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2020年09月20日00:32

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9月20日の日記

今日の出来事:紀元前481年−ペルシア戦争:サラミスの海戦、1575年−越前一向一揆壊滅、1689年−奥の細道:松尾芭蕉が大聖寺に到着、1807年−永代橋崩落、1862年−長野主膳斬首、1868年−秋田戊辰戦争:湯沢の戦い、亀田藩降伏、本荘落城、山田合戦、1869年−明治政府が蝦夷地を「北海道」と改称、1875年−江華島事件、1987年−おニャン子クラブが代々木第一体育館でのライブを最後に解散

今日は、ペルシア戦争:サラミスの海戦です。ギリシアのサラミス島近海で、ギリシア艦隊とペルシア艦隊の間で行われた海戦です。ギリシア艦隊が勝利をおさめ、「ペルシア戦争」は新たな局面を迎える事になります。この海戦で、ギリシャ艦隊は46隻の軍艦を失いましたが、ペルシャ艦隊は200隻の軍艦と4万名の兵士を失いました。

次に、越前一向一揆壊滅です。朝倉氏が滅亡後、越前を支配した一向一揆でしたが、1575年に一揆衆内部で分裂が始まりました。本願寺顕如が越前「守護」として派遣した下間頼照や大野郡司の杉浦玄任、足羽郡司の下間頼俊、府中郡司の七里頼周ら大坊主たちが、前年に討伐した朝倉氏旧臣の領地を独占してしまいました。さらに、織田軍との臨戦態勢下にあると称して、重税や過酷な賦役を越前在地の国人衆や民衆に課しました。このため、大坊主らの悪政に対して越前の天台宗や真言宗らが反発し、真宗高田派(専修寺派)をはじめ国人衆や民衆、遂には越前の一向門徒までが反発しました。一方の信長は、この年から領国全域で道路や橋を整備するなど、各地での戦いに備えていました。そして、「長篠の戦い」で武田勝頼に大勝した信長は、越前の一向一揆の分裂を好機として越前への侵攻を決めました。信長は9月16日に岐阜を出発し、翌17日に羽柴秀吉の守る小谷城に宿泊しました。ここで小谷城から兵糧を出し、全軍に配りました。18日、織田軍は敦賀城に入りました。一揆勢の配置は以下でした。板取城:下間頼俊と加賀・越前の一揆勢、木ノ芽峠:石田西光寺と一揆勢、鉢伏城:専修寺の住持、阿波賀三郎・与三兄弟、越前衆、今城・火燧城:下間頼照、大良越・杉津城:大塩の円強寺衆と加賀衆、海岸に作られた城:若林長門守・甚七郎父子と越前衆、府中・龍門寺:三宅権之丞、この他、西国の一揆勢も加わっていました。9月19日、風雨の強い日でしたが、織田軍は大良を越えて越前に乱入しました。信長が率いる織田軍は3万余で、佐久間信盛、柴田勝家、滝川一益、羽柴秀吉、明智光秀、丹羽長秀、簗田広正、細川幽斎、原田直政、蜂屋頼隆、荒木村重、稲葉一鉄、稲葉貞通、氏家直昌、安藤守就、磯野員昌、阿閉貞征、阿閉貞大、不破光治、不破直光、武藤舜秀、織田信孝、織田信澄、織田信包、織田信雄などでした。そして、最前列は越前衆と浪人が進みました。