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2020年09月27日00:40

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9月27日の日記

今日の出来事:1180年−源平合戦:市原合戦、1556年−稲生の戦い、1597年−慶長の役:黄石山城の戦い、1611年−会津地震、1689年−奥の細道:松尾芭蕉が敦賀に到着、1868年−北越戊辰戦争:榎峠攻防戦、1868年−秋田戊辰戦争:扇田神明社畷の戦い、角間川の戦い、1940年−第二次世界大戦:日独伊三国同盟締結、1989年−横浜ベイブリッジ開通

今日は、源平合戦:市原合戦です。「善光寺裏合戦」とも呼ばれます。平家に味方する信濃の豪族・笠原頼直が源義仲討伐のため、木曾への侵攻を企てました。源氏方(信濃源氏の名門井上氏の一族)の村山義直と栗田寺別当大法師・範覚らと信濃国市原(現在の川中島への犀川渡河地域)付近で合戦となりました。勝敗は決着せず、日没になりました。矢が尽きて劣勢となった村山方は、源義仲に援軍を要請しました。大軍を率いて現れた源義仲軍を見て、笠原勢は即座に退却しました。そして、越後の豪族・城氏の元へと逃げ込みました。このため、城資職が源義仲軍を討滅するために大軍を率いて信濃国に侵攻しました。そして、川中島への千曲川渡河地域となる雨宮の渡しの対岸に当たる横田城に布陣しました。こうして「横田河原の戦い」へと続く事となります。

次に、稲生の戦いです。稲生の戦いは、尾張国の織田家で起きた織田信長とその弟・信行との家督争いから起きた戦いです。尾張下四郡を支配する守護代で清洲織田氏(織田大和守家)の重臣で「清洲三奉行」の一人から頭角を現した織田信秀は、尾張国内の分裂に加え、領土の隣接する三河の松平氏や駿河の今川氏、美濃の斎藤氏らと争って、一代で尾張国内外に勢力を拡大しました。しかし、織田信秀は1551年に急死し、跡を嫡男で那古野城主・信長が継ぎました。一方、織田信長の弟・信行は兄と離れ、織田信秀の居城・末森城にいました。織田信長は1555年、尾張守護・斯波氏の権威を利用して、主筋の清洲織田氏の下四郡守護代・織田信友を滅ぼし、尾張守護所であった清洲城に移って勢力を拡大していきました。しかし、織田信長は平素から素行が悪く「うつけ者」と呼ばれていた事に加え、傅役・平手政秀が諫死する事件が起こり、家中からは頭領に相応しくないとされました。さらに、三河との国境の要衝・鳴海城を守っていた山口教継が謀反を起こして今川氏に寝返りました。また、1556年に美濃で政変が起こり、信長の舅であり後ろ盾であった美濃国主・斎藤道三が嫡子・義龍との「長良川の戦い」で敗死、さらに義龍と手を結んで尾張上四郡を支配する守護代で岩倉織田氏(織田伊勢守家)が敵対するなど、織田信長の周辺は困難な情勢が続きました。このような状況で、織田信長では織田家をまとめられないと考えた宿老・林秀貞とその弟・林美作守通具、織田信行の老臣・柴田勝家らは、織田信長を排除して家中で評価の高い織田信行に家督を継がせようとしました。そして、織田信行自身も織田家代々の名乗りである弾正忠を自称し、織田信長の直轄領である篠木などを押領て砦を構えるなどして、反抗の意思を示しました。織田信長は9月25日に、佐久間盛重に命じて名塚に砦を築かせました。そして、9月27日に稲生原での合戦となりました。織田信長軍が清洲から南東の於多井川(現・庄内川)を越えたところで、東から来た柴田軍と南から来た林軍との戦いとなりました。信長方は700人(佐久間盛重、佐久間信盛、前田利家、丹羽長秀、森可成、織田信房ら)に対し、織田信行方は柴田勝家が1000人、林秀貞が700人の合計1700人でした。正午頃、織田信長軍の約半数が柴田軍に攻めかかりましたが、兵力差に加えて柴田勝家の活躍があり、信長方は佐々成政の兄で「小豆坂七本槍」の一人・佐々孫介ら主だった家臣が次々に討たれるなど苦戦を強いられました。柴田軍が織田信長の本陣に迫った時には、信長の前に織田勝左衛門、織田信房、森可成と鑓持ちの中間40人ばかりしかいないという危機に立たされました。しかし、織田信房、森可成の両名が前線に立って戦い、清洲衆の土田の大原という武将を返り討ちにするなど奮戦しました。その時、織田信長が敵に対して大声で怒鳴ると、柴田軍の兵たちは逃げていきました。勢いを取り戻した織田信長軍は、林軍に攻めかかりました。戦いの中、林美作守が黒田半平と切り結んで息が切れたところに織田信長が打ちかかり、槍で突き伏せて討ち取りました。その後、鎌田助丞、富野左京進、山口又次郎、橋本十蔵、角田新五、大脇虎蔵、神戸平四郎ら、織田信行方の主だった武将を含む450人余りを討ち取りました。こうして織田信行方は崩れて敗走しました。その後、織田信行方は末盛城、那古野城に籠城しました。それに対して、織田信長は両城の城下を焼き払いました。織田信行は、母・土田御前の取りなしによって助命され、清洲城で織田信長と対面して許されました。また、織田信行方の有力武将・林秀貞と柴田勝家、津々木蔵人も謝罪して忠誠を誓いました。後に、織田信行は再び謀反を企みましたが、織田信長に与していた柴田勝家に騙され、織田信長が病に臥していると聞いて訪れた清洲城の北櫓・天主次の間で、信長の命を受けた河尻秀隆らに暗殺されました。林秀貞は20年以上後の1580年に織田信長によって追放されていますが、この時に追放理由として「稲生の戦い」で叛いた事を原因の1つに挙げています。

