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2020年09月25日00:09

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9月25日の日記

今日の出来事:1441年−嘉吉の乱:赤松氏滅亡、1567年−三船山合戦、1868年−北越戊辰戦争:坪穴・夏井、梨ノ木峠攻防戦、1937年−大牟田爆発赤痢事件が発生、1944年−第二次世界大戦:マーケット・ガーデン作戦が終了

今日は、嘉吉の乱:赤松氏滅亡です。「籤引き将軍」こと6代将軍・足利義教は、「万人恐怖」の政治を行い、赤松満祐に暗殺されました。突然独裁者である足利義教を失った室町幕府は、管領の細川持之の指導力が欠如していた事から機能停止に陥ってしまいました。細川持之は評定を開き、足利義教の嫡子・千也茶丸(足利義勝)を次期将軍とする事を決定しました。本拠地の播磨坂本城に帰った赤松満祐は、足利直冬の孫の義尊を探し出して擁立し、大義名分を立てて領国の守りを固め、幕府に対抗しようとしました。季瓊真蘂が坂本城を訪れ、足利義教の首の返還を求めると、赤松満祐は快く首を返還しました。そして、等持院で足利義教の葬儀が行われました。その後、細川持常、赤松貞村、赤松満政の大手軍が摂津から、山名持豊ら山名一族が但馬、伯耆から播磨、備前、美作へ侵攻する討伐軍が決定しました。山名教清が伯耆から美作へ侵入し、美作は山名勢に制圧されました。細川持常、赤松貞村らの大手軍が摂津国西宮まで進出すると、赤松教康は幕府軍に夜襲をしかけました。しかし、同士討ちが起きて退却しました(庫御所合戦)。細川持之は赤松討伐のための治罰綸旨を奏請し、後花園天皇はこれを許しました。公家の中には赤松満祐に同情する者や、赤松氏は朝敵ではなく武家の私闘であるとして反対する議論もありました。また、村上源氏の久我清通がこれを機に足利義満の時代に奪われた源氏長者の地位を取り戻すべく活動をし、源氏長者に補任されました。摂津の大手軍、細川持常、赤松貞村は陸路から、細川持親は海路から塩屋(神戸市)の赤松教康の陣を攻撃しました。赤松教康は陣を放棄して蟹坂へ後退し、大手軍はようやく播磨へ入りました。しかし、赤松教康は逆襲に出て両軍は激しく戦いました。大雨の中を幕府軍は蟹坂の陣へ攻撃を行うと、赤松教康は奮戦しましたが、但馬口が突破されたとの報(虚報)を受け、戦意を失って坂本城へ退却しました(人丸塚の戦い)。その後、山名持豊は4500騎をもって但馬・播磨国境の真弓峠に攻め込み、この方面を守る赤松義雅と数日にわたり攻防を繰り広げました。山名持豊は、真弓峠を突破し、退却する赤松義雅を追撃しながら、坂本城に向かって進軍しました。両軍は田原口で決戦を行い、赤松義雅は善戦しましたが力尽きて敗走しました。山名持豊の軍勢は坂本城へ到り、細川持常の大手軍と合流して包囲しました。坂本城は要害ではないため、赤松満祐は城を棄てて城山城へ移りました。赤松一族は城山城に籠城しましたが、山名一族の大軍に包囲されました。赤松義雅が逃亡して幕府軍に降服し、播磨の国人の多くも赤松氏を見放して逃げました。幕府軍が総攻撃を行い、覚悟を決めた赤松満祐は赤松教康や弟の赤松則繁を城から脱出させ、切腹しました。山名持豊は赤松満祐を討ち果たした事によって播磨守護職を与えられました。備前守護は山名教之、美作守護は山名教清が任ぜられました。また摂津の中島郡と播磨の明石・加東・美嚢三郡は御料所となり、中島郡は細川持賢、播磨三郡は赤松満政が分郡守護となりました。しかし、山名持豊は軍功として播磨一国支配を要求すると、赤松満政は失脚して三郡も山名持豊の支配下となります。赤松満政はこれを不服として播磨で挙兵しましたが、殺害されます。こうして、足利義満時代の「明徳の乱」で敗れて低下した山名氏の勢力は大きく拡大し、細川氏と力を競うようになります。また、脱出した赤松教康は義父・大河内顕雅を頼りますが拒まれて自害し、赤松満祐が擁立した足利義尊も討たれます。赤松満祐の弟・義雅は一族である赤松満政の陣に出頭して切腹し、息子千代丸(後の赤松時勝)の育成を託しました。またもう一人の弟である赤松則繁は九州に逃亡し、一時は朝鮮に渡るなどしましたが河内で討たれます。1454年、赤松満祐の甥の赤松則尚が赤松氏再興を掲げて播磨に侵入しますが、敗れて山名持豊に討ち取られます。分家の有馬氏出身の有馬持家・元家父子は8代将軍・足利義政の側近として活動していましたが、それぞれ赤松満政、則尚の反乱に連座して隠居に追い込まれました。1443年、三種の神器のうち、神璽が後南朝勢力に奪われる事件が発生しました(禁闕の変)。赤松氏の遺臣は後南朝勢力に潜入し、神璽を奪還して後南朝の後裔を殺害しました(長禄の変)。この功により赤松時勝の子・赤松政則は赤松氏の再興を認められ、加賀半国守護に任ぜられました。「応仁の乱」では旧領の三国をめぐって山名氏と争い、三国守護の座を奪還します。

