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2020年09月24日00:11

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9月24日の日記

今日の出来事:今日の出来事:1338年−足利尊氏が北朝から征夷大将軍に任ぜられる、1868年−秋田戊辰戦争:十二所の戦い(盛岡藩参戦)、1877年−西南戦争:城山の戦い、西郷隆盛らが自刃し、西南戦争が終結、1948年−本田技研工業設立

今日は、足利尊氏が北朝から征夷大将軍に任ぜられるです。足利高氏は鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇から勲功第一とされ、従四位下に叙し、鎮守府将軍・左兵衛督に任じられ、30箇所の所領を与えられました。さらに天皇の諱「尊治」から偏諱を受け「尊氏」と改名しました。北条高時の遺児・北条時行を擁立した北条氏残党の反乱「中先代の乱」が起こり、北条時行の軍勢は鎌倉を占拠しました。足利直義は鎌倉を脱出する際に独断で護良親王を殺害しました。足利尊氏は後醍醐天皇に「征夷大将軍」の官職を望みましたが許されず、天皇の許可を得ないまま軍勢を率いて鎌倉に向かいました。天皇はやむなく「征東将軍」の号を与えました。足利尊氏は直義の軍勢と合流し「相模川の戦い」で北条時行を駆逐して、鎌倉を回復しました。足利尊氏はそのまま鎌倉に本拠を置き、独自に恩賞を与えはじめました。京都からの上洛の命令を拒んで、独自の武家政権創始の動きを見せはじめました。天皇は新田義貞に尊良親王を伴わせて、足利尊氏討伐を命じました。さらに奥州から北畠顕家が南下しました。足利直義・高師直などの足利方が各地で劣勢となると、足利尊氏は彼らを救うため天皇に叛旗を翻す事を決意し「直義が死ねば自分が生きていても無益である」と宣言すると出馬しました。足利尊氏は新田軍を「箱根・竹ノ下の戦い」で破り、京都へ進軍をしました。しかし、奥州から上洛した北畠顕家と楠木正成・新田義貞の攻勢に晒されて、「豊島河原の戦い」で新田軍に大敗を喫しました。足利尊氏は、赤松円心の進言を容れて京都を放棄して九州に下りました。九州への西下途上、長門国赤間関で少弐頼尚に迎えられ、筑前国宗像大社の宗像氏範の支援を受けました。宗像大社参拝後、「多々良浜の戦い」で菊池武敏らを破り、大友貞順(近江次郎)ら天皇方勢力を圧倒して勢力を立て直した足利尊氏は、光厳上皇の院宣を獲得し、西国の武士を傘下に集めて再び東上しました。そして、「湊川の戦い」で新田義貞・楠木正成の軍を破り、京都を再び制圧しました。後醍醐天皇は京を脱出して吉野へ逃れ、光明天皇に譲った「三種の神器」は偽物であり、自らが帯同したものが本物であると称して独自の朝廷を樹立しました。以後、吉野の朝廷は「南朝」、京都の朝廷は「北朝」と呼ばれます(南北朝併立)。足利尊氏は「北朝」の光明天皇から「征夷大将軍」に任じられ、室町幕府が成立しました。

次に、秋田戊辰戦争:十二所の戦い(盛岡藩参戦)です。盛岡藩家老・楢山佐渡によって秋田征伐が決定した盛岡藩は、花輪に楢山佐渡・石亀左司馬、毛馬内に向井蔵人・桜庭祐橘・足沢内記の各軍が集合しました。そこで、初めて久保田藩討ち入りの事が正式に発表されました。すでに十二所守将の茂木筑後あてに、楢山佐渡・向井蔵人連名の戦書が届けられていました。奥羽列藩同盟の脱退を理由に戦闘を始める事を告げました。南部軍が沢尻村方面から、楢山佐渡が率いる7つの小隊と大砲1隊の総勢1200人が進撃してきました。対する秋田側の総兵力は300人でした。新式銃を装備する南部兵に対して、秋田側は火縄銃ばかりであり、その劣勢は明らかでした。戦闘は午前8時に始まりました。藩境の沢尻村が突破され、秋田兵は三階橋を挟んで交戦しました。南部軍はつぎつぎと別手組を繰り出してきました。米代川対岸の葛原口でも、地蔵沢を越えて突入してきた向井・桜庭の両部隊が十二所に迫っていました。戦闘わずか1時間あまりで秋田側は総軍退却を余儀なくされました。十二所兵は十二所の本陣へ火をつけ、途中の大滝温泉にも火をつけ、岩瀬村まで撤退しました。十二所勢は大館から応援に来ていた根本源三郎隊に撤退を連絡をせず、また大館城にも戦書を受け取った事と戦闘開始を連絡していませんでした。大館城に情報が伝わったのは午前11時でした。雪沢口から攻め込んだ盛岡藩の足沢内記・三浦五郎右衛門の部隊は、村々へ火をかけながら進撃し、大館城の出丸・鬼ケ城を攻めましたが撤退しました。