一揆勢は分裂しており、越前衆の中にも織田側についた者がいました。海上からは、水軍数百艘が進みました。粟屋越中、逸見駿河、粟屋弥四郎、内藤筑前、熊谷伝左衛門、山県下野守白井、松宮、寺井、香川、畑田、そして丹後の一色義定、矢野、大島、桜井などの水軍は浦や港に上陸し、あちこちに放火しました。対する一向一揆側は、円強寺勢と若林長門親子が攻撃しましたが、羽柴秀吉・明智光秀が打ち破りました。羽柴隊・明智隊は200〜300人を討ち取ると、彼らの居城である大良越・杉津城や海岸の新城に乗り込んで焼き払いました。討ち取った首はその日のうちに敦賀の信長に届けられました。この日の夜、織田勢は府中龍門寺に夜襲をかけて三宅権之丞を討ち取り、近辺に放火しました。背後を攻撃された木ノ芽峠、鉢伏城、今城、火燧城の一揆勢は驚いて、府中に退却しました。しかし、府中では羽柴秀吉、明智光秀が待ち受けており、2000余りが討ち取られました。木ノ芽峠には2000の一揆勢がいましたが、西光寺真敬が討死し陥落しました。鉢伏城には、専修寺賢会が率いる2500が籠城していましたが、賢会が討死して落城、阿波賀三郎・与三兄弟は許しを求めましたが、信長は許さずに原田直政に殺させました。杉津城は、堀江景忠が守っていましたが、織田の大軍が来襲して来た事を知ると、森田三左衛門や堺図書助らと共に内応して裏切りました。板取城の下間頼俊、火裡城の下間頼照、そして今庄の七里頼周は逃亡しました。こうして一向一揆は完全に崩壊し、一揆衆は組織的な抵抗が出来なくなりました。20日、信長は馬廻をはじめとした兵1万を率いて敦賀を出発し、府中龍門寺に布陣すると、今城に福田三河守を入れて通行路を確保させました。ここで朝倉景健が、山中に隠れていた下間頼俊、下間頼照、専修寺の住持の首を斬って持参し、信長に赦免を請いましたが、許されずに殺されました。この時、朝倉景健の家臣の金子新丞父子・山内源右衛門の3人が切腹して殉死しました。柴田勝家、丹羽長秀、織田信澄の3人が朝倉景忠の鳥羽城を攻撃し、敵勢500〜600を討ち取って陥落させました。金森長近、原長頼は美濃口から根尾〜徳山経由で大野郡へ入り、数箇所の小さな城を落として多数を斬り捨て、諸口へ放火しました。一揆は完全に崩壊し、取るものも取りあえず右往左往しながら山中へ逃げていきました。しかし、信長は殲滅の手をゆるめず、「山林を探し、居所が分かり次第、男女を問わず斬り捨てよ」と命令しました。織田軍により一揆衆1万2250人以上が討ち取られました。さらに奴隷として尾張や美濃に送られた数は3万〜4万余に上るとされています。こうして、越前から一向衆は完全に駆逐されました。信長は越前8郡75万石を柴田勝家に与え、北ノ庄城主に命じました。越前府中10万石は前田利家、佐々成政、不破光治に均等に与えられ、「府中三人衆」として柴田勝家の補佐・監視役を担う事になります。また、大野3万石は金森長近に、2万石は原長頼に与えられました。ここに、柴田勝家を総司令官とする織田家の北陸軍団が誕生したのです。