次に、三船山合戦です。第二次国府台合戦で里見氏は、北条氏によって大敗を喫しました。このため、北条氏は里見義弘の上総北部・西部の里見領を悉く占領し、東部では里見氏の重臣であった正木時忠・土岐為頼の帰順に成功させました。更に里見義弘の居城である佐貫城を奪うため、三船山(君津・富津市境)の山麓にある三船台の地に砦を築き、北条家当主・氏政が総督しました。里見義弘は三船台の砦が出来た場合、南に1里しか離れていない佐貫城が危機に晒されると考えて三船台に駐屯する北条軍を攻撃しました。これを知った北条氏政は、太田氏資らと江戸湾を渡海して佐貫城攻撃に向かい、弟の北条氏照を原胤貞とともに別働隊を率いて市原方面から小櫃川沿いを遡って、里見義弘の父・義堯の居城である久留里城の攻撃に向かわせました。これに対して里見義弘は正木憲時とともに佐貫城を出撃して、三船台に集結した北条氏政の軍を攻撃しました。戦いは激闘となり、里見軍が北条軍を破りました。この時、殿を務めた太田氏資が戦死しました。また、北条・里見の両水軍の間でも激しい戦いが行われました。勢いに乗じた里見軍が北条軍を追撃する姿勢を見せたため、水陸から挟撃される事を恐れた北条軍は全軍を相模国に撤退させました。里見義弘はこの勝利により、北条方に奔った国人達の切り崩しに成功し、さらなる房総侵攻に成功しました。真里谷領は再び里見氏に属しました。北条氏からの助力を期待できなくなった正木時忠は里見氏に帰参し、土気・東金の両酒井氏も里見氏に従属を申し出ました。一旦は北条氏と和睦した常陸・佐竹氏も、再び上杉氏と同盟をしました。この敗戦が北条氏に与えた影響は大きく、武田氏との同盟も破れて関東経略の転換をせざるえなくなり、上杉氏と里見氏に同盟を申し入れる事になります。里見氏はこの申し入れを断り、上杉氏と北条氏に「越相同盟」がなると、佐竹氏とともに武田氏と「甲房同盟」を結びました。

その次に、北越戊辰戦争:坪穴・夏井、梨ノ木峠攻防戦です。新政府軍は「中条攻防戦」で芸州藩兵と新発田藩兵が列藩同盟軍に敗北しました。米沢藩討伐の命を受けて北上を開始した本隊が新発田に到着すると、米沢街道沿いに中条・佐々木・花立・貝附を経て下関に向かう米沢街道軍と、米沢街道の間道である菅谷道沿いに菅谷・鼓岡・坪穴・梨ノ木峠を経て下関に向かう菅谷道軍に分かれて進軍する事を決めました。一方の米沢藩ですが、中越戦線の敗北と新潟陥落を知った下関の米沢藩本営は、それまでの新発田藩討伐から米沢藩境防衛に戦略を改めました。米沢方面軍の菅谷道軍は胎内川に到着し、対岸に布陣する米沢藩兵に対して右翼軍:岩国藩建尚隊一番隊、中央軍:徴兵十二番隊、左翼軍:新発田藩兵1個小隊の布陣で攻撃を開始しました。米沢藩兵は善戦しますが、右翼軍の岩国藩兵と中央軍から援軍に来た徴兵十二番隊の半隊が一気に胎内川を渡河攻撃を仕掛けると、夏井村の陣地が陥落しました。続いて中央軍の徴兵十二番隊半隊も胎内川を渡河して対岸を占拠しました。夏井村が占拠されると、左翼軍の新発田藩兵も渡河攻撃を開始しました。大筒隊を率いる山岸哲蔵は新発田藩兵に挑みましたが、反撃を受けて戦死しました。こうして梨ノ木峠に敗走し、坪穴の陣地も陥落しました。坪穴・夏井で敗れた米沢藩兵ですが、梨ノ木峠の陣地に集結してこの地で新政府軍を防ぐために布陣しました。これに対し胎内川対岸の要地を占拠した新政府軍は部隊を入れ替え、それまで戦った岩国藩兵・徴兵隊・新発田藩兵に替わって長州藩干城隊七番隊・八番隊、そして黒川から援軍に来た薩摩藩外城一番隊が梨ノ木峠攻撃に向かいました。ついに梨ノ木峠は陥落し、午後四時頃に戦闘は終了しました。これにより列藩同盟軍は、下関村の本陣を捨てて沼村に後退しました。

