后や満州貴族を捕らえ、実権を握った上で改革を断行する案を作成しました。しかし、「変法派」は独自の兵力を持っていませんでした。そこで、新建陸軍の指揮官であり、変法にも早くから理解を示していた袁世凱にこの役割を担ってもらう事にしました。9月18日、譚嗣同が袁世凱の私邸で説得を行い、袁世凱は了承したよう見せました。9月20日、袁世凱は西太后の側近・栄禄に報告しました。西太后は翌日から変法派官僚の大粛清を行いました。康有為、梁啓超らはいち早く逃亡して、日本に亡命しました。しかし、光緒帝は幽閉され、譚嗣同、林旭、楊鋭、劉光第、楊深秀、康広仁ら6人の官僚は9月28日に北京城内の菜市口で処刑されました。譚嗣同は逃亡の勧めを断り、「改革の礎になる」と自ら捕らわれて処刑されました。処刑された変法派6人は「戊戌六君子」と呼ばれています。

その次の次に、足尾台風、小田原大海嘯発生です。足尾台風は千葉県から新潟県、北海道北部を通過し、関東地方から東北地方南部にかけて被害をもたらしました。足尾台風は暴風域などの規模が小さい豆台風でしたが、中心気圧は低く、特に猛烈な風による風害と高潮による水害が著しく、豪雨による洪水も発生しました。栃木県:死者・行方不明者219名、家屋の全壊・流失約8200戸、足尾で315ミリの雨量を記録しました。渡良瀬川が洪水となり、足尾での被害が大きかった事でこの台風の名称となりました。また、日光中宮祠では土石流が発生しました。中禅寺湖に流れ込んだ土砂が3mの高波を起こし、旅館などで被害者を出しました。この波は華厳滝を越えて大谷川に流れ込み、神橋、大谷橋が流失し、含満ヶ淵の「並び地蔵」も流失しました。裏見の滝はこの台風がもとで姿を変えました。茨城県:死者・行方不明者118名、家屋の全壊・流出20164戸を記録しました。神奈川県:「小田原大海嘯」が発生しました。満潮時を迎えた時、海岸より大波が約2時間にわたり堤防を越え、海水が市街地に侵入してきました。波高は小田原、早川付近で約6メートルありました。被災地は当時の小田原町を中心に大磯町から土肥村(現・湯河原町)にかけての神奈川県西部沿岸地域にわたりました。小田原町では死者11人、負傷者184人、家屋の被害(当時の総戸数3497戸中)は流失293戸、全壊144戸、半壊69戸、床上浸水300戸、床下浸水700戸を記録しました。また、国府津にあった大鳥圭介の別荘が崩壊しました。これにより、延長約2150メートルの海岸防波堤が作られる事になりました。

