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2020年09月26日00:13

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9月26日の日記

今日の出来事:1455年−享徳の乱:千葉氏宗家滅亡、1573年−小谷城の戦い:浅井氏滅亡、1597年−慶長の役:南原城の戦い、1600年−関ヶ原の戦い:高須城の戦い、1868年−北越戊辰戦争:下関陥落、村上藩降伏、1868年−秋田戊辰戦争:横手の戦い、1868年−仙台戊辰戦争:第一次駒ヶ嶺攻防戦、1935年−第四艦隊事件、1954年−洞爺丸事故:洞爺丸台風により青函連絡船「洞爺丸」が転覆、日本史上最大の海難事故となる、1958年−狩野川台風が静岡県伊豆半島に最接近し、狩野川が氾濫、1959年−伊勢湾台風が潮岬に上陸、東海地方などを襲い、死者・行方不明者5000人以上という甚大な被害を及ぼす

今日は、享徳の乱:千葉氏宗家滅亡です。千葉氏は、「坂東八平氏」、「関東八屋形」の一つに数えられる下総の豪族です。平常長は上総国山辺郡大椎(現・千葉市緑区大椎町)に舘を築いて本拠としました。その次男・常兼は、千葉大夫と呼ばれて千葉氏の祖となりました。五男・常晴は、上総氏の祖になりました。常兼の子・常重は上総氏に養子に入り、房総平氏は千葉氏と上総氏の2つに分かれました。常重は、「千葉介」を名乗りました。以降、千葉氏の惣領は「千葉介」を名乗る事になりました。1180年、源頼朝が挙兵して「石橋山の戦い」に敗れた後に安房国へ渡ると、常重の子・千葉常胤は加勢を求められ、応じました。千葉常胤は平家との戦いや奥州藤原氏との戦いで活躍しました。上総氏の惣領・上総広常が源頼朝に嫌われて粛清されて上総氏は滅亡すると、千葉氏の権力は上総国まで及びました。鎌倉時代には下総の守護とされました。1247年、「宝治合戦」で三浦氏に連座した幼少の当主・千葉頼胤の後見・千葉秀胤は北条氏に攻め滅ぼされました。1275年、「元寇」に出陣した千葉頼胤が戦死し、嫡男・宗胤が代わりに九州に下りました。その後、弟・胤宗を当主に擁立しました。宗胤の長男・胤貞は、「南北朝の戦い」で北朝方に付いて南朝方の胤宗の子・貞胤を攻めました。千葉貞胤は北朝方に降伏しました。しかし、千葉胤貞が病没したため、千葉胤宗が室町幕府より下総守護の地位を保証されました。このため、宗家の地位を失った千葉胤貞の千田氏は衰退し、肥前国に在った千葉宗胤の次男・胤泰が九州千葉氏を興す事になりました。千葉胤直は、鎌倉公方・足利持氏が室町幕府からの自立を画策すると、関東管領・上杉憲実と共に諌めました。しかし、1438年に足利持氏が上杉憲実討伐を計画したため起こった「永享の乱」では鎌倉軍に属していました。上杉憲実と和議を結んで善後策を講じるように主張しましたが、継戦を唱える簗田満助と口論に及びました。足利持氏が簗田満助の策を採ったため陣を退きました。その後、上杉憲実に属して足利持氏を攻め、上杉持朝と共に鎌倉永安寺に幽閉されていた足利持氏を討ちました。「結城合戦」でも幕府軍に属して結城城を攻めましたが、1441年に上杉憲実と共に出家して家督を嫡男・胤将に譲りました。その後、足利持氏の遺児・成氏が鎌倉公方として復帰すると、千葉胤直は胤将と共にこれを支えました。1454年に千葉胤将が急死したため、幼い次男・胤宣が千葉氏を継ぐ事になり、千葉胤直が後見を行う事になりました。しかし、鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺した事で始まった「享徳の乱」の際、離反して上杉氏と共に足利成氏を攻撃しました。ところが、上杉派である千葉胤直と重臣・円城寺尚任に不満を抱いていた叔父・馬加康胤と重臣・原胤房の連合軍が千葉城を攻撃しました。千葉胤直・胤宣父子は千田庄多胡に逃れて防戦しましたが、1455年9月23日に馬加康胤に攻められた千葉胤宣が多古城で自刃、円城寺尚任は討死、26日に原胤房に攻められた千葉胤直も志摩城で自刃して果てました。これにより、家督は馬加康胤に奪われ、千葉氏宗家は滅亡しました。その後、弟・胤賢も小堤城で討たれましたが、甥の実胤・自胤兄弟は武蔵まで落ち延びました。千葉胤賢の遺児である実胤・自胤兄弟は、千葉氏庶流で幕府奉公衆・東常縁と扇谷上杉家家宰・大田道灌の支援を受けて、馬加康胤及びその子孫と対峙する事になります。こうして、前者は武蔵千葉氏、後者は下総千葉氏として分裂しました。原胤房は東常縁に敗れて逃亡、馬加康胤も翌1456年東常縁に討たれました。