その次の次に、大牟田爆発赤痢事件が発生です。1937年9月25日の夕方頃から大牟田市内で、多数の人々が高熱や嘔吐、痙攣を起こして次々に倒れる事件が発生しました。市内の各病院では大勢の患者の対応に追われる一方、死亡者が現れ始めました。当時の大牟田市の人口が11万人に対し、患者数は12332人、死者は712人と、市民の1割以上の人が罹患する大惨事となりました。内務省や陸軍省、福岡県、大牟田市、さらに九州帝国大学(現・九州大学)、長崎医科大学(現・長崎大学医学部)、熊本医科大学(現・熊本大学医学部)など様々な機関による調査の結果、原因は上水道の貯水井戸・第三源井を管理していた番人一家の幼児(赤痢菌の保菌者)のおむつを洗濯した汚水が、井戸の破損箇所から浸入した事が原因と断定されました。当時、大牟田市水道課長であった塚本久光は、市長・助役とともに引責辞任しました。後に厚生省は、水道汚染による伝染病集団発生の代表例として、世界史上例のない集団赤痢事件としてまとめています。

最後に、第二次世界大戦:マーケット・ガーデン作戦が終了です。「ノルマンディー上陸戦」でドイツ軍に大打撃を与えた連合軍は、急速な進撃を開始しました。パリを奪還し、イギリス第21軍集団揮下のカナダ第1軍がベルギー・アントウェルペン(アントワープ)を奪還しました。「マーケット・ガーデン作戦」は連合軍がドイツ国内へ進撃する上で大きな障害となるオランダ国内の複数の河川を越えるために、空挺部隊を使用して同時に多くの橋を奪取する作戦でした。オランダの港湾施設を使用可能状態にして、補給線が伸びきっていた連合軍の兵站問題を解決する上で重要な作戦でもありました。作戦は途中のナイメーヘンのライン橋の占領までは成功しましたが、作戦の最終到達点であったアーネム(アルンヘム)の最後の橋は、英軍の第1空挺師団が壊滅するなど大損害を受けたために奪取できませんでした。このため、連合軍はオランダ国内で勢力範囲を広げる事には成功したものの、オランダ国内の複数の橋を奪取して連絡線を確保するという目的は果たせず、作戦は失敗に終わりました。撤退はドイツ軍の傍受を想定して「ベルリン作戦」と呼ばれ、英軍およびカナダ軍の工兵部隊がニーダーライン川を14台のモーターボートと多数の上陸舟艇を使って渡河させ、ポーランド第3降下兵大隊が北岸を援護しました。しかし、ドイツ軍の攻撃が撤退作業を停止させため、ドイツ軍に降伏しました。英第1空挺師団の10000名の内、脱出できたのは2000名でした。

今日の誕生日:足利義満(室町幕府第3代将軍)、魯迅、石橋湛山(第55代内閣総理大臣)、北村総一朗、中山仁、マイケル・ダグラス、弦哲也、菊地秀行、木内みどり、どおくまん、カール・ハインツ・ルンメニゲ、多田かおる、豊原功補、長谷川健太、スタニスラフ・ブーニン、ウィル・スミス、アジャ・コング、清水美沙、リサ・ステッグマイヤー、堀口文宏(あさりど)、早坂好恵、伊地知潔(ASIAN KUNG−FU GENERATION)、大櫛エリカ(元Say a Little Prayer)、内山信二、MEGUMI、徳永悠平、あばれる君、時東ぁみ、浅田真央、荒井玲良(元SUPER☆GiRLS)、橋本瑠果(元アイドリング!!!33号)、小林星蘭

今日の記念日:藤ノ木古墳記念日、主婦休みの日、山田邦子の日、骨董の日

今日の「今日訓」:本日は、江戸時代の戯作者で「骨董」の語を広く知らしめた「骨董集」を刊行した山東京伝が「骨董集 巻之三」に記した日付の「文化十二乙亥九月二十五日」から「骨董の日」、1985年9月25日に、奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳の石室等が発掘された事を記念して「藤ノ木古墳記念日」となりました。また、1月25日、5月25日、9月25日の年3回の「主婦休みの日」の一つです。「1.家事や育児に頑張る主婦がリフレッシュできる日、2.家族が元気になってニッポンも元気になる日、3.夫や子どもが家事にチャレンジする日&パパと子どもが一緒に行動する日」としています。「く(9)に(2)こ(5)」の語呂合わせで「山田邦子の日」となりました。

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