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2020年09月22日00:24

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9月22日の日記

今日の出来事:1375年−南北朝動乱:水島の変、1565年−堂洞合戦、1689年−奥の細道:松尾芭蕉が福井吉崎に到着、1862年−長州藩士・来原良蔵自刃、1868年−北関東戊辰戦争:船生の戦い、1868年−仙台戊辰戦争:黒木の戦い、1868年−北越戊辰戦争:中条攻防戦

今日は、南北朝動乱:水島の変です。水島の変は、九州探題・今川了俊が筑前守護・少弐冬資を、肥後・菊池郡水島で暗殺した事件です。1371年に九州探題として派遣された今川了俊は、翌年に南朝の懐良親王と菊池武光が拠点としていた大宰府を陥落させて根拠地としました。更に、菊池武光が病死、子・武政が戦傷が元で死去すると、南朝方の新本拠地となった筑後・高良山を陥落させました。これに対して鎌倉幕府以来、筑前を支配をしていた北朝方の少弐氏は筑前の支配権を今川了俊に奪われる事を危惧し、非協力的な態度を取るようになりました。1375年、今川了俊は菊池氏の本拠である肥後への侵攻を本格化させて、8月9日に水島に兵を進めました。その際、九州の3名の有力守護である大隅守護・島津氏久、豊後守護・大友親世、筑前守護・少弐冬資を肥後・水島の今川了俊の元に召集しました。大友親世と島津氏久が9月7日迄に来陣しましたが、少弐冬資は参陣を拒みました。両者の対立を憂慮する島津氏久の説得によって、少弐冬資は水島に参上しました。しかし、9月22日に今川了俊は少弐冬資を自陣で歓待するとして歓迎の宴を催すと、その最中に山内通忠が少弐冬資を組み伏せ、今川仲秋が斬って謀殺しました。今川了俊は、島津氏久の元へ使いを出して誘殺の理由を述べました。面目を潰された島津氏久は激怒して兵を率いて帰国し、以後は今川了俊と絶縁しました。大友親世は、今川了俊より豊後諸所の地頭職を与えられましたが、中立的な態度に転じました。これを見た菊池軍は、水島陣の後背である筑後国で蜂起しました。9月25日、今川了俊が鎮圧に向かわせた長井貞広、宇都宮経景らが討死する大敗を喫しました。今川了俊は、水島からの撤退を余儀なくされましたが、自ら筑前守護の兼務を宣言、後に少弐冬資の甥・貞頼に守護職を譲りましたが、筑前の実権を掌握しました。

次に、堂洞合戦です。堂洞合戦は、織田信長軍・加治田衆と斎藤龍興方の岸信周との間で行われた合戦です。織田信長の美濃侵攻に備え、関城主・長井道利、加治田城主・佐藤忠能、堂洞城主・岸信周の間で盟約が結ばれ、長井道利の勧めで佐藤忠能の娘・八重緑を岸信周の養女(人質)とする事で結束が固められました。しかし、佐藤忠能は加治田城下の住人・梅村良澤を犬山に遣わし、丹羽長秀を介して織田信長と内応しました。その後、鵜沼城、猿啄城が織田軍によって落城し、猿啄城将・多治見修理亮が甲斐へ逃走すると敗兵は堂洞城に入って岸勢と合流しました。織田信長は、金森長近を使者として堂洞城へ派遣して投降を勧めました。しかし、岸信周は受け入れず、嫡男・信房は金森長近の目の前で自分の子の首を斬り落として覚悟を示しました。岸方が合戦の準備をする中、人質の八重緑は堂洞城に面した長尾丸山で磔にされました。その夜、佐藤忠能の家臣・西村治郎兵衛が八重緑の遺骸を奪い取り、加治田の龍福寺へ葬りました。西と南より、織田信長軍の丹羽長秀、河尻秀隆、森可成、北の加治田より、佐藤忠能軍が四隊に分かれて堂洞城を攻撃しました。これに対し、堂洞城では南と西を岸信周、北を岸信房が守備しました。織田信長は高畑山に本陣を置いて堂洞・関間を分断し、関城から長井道利の援軍が津保川を越して高畑の林に侵入したところを撃退しました。織田信長は自ら馬を乗りまわし、諸部隊を指揮しました。西の織田軍は地形が険祖な上、岸勢の伏兵により防御が堅個なため進撃を阻まれました。北の佐藤忠能父子が陣頭に立った攻撃軍は、勝手知った山道を攻め上がりました。防衛側の大将・岸信房は、寄せ手を何度も撃退しました。しかし、戦闘が長引くと多数の兵が傷つき討たれ、自身も3か所に傷を負って腹を十文字に掻き切って自刃しました。南からの攻撃軍は、太田牛一が弓で敵を射って手柄を立てました。岸勢は18度の駆け合いで兵卒が死傷しながらも一歩も退かずに戦い、岸信周の妻も長刀を振り回して勇戦しました。しかし、日が傾く中で織田軍は河尻秀隆、森可成が天主構へ乗り入れ、丹羽長秀が本丸に攻め込みました。敵味方も分からない乱戦の中、岸信周夫妻は辞世の歌を詠んで刺し違えました。岸信周の弟・信貞も必死の防戦後に討死して、堂洞城は落城しました。