次に、小谷城の戦い:浅井氏滅亡です。「一乗谷城の戦い」で朝倉義景は自害して朝倉氏は滅びました。越前を制圧した織田信長は、小谷城へと引き返して虎御前山の本陣へ帰還すると、全軍に小谷城の総攻撃を命じました。羽柴秀吉が、夜半に浅井長政の拠る本丸と長政の父・久政が籠る小丸との間にある京極丸を占拠し、父子を繋ぐ曲輪を分断する事に成功しました。やがて小丸への攻撃が激しくなり、追い詰められた浅井久政は小丸にて自害しました。その後、本丸はしばらく持ちこたえ、浅井長政はその間に嫡男・万福丸に家臣を付けて城外へ逃がしました。さらに正室・お市の方を3人の娘(茶々、初、江)とともに、織田軍に引き渡しました。その後、袖曲輪の赤尾屋敷内で赤尾清綱、弟・浅井政元らと共に浅井長政は自害し、小谷城は落城しました。この日をもって、北近江の戦国大名・浅井氏は浅井亮政から3代で滅亡しました。「金ヶ崎」での裏切りもあり、信長の浅井氏への仕置きは苛烈を窮めました。浅井長政・久政親子の首は京で獄門にされ、万福丸は探し出されて関ヶ原で磔にされました。また、浅井長政・久政の頭蓋骨は朝倉義景と共に薄濃にして、翌年の正月に酒の肴となりました。小谷城は廃城となり、戦功のあった秀吉に近江が与えられ、秀吉は長浜城を築きます。

その次に、慶長の役:南原城の戦いです。「文禄の役」後、日本と明の間で続けられた和平交渉が決裂すると豊臣秀吉は再征を命じました。「慶長の役」が始まり、日本水軍が「漆川梁海戦」で朝鮮水軍に壊滅的打撃を与えると、日本軍は右軍、左軍、水軍に分かれて、水陸から全羅道を目指して進撃を開始しました。進撃路上の慶尚道と全羅道の道境付近では南原城と黄石山城が行く手を扼していました。そこで、日本の右軍は黄石山城を、左軍と水軍合計56800は水陸を併進し南原城を目指しました。
南原城の戦い:明軍は総兵・楊元を南原城に派遣していました。楊元は到着すると、城の防備強化に取り組み、城壁を一丈ばかり増築し、城外の羊馬墻に数多くの銃眼を穿ち、城門に大砲三門ほどを据付け、濠を一・二丈掘って深くしました。南原城には明の総兵・楊元の他、中軍・李新芳らが、約3000人の明兵を擁して守りを固め、これに朝鮮軍の全羅兵使・李福男、南原府使・任鉉、助防将・金敬老、光陽県監・李春元、唐将接伴使・鄭期遠らが約1000人の朝鮮兵を率いて加わりました。宇喜多秀家・小西行長らが率いる日本軍は南原に到着すると、ここを包囲し戦闘が開始されました。この時、明の遊撃・陳愚衷が3000の兵を率いて全州におり、南原守備軍は毎日のように来援を要請しましたが、陳愚衷は救援しませんでした。日本軍は攻城用の高櫓から城内を猛射し、その間に濠を埋め、長梯子をかけて城壁を登り城内に突入しました。城内からは火の手があがり、もはや落城が不可避となると、明兵は脱出を計りましたが、城は既に日本軍の重囲下にあり、明兵は次々と刃を受けて討ち取られました。このとき脱出できた者はほとんどいませんでしたが、楊元だけは僅かな家丁のみを伴い身一つで落ち延びました。そして朝鮮軍の武将は全員戦死し、ここに南原城は陥落しました。明軍は、楊元と陳愚衷を処刑します。