その次に、慶長の役:黄石山城の戦いです。「文禄の役」後、日本と明の間で続けられた和平交渉が決裂すると豊臣秀吉は再征を命じました。「慶長の役」が始まり、日本水軍が「漆川梁海戦」で朝鮮水軍に壊滅的打撃を与えると、日本軍は右軍、左軍、水軍に分かれて、水陸から全羅道を目指して進撃を開始しました。進撃路上の慶尚道と全羅道の道境付近では南原城と黄石山城が行く手を扼していました。そこで、日本の右軍は黄石山城を、左軍と水軍合計56800は水陸を併進し南原城を目指しました。
黄石山城の戦い:日本軍の右軍先鋒・加藤清正は西生浦を発し、梁山に至り、主将・毛利秀元、黒田長政、鍋島直茂父子、池田秀氏、中川秀成、長宗我部元親父子等と会し、全軍の集中を終えました。加藤清正は南面より、鍋島直茂父子は西面より、黒田長政等は東面より囲み、竹束盾を連ねて柵を結って城に迫り、総攻撃を開始しました。黄石山城は郭シュンが守り、白士霖、趙宗道は兵を率いて軍民数千人を募り、城の各所に分置しました。しかし、白士霖は逃走しました。郭シュンは持場を離れず戦いましたが、加藤清正家臣・森本義太夫等が南門に先登し、神田対馬が郭シュンを討ち取りました。郭シュンの子、郭履常、郭履厚及び趙宗道等は戦死し、日本軍は350の首級を挙げ黄石山城は陥落しました。

その次の次に、会津地震です。会津地震は、1611年9月27日午前9時頃、会津盆地西縁断層帯付近を震源として発生しました。家屋の被害は会津一円に及び、倒壊家屋は2万戸余り、死者は3700人に上りました。鶴ヶ城の石垣が軒並み崩れ落ち、7層の天守閣が傾きました。会津坂下町塔寺の恵隆寺や柳津町の円蔵寺、喜多方市慶徳町の新宮熊野神社、西会津町の如法寺にも大きな被害が出ました。また、各地で地滑りや山崩れが起こりました。特に喜多方市慶徳町山科付近では、大規模な土砂災害が発生して阿賀川が堰き止められて「山崎新湖」が誕生し、23もの集落が浸水しました。その後も山崎湖は水位が上がり続けましたが、河道バイパスを設置する復旧工事によって徐々に水が引き始めました。しかし、その後の大水害もあって山崎湖が完全に消滅するのに34年の歳月を要しました。そのため、移転を余儀なくされた集落も多くありました。さらに、旧越後街道の一部がこの山崎湖に水没し、勝負沢峠付近も土砂崩れによって不通となりました。越後街道は、現在の会津坂下町内〜鐘撞堂峠経由に変更されたため、その後繁栄する事になります。鶴ヶ城はこの後、加藤明成によって5層の天守閣に改められる事になります。その後、会津地方では盆地付近を震源とする大きな地震は起きていません。