最後に、西南戦争:城山の戦いです。政府軍は、城山を包囲しました。政府軍参軍・山県有朋中将が鹿児島に到着すると、可愛岳の二の舞にならないよう「包囲防守を第一として攻撃を第二とする」という策をたてました。9月19日、西郷軍の山野田一輔・河野主一郎が西郷隆盛の救命のためである事を西郷と桐野利秋に隠し、挙兵の意を説くためと称して軍使となって、西郷の縁戚である参軍・川村純義海軍中将のもとに出向き、捕らえられました。9月22日、西郷隆盛は「城山決死の檄」を出し、決死の意を告知しました。23日、軍使・山野田一輔が持ち帰った参軍・川村純義からの降伏の勧めを無視し、参謀・山県有朋からの西郷宛の自決を勧める書状にも西郷は返事をしませんでした。9月24日午前4時、政府軍砲台から3発の砲声を合図に政府軍の総攻撃が始まりました。この時、西郷隆盛・桐野利秋・桂久武・村田新八・池上四郎・別府晋介・辺見十郎太ら将士40余名は西郷が籠もっていた洞窟の前に整列し、岩崎口に進撃しました。進撃に際して国分寿介・小倉壮九郎が剣に伏して自刃しました。途中、桂久武が被弾して斃れると、弾丸に斃れる者が続き、島津応吉久能邸門前で西郷隆盛も股と腹に被弾しました。西郷隆盛は、負傷して駕籠に乗っていた別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここでよかろう」と言い、将士が跪いて見守る中、跪座し襟を正し、遙かに東方を拝礼しました。遙拝が終わり、切腹の用意が整うと、別府晋介は「ごめんなったもんし(お許しください)」と叫ぶや、西郷隆盛を介錯しました。その後、別府晋介はその場で切腹しました。西郷の切腹を見守っていた桐野利秋・村田新八・池上四郎・辺見十郎太・山野田一輔・岩本平八郎らは再び岩崎口に突撃し、敵弾に斃れ、自刃し、或いは私学校近くの一塁に籠もって戦死しました。挙兵の意を法廷で主張すべきと考えていた別府九郎・野村忍介・佐藤三二・神宮司助左衛門らは熊本鎮台の部隊に、坂田諸潔は第4旅団の部隊にそれぞれ降伏しました。「西南戦争」による政府軍死者は6403人、薩摩軍死者は6765人に及びました。明治初期の一連の士族反乱のうち最大規模で日本最後の内戦となりました。

今日の誕生日:三浦按針、高島秋帆、ルーホッラー・ホメイニー、コンスタンティン・チェルネンコ、筒井康隆、田淵幸一、真行寺君枝、KAN、甲斐谷忍、羽田美智子、田原健一(Mr.Children)、大久保伸隆(元Something Else)、斎藤恭央(桜塚やっくん、元あばれヌンチャク)、リア・ディゾン、早乙女太一、瀧野由美子(STU48)、永野芽郁、空豆タロウ

今日の記念日:清掃の日、畳の日、歯科技工士記念日

今日の「今日訓」:本日は、1971年に「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」が施行された事で「清掃の日」、この「清掃の日」にちなんで「畳の日」、1955年に「日本歯科技工士会」が発足した事で「歯科技工士記念日」となりました。
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