その次の次に、関ヶ原の戦い:高須城の戦いです。福束城が落城し、東軍の福島正則は市橋長勝、徳永寿昌に高須城奪取を命じました。市橋長勝、徳永寿昌は一千余の軍勢を率いて、高須城北東の成田村から攻め寄せました。城主・高木盛兼は差さえきれすに、城を捨てて舟で津屋城へと退却しました。これを見た駒野城の高木帯刀は開城し、東軍に投降しました。続いて東軍は津屋城に押し寄せ、城主・高木正家は逃げてきた高木盛兼と共に防戦に務めましたが、駒野城を包囲していた東軍が到着すると大垣城へと逃れました。

そのまた次に、北越戊辰戦争:下関陥落、村上藩降伏です。
下関陥落:中越戦線敗北と新潟陥落、二本松城陥落の報に米沢藩兵を率いる飯田与総右衛門や長尾権四郎は、貝附や梨ノ木峠が陥落した事で全部隊を率いて下関村を捨てて、本陣を沼村に後退させて、沼村と下関村の中間に位置する榎峠や鷹ノ巣峠に兵を布陣させました。新政府軍の米沢方面軍は米沢街道軍と菅谷道軍と共に午前六時頃より前進を開始、大島村付近で両軍が合流し、米沢街道沿いに前進を続けて下関村を占領しました。その後、米沢方面軍は更に大石川まで前進し、対岸の鷹ノ巣峠に布陣する米沢藩兵と対峙しました。米沢藩の本営が置かれていた下関は、新政府軍の本営が置かれる事になります。
村上藩降伏:村上藩は長岡藩が新政府軍に破れ、村上藩が危機に陥ると藩主・内藤信民は失意に暮れて城内で自害しました。このため藩主不在となり、佐幕派の家老・鳥居三十郎が主導権を掌握しました。しかし、新政府軍・福井藩兵が接近すると藩論は抗戦か帰順かで割れ、鳥居三十郎は抗戦派藩士約200名を率いて村上城を脱出して庄内藩へ向かいました。この際の混乱で村上城は全焼しました。久永惣右衛門・江坂与兵衛ら帰順派藩士は新政府軍の詰所に出頭して降伏しました。

そのまた次の次に、秋田戊辰戦争:横手の戦いです。山道口の庄内藩一番大隊、二番大隊は、羽州街道を北上し、横手城に向かいました。すでに新政府軍の主力は逃げ去っており、残った戸村大学がわずかな兵と共に籠城していました。一番大隊の隊長・松平甚三郎と二番大隊の隊長・酒井吉之丞は相談して、使者を遣わして投降勧告書を送りました。しかし、戸村大学は返答せず、使者を拘留しました。庄内軍は返事を待ちましたが午後4時になると攻撃を開始しました。午後5時頃に追手口より、二番大隊の権蔵小隊が討ち入りに成功しました。裏手の二番大隊の一部も突入しました。横手兵の一隊が刀槍を持って反撃し、庄内軍が鉄砲で応戦し、混戦状態になりました。その頃、惣右衛門隊や仙台藩の瀬上隊も突入しました。安倍平三郎隊が持ち場を離れて城門に向かって射撃すると、城門が開いて20数名の横手兵が突撃してきました。横手兵は庄内軍の包囲網を強行突破しようとしました。庄内兵と横手兵の間で激しい白兵戦が展開され、この混乱に乗じて戸村大学を含めた残りの横手兵が、庄内藩と仙台藩の包囲網を突破して逃走しました。こうして庄内軍は、横手城を制圧しました。