そのまた次に、奥の細道:松尾芭蕉が敦賀に到着です。芭蕉は、敦賀で仲秋の名月を見るため、気比神宮〜金ヶ崎〜金前寺〜色の浜〜本隆寺へ立ち寄りました。まず、日本三大鳥居の一つ「両部鳥居」がある気比神宮にお参りし、遊行上人を偲びました。ここで芭蕉は「月清し 遊行の持てる 砂の上」(昔、遊行上人が神社前に砂を引き参拝しやすくした。その砂の上に差している月光は、清らかで綺麗だ。)と詠みました。そして、この句を詠みました。「古き名の 角鹿や恋し 秋の月」(敦賀はその昔、朝鮮からの渡来人「都怒我阿羅斯等<つぬがあらしと>」に因んで角鹿<つのが・つぬが>と命名されたという。その後、字のみ改めて「敦賀」としたといわれている。そこで、古い「角鹿」という地名がこんな秋の月の夜には相応しい感じがする。) 翌日、芭蕉は、日本三大松原「気比の松原」での月見を楽しみにしていましたが、あいにくの雨となったため、この句を詠みました。「名月や 北国日和 定なき」(今日は仲秋の名月なのに見られなかった。北国の天気は当てにならないものだ。)

そのまた次の次に、北越戊辰戦争:榎峠攻防戦です。米沢藩は下関村を捨て沼村方面に撤退し、下関村と沼村の中間に位置する難所の榎峠・鷹ノ巣峠に布陣しました。新政府軍(薩摩藩・長州藩・芸州藩・新発田藩・徴兵十二番隊)は、攻撃を開始しました。薩摩藩外城一番隊隊長・村田経芳が、自ら大砲を操って砲撃を開始すると米沢藩兵は崩れ始めました。そして、新政府軍の攻撃を支えきれず、陣地を放棄して敗走しました。榎峠山頂を占拠した新政府軍は、そのまま追撃を開始しました。片貝の斉藤新右衛門は、沼本陣に駆けつけて新政府軍と交戦しました。しかし、隊長の斉藤新右衛門は討ち死にし、沼村の本陣も陥落しました。さらに新政府軍は片貝を攻め落とした為、米沢藩兵は八ヶ谷を超えて米沢藩領に逃げ込みました。こうして下越より米沢藩が撤退し、越後は新政府軍により制圧されました。