そのまた次に、安田善次郎暗殺です。安田善次郎は安田財閥の祖です。やがて安田銀行(後の富士銀行、現・みずほフィナンシャルグループ)を設立しました。その後、損保会社(現在の損害保険ジャパン)、生保会社(現在の明治安田生命保険)、東京建物等を次々と設立しました。安田善次郎は富山藩の下級武士(足軽)善悦の子として生まれました。安田家は善悦が士分の株を買った半農半士でした。奉公人として江戸に出た安田善次郎は、最初に玩具屋、次に鰹節兼両替商に勤めました。1864年、江戸日本橋乗物町(現在の東京都中央区堀留)に露天の乾物商兼両替商・安田屋を開業しました。2年後の1866年、日本橋小舟町に移り安田商店と改称しました。発足したばかりでまだ信用力のない明治新政府の不換紙幣や公債を率先して引き受け、その流通に積極的に協力しました。この強固な資本を基盤に1876年、川崎八右衛門と共に日本橋小舟町に第三国立銀行を開業しました。1880年には、本体の安田商店を合本安田銀行に改組しました。こうして資本金20万円、従業員31人、店鋪数3をもって銀行としての歴史が始まりました。明治の日本にあって、安田銀行は鉄道・築港などの大規模公共事業に資金を提供し、政府や自治体からの信頼を厚くしました。また、北海道で最初の私鉄である釧路鉄道(本社 安田銀行本店)を敷設し硫黄鉱山開発、硫黄の輸送や加工のための蒸気機関の燃料調達を目的に釧路炭田(後の太平洋興発の前身を設立)を開発しました。北米への硫黄輸出のためにそれまで小さな漁港に過ぎなかった釧路港を特別輸出港に指定させました。現在のみずほ銀行釧路支店の礎となる根室銀行を設立し、魚場集落だった釧路は道東最大の都市へと急激に発展しました。安田財閥(金融財閥)の基礎は釧路の硫黄鉱産経営と輸出で築かれたといわれています。同郷だった浅野総一郎(浅野セメント、後の日本セメント、現在の太平洋セメント)の事業を支援しました(現在の鶴見線である鶴見臨港鉄道の安善駅は、安田善次郎の名前に因みます)。また、日本電気鉄道や、帝国ホテルの設立発起人、東京電燈会社や南満州鉄道への参画、日銀の監事など、この時代の国家運営にも深く関わりました。1921年、神奈川県大磯町字北浜496にある別邸・寿楽庵に、弁護士・風間力衛を名乗る男が現れ、労働ホテル建設について談合したいと申し入れましたが、面会を断られました。この風間力衛は実在の人物ですが、神州義団団長を名乗る朝日平吾が勝手に詐称し、風間本人は事件と何の関係もありませんでした。門前で4時間ほどねばったところ、面会が許されました。午前9時20分ごろ、自宅応接間で朝日平吾に刺殺されました。朝日平吾はその場で、所持していた剃刀で首を切り自殺しました。約1か月後に起きた「原敬暗殺事件」は、この事件に刺激を受けたものでした。東京大学の安田講堂や、日比谷公会堂、千代田区立麹町中学校校地は安田善次郎の寄贈によるものでしたが、「名声を得るために寄付をするのではなく、陰徳でなくてはならない」として匿名で寄付を行っていたため、生前はこれらの寄付行為は世間に知られていませんでした。「五十、六十は鼻たれ小僧 男盛りは八、九十」は彼の言葉です。その後、安田銀行は安田家と決別する意味で終戦後の財閥解体とともにその名を変え、1948年に富士銀行と改称しました。「富士」という新商号は、日本最高峰である富士山にちなんでおり、京浜地区の行員によるアンケートの結果選ばれたものです。1997年、山一證券が自主廃業、親密だった富士は「山一を支援するだけの余力がなかった」と市場からみなされ、株価が暴落する事態になりました。1860円だった富士銀行株は、252円まで値下がりしました。国内50拠点を統廃合、海外拠点をほぼ半減し、行員1700名のリストラを余儀なくされました。金融早期健全化法に基づく公的資金注入は、都銀の中でも最大規模の1兆円に達しました。1999年には系列の安田信託銀行(現・みずほ信託銀行)が経営危機に陥り、第三者割当増資を引き受けて救済子会社化しますが、もはや富士独力での再建は不可能でした。そこで第一勧業銀行と連携する事になりました。2行の傘下にあった富士信託銀行と第一勧業信託銀行を合併し、第一勧業富士信託銀行とした上で、安田信託の中でも比較的高収益だった法人・年金部門を分割譲渡しました。こうした経緯から第一勧銀との関係が生まれ、みずほフィナンシャルグループが発足しました。2002年4月1日に、株式会社第一勧業銀行(現・株式会社みずほ銀行)に「カスタマー・コンシューマー銀行業務に関する諸営業」を承継させ、同行から「コーポレート銀行業務に関する諸営業」を承継し、さらに日本興業銀行を合併して株式会社みずほコーポレート銀行と改称しました。そして、2013年に「みずほコーポレート銀行」が「みずほ銀行」を吸収合併し、行名を「みずほ銀行」に改称しました。これにより、事業実態とのねじれが解消されました。「三菱UFJフィナンシャル・グループ」、「三井住友フィナンシャルグループ」とともに、3大メガバンクの一角を占めています。現在、総資産・預金量・時価総額などの点で日本第3位の金融グループで、世界的な銀行の中では、総資産・時価総額で第10位にランクインしています。