さらに次に、仙台戊辰戦争:第一次駒ヶ嶺攻防戦です。「黒木の戦い」に勝利した新政府軍は、相馬中村藩兵を先導役として、駒ヶ嶺の攻略に乗り出しました。仙台藩は新政府軍に合わせて海岸沿いの今泉、駒ヶ嶺、菅谷、そして駒ヶ嶺と菅谷の中間にある曹善堂に陣を構えて新政府軍を待ち受けました。新政府軍は椎木から駒ヶ嶺関門に向けて一斉に砲撃を開始しました。原釜から海岸線に沿って北上を始めた福岡藩と鳥取藩は、海岸線に近づくほど泥が深い事に気づき、思うように進めず退却しました。曹善堂の西、菅谷村を攻略するために派遣された久留米藩と徴兵隊は、仙台藩守備隊に進撃を阻まれました。津藩100名と相馬中村藩が応援に駆け付けると仙台藩兵は後退しました。しかし、第二陣地の高台に拠って射撃を続け、新政府軍は菅谷陣地で足止めをされました。本道の長州藩は、直ちに高台に向けて攻勢を開始しました。長州藩の攻撃は「磐城戊辰戦争」でも戦況を決しましたが、駒ヶ嶺でも仙台藩は突破されました。長州藩は高台を制圧し、東の駒ヶ嶺本陣を側面から攻撃を開始しました。仙台藩指揮官・石田正親は予備隊を投入して駒ヶ嶺を守ろうとしましたが、白兵戦で新政府軍砲兵隊の攻撃を受けて後退しました。仙台藩は駒ヶ嶺領主・宮内長十郎の館を守るため反撃を続けましたが、「黒木の戦い」で奮戦した参謀・遠藤主悦は膝を打ち抜かれるなど怪我人、死傷者を多数出して退却を始めました。新政府軍は宮内長十郎の館を占拠しました。海岸線の福岡藩と鳥取藩は本道での勝利を知り、再び出撃しました。仙台藩兵は、駒ヶ嶺失陥により退却したため、今泉まで進撃を果たしました。菅谷方面では広島藩兵が合流し、菅谷第二陣地まで攻め上り、仙台藩兵の退却によって戦いが終結しました。新政府軍の死者は26名、怪我人は160名を数え、仙台藩の死者は32名、怪我人78名を数えました。新政府軍はついに仙台藩領に進出し、占領した駒ヶ嶺に兵力を集結させました。

さらに次の次に、第四艦隊事件です。日本海軍は、前年に起こった水雷艇「友鶴」の転覆事件による、保有艦艇の復元性改善工事を終了していました。更に「ロンドン海軍軍縮条約」の失効と国際情勢の悪化に伴い、海軍力の拡充に奔走していました。1935年9月26日、海軍演習のために臨時編成された第四艦隊(司令長官・松下元中将)は、岩手県東沖合い250海里での演習に向かうため、補給部隊・水雷戦隊・主力部隊・潜水戦隊が函館港を出港しました。すでに台風の接近は報じられていたが、9月26日朝の気象情報により、午後には艦隊と台風が遭遇することが明らかになった。そのため、反転して回避する案も出されましたが、すでに海況が悪化しており、多数の艦の回頭による接触・衝突も懸念されました。また、台風の克服も訓練上有意義であると判断され、予定通りに航行を続けました。主力部隊は台風の中心に入り、最低気圧960mbarと最大風速34.5m/sを観測、右半円に入った水雷戦隊は36m/sを記録し、波高20mに達する大波(三角波)が発生しました。その結果、転覆・沈没艦は無かったものの、参加艦艇(41隻)の約半数(19隻)が何らかの損傷を受けました。特に最新鋭の吹雪型(特型)駆逐艦2隻は波浪により、艦橋付近から前の艦首部分が切断されるという甚大な被害を受けました。前年に起こった「友鶴事件」と合わせ、軍縮条約下で建造された全艦艇のチェックが行われ、ほぼ全艦が対策を施される事になりました。主な対策は、船体強度確保のための補強工事、及び軽量化のための武装の一部撤去となりました。これらの対策の結果、日本海軍の艦艇は荒天時にも十分な艦体強度を有して「第二次世界大戦」での活躍につながりました。
以下が損害です。駆逐艦「初雪」、「夕霧」:艦橋付近で艦体が切断、駆逐艦「睦月」、「菊月」、「三日月」、「朝風」:艦橋大破、航空母艦「鳳翔」:前部飛行甲板損傷、航空母艦「龍驤」:艦橋損傷、重巡洋艦「妙高」:船体中央部の鋲が弛緩、軽巡洋艦「最上」:艦首部外板にシワ、亀裂が発生、潜水母艦「大鯨」:船体中央水線部及び艦橋前方上方外板に大型のシワが発生、その他駆逐艦多数に損傷、「初雪」の切断された艦首等にて殉難者54名