さらに次に、秋田戊辰戦争:角間川の戦い、扇田神明社畷の戦いです。
角間川の戦い:横手を脱出した新政府軍は、神宮寺に退却して本営を置きました。そして、小倉藩、佐賀藩、久保田藩、新庄藩を角間川に置いて、列藩同盟軍の北上を阻止しようとしました。庄内藩二番大隊は、角間川の新政府軍を打ち破る準備を進め、一関藩・峰岸兵左衛門が率いる六小隊が、二番隊の指揮下に入りました。仙台藩は庄内藩二番隊隊長・酒井吉之丞に対し、仙台藩が先鋒になって角間川の攻撃をするので、後続援軍の依頼をしました。仙台藩は先鋒に立って攻撃をしましたが、本道上で敗走を始めました。仙台隊の後詰・郷左衛門隊は、仙台軍を追撃してきた久保田藩軍を攻撃しました。さらに、酒井吉之丞の指揮で庄内本隊が進撃を始めると、久保田藩兵は角間川の街中に逃走しました。松平角之介隊が、角間川の民家に火を付けて、久保田兵の掃討を行いました。久保田軍は潰走を始め、横手川を渡って大曲方面に脱出しようとし、渡し場に敗兵と避難民が集中しました。松平角之介が横手川の船橋の綱を切り、退路を断つと久保田藩軍は大混乱して、多数が川に飛び込んで溺死しました。新政府軍の完敗で、庄内藩兵は勢いに乗って土工兵までが戦闘に加わりました。
扇田神明社畷の戦い:「十二所の戦い」で盛岡藩が参戦しました。庄内藩と対戦中で久保田藩応援に出撃中の、弘前藩の対馬左衛門隊が大館方へ加わりました。奥羽列藩同盟を脱退した弘前藩にはさらなる応援要請が出され、鉄砲隊3小隊を碇ヶ関方面に派兵しました。楢山佐渡が率いる盛岡藩兵は、扇田村を占領して南部領としました。十二所勢は暗夜を利用して隠密に行動を起し、盛岡藩の宿舎を襲い諸将を屠ろうとの奇策をめぐらしていました。扇田村の住民に盛岡兵を酒肴で歓待させ、酔いつぶれたところを一気に楢山佐渡の本陣を奇襲しようとしました。ところが、盛岡軍の引揚げが始まり、残留部隊は移動して扇田神明社境内で宿営していました。茂木筑後の十二所勢は「決死隊」200名余を編成、盛岡側に奇襲をかけました。残留部隊が駐屯する扇田神明社畷で戦闘は始まり、1刻程度で双方に数十名の死傷者を出しました。

さらに次の次に、日独伊三国同盟締結です。日本、ドイツ、イタリアの間で締結された「日独伊三國間條約」では「日独防共協定」、「日独伊防共協定」では曖昧だった三国の協力関係が具体化され、アジアにおける日本の指導的地位及びヨーロッパにおける独伊の指導的地位の相互確認、調印国いずれか一ヵ国が「第二次世界大戦」のヨーロッパ戦線や「日中戦争」に参加していない国から攻撃を受けた場合、相互に援助すると取り決めがなされました。このため、日本はナチス党率いるドイツと対立するイギリスやオランダとの関係が悪化し、アメリカ合衆国の対日感情も悪化する事になりました。また、ドイツにとってはヨーロッパ戦線におけるアメリカの参戦を牽制する狙いがありました。フランスが敗北し、ドイツが俄然有利になると「三国同盟」の締結論が盛り上がってきました。陸軍では、オランダ領インドネシアやマレー半島を確保しようする「南進論」の動きが高まりました。陸軍首脳は親英米派の米内光政内閣倒閣に動き、近衛文麿を首班とする第2次近衛内閣が成立しました。近衛内閣には外相として松岡洋右が入閣し、日・独・ソ・伊4ヶ国同盟を主張しました。こうして、東京の外相官邸とベルリンの総統官邸において調印が行われました。「第二次世界大戦」における枢軸国の原型となリ、その後複数の枢軸国やその友好国も加盟しました。

最後に、横浜ベイブリッジ開通です。横浜ベイブリッジは、神奈川県横浜市にある長さ860mの斜張橋(吊り橋)です。建設の目的は、高度経済成長によって悪化した横浜市街地の渋滞解消でした。設計は名港西大橋のデザイン案を、名称はサンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジを参考にしました。

今日の誕生日:竹中半兵衛、遠山景元、高杉晋作、宇野重吉、大杉漣、室山真理子(室山まゆみ・妹)、松永浩美、中村美紀(SHOW−YA)、川相昌弘、岸谷五朗、羽生善治、八嶋智人、大路恵美、フランチェスコ・トッティ、小野伸二、朝青龍明徳、橋本直(銀シャリ)、古閑陽子、中田敦彦(オリエンタルラジオ)、アヴリル・ラヴィーン、にわみきほ(キャナァーリ倶楽部)、横山ルリカ(元アイドリング!!!9号)、内田理央、浜野あさり、シャア・アズナブル、ジョセフ・ジョースター、野原ひまわり

今日の記念日:世界観光の日、女性ドライバーの日

今日の「今日訓」:本日は、1917年に栃木県在住の渡辺ハマ(当時23歳)が自動車運転免許試験に合格し、日本女性初の自動車運転免許証を手にした事で「女性ドライバーの日」、1970年に「世界観光機関憲章」が採択された事で「世界観光の日」となりました。
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