その次に、奥の細道:松尾芭蕉が福井吉崎に到着です。芭蕉は、蓮如の吉崎御坊でゆかりの地、越前と加賀との国境、吉崎の入り江に舟を出して「汐越しの松」を見に行きました。西行が詠んだこの句「夜もすがら 嵐に波を はこばせて 月をたれたる 汐越の松」 「この一首ですべては言い尽くされた。もしこれに、何かを加えようと言うのであれば、それは五本の指にもう一本指を加えるに等しく無駄以外の何物でもない。」と句を残しませんでした。

その次の次に、長州藩士・来原良蔵自刃です。来原良蔵は、1851年に江戸に上り、朱子学者・安積艮斎に師事しました。江戸在中に、吉田松陰や桂小五郎らと交流を持ち、松陰の脱藩を支援した咎で譴責されました。翌年、萩に戻って「先鋒隊」に入隊しました。浦賀沖にペリー提督が黒船で来航すると、江戸に上って浦賀周辺の形勢を視察しました。森重武兵衛に砲術を学び、1854年に来島又兵衛らと「忠義会」を結成しました。その後、相模国警備にあたり、浦賀奉行与力・中島三郎助に入門して合薬製造掛となって銃器の扱いを修練しました。1856年に萩に戻り、周布政之助による嚶鳴社復興に加わりました。桂小五郎の妹・ハルを妻とし、1858年に御手当方内用掛となりました。そして、長崎での長崎海軍伝習に加わりました。1859年、明倫館助教兼兵学科総督に就任し、山田亦介らと旧態依然とした長州藩の軍制改革を行いました。軍制規則制定、教練の実行等、長州藩兵の近代化と強化に非常に大きな功績を挙げました1861年には、洋式兵学者・中島名左衛門喜勝を明倫館へを招聘しました。その頃、母方の従兄弟で「航海遠略策」を唱える開国派の重臣・長井雅楽時庸と対立しましたが、後に和解しました。公武周旋のため、肥後・熊本と薩摩・鹿児島へ出張しました。しかし、藩論が「開国」から「攘夷」に急展開すると上京し、久坂玄瑞らと長井雅楽を除くために奔走しました。この「長井雅楽暗殺未遂事件」の際に、責任を取って自害をしたいと申し出ましたが、拒否されました。死地を求めた来原良蔵は江戸へ上り、横浜の外国公使館襲撃を企てましたが失敗し、毛利定広に諌められ、長州藩江戸藩邸にて自害しました。享年34でした。遺体は芝の青松寺に葬られましたが、1882年に松陰神社に改葬されました。初代内閣総理大臣・伊藤博文は、来原良蔵が浦賀での警備中にその才を見出して部下としました。来原良蔵の薦めで、伊藤博文は「松下村塾」に入塾しました。長崎での海軍伝習にも付き従いました。伊藤博文は、来原良蔵の死後もその遺志を継いで活動し、彼を終生師匠として仰ぎました。

そのまた次に、北関東戊辰戦争:船生の戦いです。大鳥圭介と山川大蔵が藤原を去った後、残った会幕軍が船生を襲撃しました。第三大隊、「草風隊」と宇都宮藩兵の戦闘となりました。しかし、会幕軍は短時間で攻撃をやめると民家に放火して藤原に引揚げました。この戦いで、「草風隊」差図役の佐倉藩士・小柴小次郎重稷が負傷し、日新館病院で自害しました。

そのまた次の次に、仙台戊辰戦争:黒木の戦いです。新政府軍は黒木の仙台藩兵に向け、降伏したばかりの相馬中村藩兵に攻撃を命じました。相馬中村藩は5小隊と1砲隊をもって黒木へ向けて進撃しました。これを迎え撃つ仙台藩兵は相馬中村藩の降伏で士気が上がらない上に、そのかつての友軍の攻勢を受けて戦意を崩壊した部隊が多発し、戦わずして多数の部隊が退却しました。遠藤主悦の率いる3小隊だけが、踏みとどまって相馬中村藩の攻勢を防ぎました。この遠藤主悦の働きに後退していた残余の仙台藩の部隊が引き返しました。反撃を受けた相馬中村藩は苦境に陥りました。相馬中村藩の不利が鮮明になったところで、中村城から長州藩と徴兵隊が救援に出撃しました。黒木の仙台藩兵は新手を支えきれずに壊走し、仙台藩国境まで撤退しました。この戦いで新政府軍は黒木まで前進し、仙台藩兵は国境に兵力を集結させました。