さらにまた次に、洞爺丸事故です。洞爺丸台風(台風15号)は、18日にカロリン諸島付近で熱帯低気圧として発生し、21日に台風となりましたが、すぐに勢力が衰えました。しかし、23日には台風に復活し、次第に発達しながら台湾の南東海上で転向、急激に加速しながら北東に進み、9月26日未明に鹿児島県大隅半島に上陸しました。台風は九州を斜走し、朝には中国地方から日本海に出て時速100キロの高速で北東から北北東に進みました。この台風は、上陸しても勢力を保ち続け、日本海北上中はさらに発達しました。台風は、北海道に接近した頃に最盛期を迎え、同時に一時的に速度を時速40キロ以下に落としたため、北海道を中心とする北日本では猛烈な暴風による被害が大きくなりました。岩内町では火鉢の飛び火が原因による大火で、3000戸あまりが焼失し、33名が焼死しました。森林が受けた風害はすさまじく、支笏湖周辺などでは全山の大木が根こそぎ倒されました。かつてはほぼ全土が原生林に覆われていた北海道でしたが、明治以来の開拓と木材生産とこの台風により、かつての威容は失われました。1761名の死者・行方不明者数を出しました。また、青函連絡船「洞爺丸」の遭難で1155名の犠牲者が出ました。日本史上最大の海難事故となりました。これは1912年の北大西洋における「タイタニック号」、1865年のミシシッピ川での「サルタナ号」の事故に次ぎ、戦争による爆撃を除けば世界海難史上3番目の規模でした。「洞爺丸」以外にも青函連絡船4隻が沈没し、多数の犠牲者を出しているほか、台風が通過した西日本でも約300名の死者がでる大きな被害となりました。以下沈没した青函連絡船です。(洞爺丸:乗客・乗員1155名死亡、生存者159名、第十一青函丸:乗員90名全滅(うち行方不明44)、北見丸:乗員70名殉職(うち行方不明29)、生存者6名、日高丸:乗員56名殉職(うち行方不明2)、生存者20名、十勝丸:乗員59名殉職、生存者17名)そして、この事故がきっかけとなり、本州と北海道を地続きにする青函トンネル構想が具体化される事になるのです。

さらにまた次の次に、狩野川台風です。狩野川台風(台風22号)は神奈川県に上陸し、伊豆半島と関東地方に大きな被害を与えました。死者・行方不明1269名、東京都では初めて災害救助法が適用されました。伊豆半島の中央部を流れる狩野川では、上流部の山地一帯で鉄砲水や土石流が集中的に発生しました。天城山系一帯では約1200箇所の山腹、渓岸崩壊が発生しました。中伊豆町では激しい水流によって山が2つに割れたほどでした。同時に、深さ12メートルにもなる洪水が起こり、これが狩野川を流れ下って下流を襲いました。修善寺町の死者行方不明者は460人以上、大仁町・中伊豆町など狩野川流域で多くの犠牲者が出ました。狩野川流域では死者・行方不明者853名に達し、静岡県全体の死者・行方不明者は1046人、ほとんどが伊豆半島の水害によるものでした。

最後に、伊勢湾台風です。伊勢湾台風(台風15号)は、潮岬に上陸し、紀伊半島から東海地方を中心とし、ほぼ全国にわたって甚大な被害を及ぼしました。紀伊半島の和歌山県、三重県、愛知県、奈良県、日本アルプスの岐阜県を中心に犠牲者5098人(死者4697人・行方不明者401人)・負傷者38921人、全壊家屋36135棟・半壊家屋113052棟、流失家屋4703棟、床上浸水157858棟、船舶被害13759隻にのぼり、さらにほぼ全国に及んだ経済的被害は破格の規模となりました。明治維新以来、最大の被害を出した台風となりました。「室戸台風」、「枕崎台風」とあわせて「昭和の三大台風」に挙げられ、その中でも最悪の被害をもたらしました。

今日の誕生日:小林虎三郎、大久保利通、イワン・パブロフ、牧伸二、アントン・ウィッキー、オリビア・ニュートン=ジョン、柳沢きみお、木根尚登(TM NETWORK)、天童よしみ、光石研、横田睦美(元おニャン子クラブ)、富川春美(元おニャン子クラブ)、池谷幸雄、長嶋正興、西口文也、佐野瑞樹、佐藤藍子、秋山莉奈、若田部遥(元HKT48)

今日の記念日:核兵器の全面的廃絶の国際の日、ワープロ記念日、台風襲来の日、くつろぎの日

今日の「今日訓」:本日は、統計上、台風襲来の回数が多い事から「台風襲来の日」となりました。1954年に「洞爺丸台風」で青函連絡船・洞爺丸が転覆、1958年に「狩野川台風」が伊豆・関東地方に来襲、1959年に「伊勢湾台風」が東海地方に上陸したのは全てこの日でした。1978年に東芝が世界初の日本語ワードプロセッサ「JW−10」を発表したことに由来し「ワープロの日」、2013年に国連総会では初となる「核軍縮に関するハイレベル会合」を開催した事で「核兵器の全面的廃絶の国際の日」、「く(9)つ(2)ろ(6)ぎ」の語呂合わせで「くつろぎの日」となりました。
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