最後に、ダッカ日航機ハイジャック事件です。日本赤軍が起こしたハイジャック事件です。フランスのパリ、シャルル・ド・ゴール国際空港発、東京国際空港(羽田)行きの南回りヨーロッパ線の日本航空機472便(高橋重男機長以下乗員14名、乗客137名、犯人グループ5名)が、経由地のインドのムンバイ空港を離陸直後、拳銃、手榴弾等で武装した日本赤軍グループ5名によりハイジャックされました。同機はカルカッタ方面に一旦向かった後、進路を変更してバングラデシュのダッカ国際空港に強行着陸しました。犯人グループは人質の身代金としてアメリカドルで600万ドル(当時の為替レートで約16億円)と、日本で服役及び勾留中の9名(奥平純三、城崎勉、大道寺あや子、浴田由紀子、泉水博、仁平映、植垣康博、知念功、大村寿雄)の釈放と日本赤軍への参加を要求し、これが拒否された場合、または回答が無い場合は人質を順次殺害すると警告しました。日本国政府は福田赳夫内閣総理大臣が「一人の生命は地球より重い」と述べて、身代金600万ドルの支払い及び、超法規的措置として獄中メンバーなどの引き渡しを決断しました。釈放要求された9人の内、植垣康博は「日本に残って連合赤軍問題を考えなければならない」、知念功は「一切の沖縄解放の闘いは沖縄を拠点に沖縄人自身が闘うべきものであり、日本赤軍とは政治的、思想的な一致点がない」、大村寿雄は「政治革命を目指す赤軍とはイデオロギーが異なる」と3人が釈放および日本赤軍への参加を拒否しました。日本政府は同日朝に、運輸政務次官の石井一を派遣団長とし、日本航空の朝田静夫社長ら同社の役員や運輸省幹部を中心としたハイジャック対策の政府特使と、身代金と釈放に応じたメンバー6人を日本航空特別機でダッカへ輸送しました。日本政府が過激派による獄中メンバーの釈放要求に応じたのは1975年の「クアラルンプール事件」以来、2回目の「超法規的措置」施行となりました。そして、人質との交換が行われ、乗員乗客のうち118名が解放されました。その後、高橋機長とデッドヘッドで乗り合わせていた澤田隆介機長の機転で更なる人質の解放に成功した後、残りの人質を乗せたままハイジャック機は離陸、クウェートとシリアのダマスカスを経て人質17名を解放、アルジェリアのダル・エル・ペイダ空港に着陸し、同国当局の管理下に置かれました。日本赤軍がアルジェリアを選んだのはアルジェリアが「ハイジャック防止条約」を結んでなかったためです。この時点で残りの乗客乗員も全員解放され、事件は終結しました。この事件で、バングラデシュ軍部中枢を含む政府首脳がこの事件の対応に追われている隙間を縫って、軍事クーデターが発生しました。その後戒厳令が発令され、最終的に反乱軍は鎮圧されたものの、ダッカ国際空港近辺でも戦闘があり、政府軍の士官が11名が死亡するなどして現地は緊迫しましたが、当時の報道規制により詳細は分かりませんでした。

今日の誕生日:孔子、シーモア・クレイ、ベン・E・キング、鈴木啓示、大塚範一、周富輝、内藤やす子、小西博之、徳井優、貴闘力忠茂、ミカ・ハッキネン、仙道敦子、渡辺美奈代(元おニャン子クラブ)、伊達公子、エメリヤーエンコ・ヒョードル、橘ケンチ「KENCHI」(EXILE、EXILE THE SECOND)、久保田直子、吹石一恵、オカリナ(おかずクラブ)、酒井瑛里(元美少女クラブ31)、ホラン千秋、工藤由愛(Juice=Juice)

今日の記念日:世界狂犬病デー、パソコン記念日、プライバシー・デー、くつやの日、いじめ防止対策を考える日

今日の「今日訓」:本日は、狂犬病ワクチンを開発したルイ・パスツールの1895年の命日で「世界狂犬病デー」、1964年に、三島由紀夫の「宴のあと」事件で、日本で初めてプライバシーの権利を認めた判決が1964年に下されました。これにより「プライバシー」が流行語になり 「プライバシー・デー」となりました。1979年にNECがパソコンブームの火付け役となった「PC−8001」を発売した事で「パソコン記念日」、2013年、「いじめ防止対策推進法」が施行された事で「いじめ防止対策を考える日」、「く(9)つ(2)や(8)」の語呂合わせで「くつやの日」となりました。
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