最後に、北越戊辰戦争:中条攻防戦です。黒田清隆が率いる海上別働隊が新発田藩領の太夫浜に上陸し、新発田藩を通じて近隣の下越地方の藩に恭順を求める書状を送りました。この書状は越後最北の藩である村上藩にも届きました。しかし、北の庄内藩、東の米沢藩と言う大藩に挟まれた村上藩は、庄内藩に援軍を求めました。村上藩の求めに応じて庄内藩の酒井正太郎隊(2個小隊)と中村次郎兵衛が率いる農兵隊が村上藩に到着しました。中村次郎兵衛と村上藩士・平井伴右衛門が米沢藩の下関本営に来訪し、三藩兵による中条への夜襲と言う共同作戦を提案し、米沢藩もこの提案を受諾しました。こうして、米沢・庄内・村上の列藩同盟軍は、新政府軍(芸州藩兵と新発田藩兵)が守る中条に進軍しました。まず先陣として米沢藩兵が攻撃を開始しましたが、米沢藩兵は新発田藩兵の持つ砲二門を攻めあぐねて後退しました。しかし、庄内藩兵と村上藩兵が前進し、芸州藩兵と新発田藩兵が籠る陣地に攻撃を開始すると、新発田藩兵が崩れて敗走しました。米沢藩兵が再び攻撃に加わると、芸州藩兵も陣地を捨てて中条の町に後退しました。列藩同盟軍は中条に後退した芸州藩兵と新発田藩藩兵を追って市街戦に突入しました。芸州藩兵と新発田藩兵は、芸州藩半隊長の川村常之進を始め多数の死傷者を出して三日市を目指して敗走しました。

今日の誕生日:横井小楠、吉田茂(第45、48、49、50、51代内閣総理大臣)、ヴィルヘルム・カイテル、平塚八兵衛、岡田眞澄、谷沢健一、志垣太郎、石毛宏典、鈴木雅之(ラッツ&スター)、石井竜也(米米CLUB)、ふせえり、橋本潮、ルビー・モレノ、緒形直人、渡辺真美(元B.B.クイーンズ、元Mi−Ke)、徳永暁人、ボブ・サップ、ロナウド、渋谷すばる(元関ジャニ∞)、北島康介、今井絵理子(SPEED)、成田童夢、美波、ヒョヨン(少女時代)、ナヨン(TWICE)、里吉うたの(BEYOOOOONDS)、高橋ひかる

今日の記念日:秋分の日、秋の彼岸の中日、お墓参りの日、カーフリーデー、国際ビーチクリーンアップデー、世界サイの日、フィットネスの日、B.LEAGUEの日

今日の「今日訓」:本日は、二十四節気の一つ「秋分」です。「春分」と同様に、「秋分」は昼夜の長さがほぼ同じになります。ハッピーマンデー法により、「敬老の日」前々日の土曜から5連休となる場合があります。この連休は「シルバーウィーク」と呼ばれ、2009年が第1回でした。第2回は、2015年でした。第3回目ですが、2020年は敬老の日が9月21日になりますが、「秋分の日」が9月22日となる見込み(天文計算上)で、4連休になる予定です。残念ながら、2026年まで5連休はありません。また、「秋の彼岸の中日」で、仏教各派では「秋季彼岸会」が行われ、宗派を問わず墓参りをする人が多いです。「彼岸」とは悟りの境地のことで、この世の向こう側を指します。暦の上では「秋分」がその中日にあたり、前後それぞれ3日を合わせた7日間を「彼岸」と称します。秋の彼岸の供物は、おはぎです。「秋分の日」から「お墓参りの日」、都市の中心部でマイカーを使わない事で、交通や環境、都市生活と車の使い方の問題について考える「カーフリーデー」、世界各地で一斉に海岸のごみを拾い集め、その数量・種類等を調べる事によって海洋のゴミの発生元や地球環境への影響を調査する「国際ビーチクリーンアップデー」、現存する5種の全てが絶滅に瀕している「サイ」の現状を広く理解し、保護するためWWF(世界自然保護基金)が提唱した「世界サイの日」です。サイについて知ってもらうために、世界中の自然保護機関や動物園で様々な催しが行われています。1987年9月22日に「日本フィットネス協会」が公益法人として設立された事で「フィットネスの日」、2016年に男子プロバスケットボールのトップリーグ「B.LEAGUE」が開幕した事で「B.LEAGUEの日」となりました。
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