その次に、奥の細道:松尾芭蕉が大聖寺に到着です。芭蕉と別れた河合曾良は大聖寺に向かい、全昌寺に泊まりました。「よもすがら 秋風聞くや うらの山」と、師と別れての一人旅で一晩中眠れなかった様子を詠み残していました。芭蕉は小松を出発して大聖寺に向かい、同じ全昌寺に泊まりました。何時間か前に曾良が旅立った事を知って芭蕉は「一夜のへだて千里に同じ」と残念がりました。「庭掃いて 出でばや寺に 散る柳」(この寺に散る柳の葉を掃き清めて、出立したい。)と書き残して旅立ちました。

その次の次に、永代橋崩落です。永代橋は、隅田川で四番目に作られた橋です。1698年に江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉の50歳を祝して、架橋されました。現在の位置よりも100m上流、「深川の渡し」のあった場所です。「永代橋」という名称は、徳川幕府が末永く代々続くようにという願いを込めて付けられました。架橋を行ったのは関東郡代・伊奈忠順です。上野寛永寺・根本中堂造営の際の余材を使いました。長さ約200m、幅約6mで当時としては最大規模の大橋でした。橋上からは「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総」と称されるほど見晴らしの良い場所であったと記録されています。1702年の「赤穂浪士の討ち入り」では、討ち入り後に吉良上野介の首を掲げて永代橋を渡り、泉岳寺へ向かいました。幕府財政が窮地に立った1719年、幕府は永代橋の維持管理を諦めて廃橋を決めましたが、町民衆の嘆願によって橋梁維持に伴う諸経費を町方が全て負担する事を条件に存続を許されました。通行料を取り、橋詰で市場を開くなどして維持に務めましたが、1807年9月20日、深川・富岡八幡宮の12年ぶりの祭礼日に詰め掛けた群衆の重みに耐え切れず、落橋事故を起こしました。橋の中央部よりやや東側の部分で数間ほどが崩れ落ち、後ろから群衆が次々と押し寄せては転落しました。死者・行方不明者は実に1400人を超え、史上最悪の落橋事故となりました。この事故について大田南畝が、狂歌「永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼」や「夢の憂橋」を著しました。事故後、橋の維持の重要性に気付いた幕府により再架橋されました。その後、1897年に道路橋としては日本初の鉄橋として、鋼鉄製の「トラス橋」が現在の場所に架橋されました。1904年には東京市電による路面電車が敷設されました。しかし、橋底には木材を使用していたため、「関東大震災」の時には多数の避難民とともに炎上し、多くの焼死者、溺死者を出しました。その後、1926年に震災復興事業の第一号として現在の橋が再架橋されました。「震災復興事業の華」と謳われた「清洲橋」に対して、「帝都東京の門」と言われたこの橋は、ドイツ ライン川に架かっていた「ルーデンドルフ鉄道橋」をモデルにし、現存最古の「タイドアーチ橋」で日本で最初に径間長100mを超えた橋となりました。現在、東京大学工学部1号館に架橋当時の「永代橋」のレプリカモデルが存在します。2000年に「清洲橋」と共に土木学会の「第一回土木学会選奨土木遺産」に選定されました。2007年6月18日、都道府県の道路橋として初めて「勝鬨橋」、「清洲橋」と共に「永代橋」が国の「重要文化財」に指定されました。

そのまた次に、長野主膳斬首です。長野主膳は、江戸時代末期の国学者で大老・井伊直弼の家臣です。本居宣長の「国学」に興味を持ち、1841年に近江国・坂田郡志賀谷村に私塾「高尚館」を開きました。1842年、当時は部屋住みであった井伊直弼が、この私塾に興味を持って訪問しました。この時、長野主膳と井伊直弼は師弟関係を結びました。その後、井伊直弼が兄・直亮の死を受けて彦根藩主となると、長野主膳は招聘されて藩校「弘道館」の国学方に取り立てられました。さらに、井伊直弼の藩政改革に協力しました。彦根藩士・宇津木六之丞は藩の公用人となり、通商条約締結のために長野主膳が外部情報を集める一方で、藩論を纏めるために奔走しました。長野主膳と宇津木六之丞は、井伊直弼からの厚い信任を得ました。1858年に一橋派と南紀派による「将軍継嗣問題」が起こると、その処理に活躍しました。長野主膳は井伊直弼の命で京都に赴いて、公家衆らへの裏工作を行って南紀派が推薦する徳川慶福(家茂)擁立に貢献しました。しかし、直後の「安政の大獄」で井伊直弼に対して一橋派の処罰や尊王攘夷派の志士の処罰を進言したため、「影の大老」と呼ばれて井伊直弼に次いで恨まれる存在となりました。井伊直弼が「安政の大獄」を行ったのは、島田左近などを通じて朝廷内部の動向に関する情報収集に当たっていた長野主膳が「戊午の密勅」を察知する事に失敗し、水戸藩士の「策謀」を過度に進言した事が要因になりました。1860年、井伊直弼が「桜田門外の変」で暗殺された後も彦根藩の藩政に参与しましたが、跡を継いだ藩主・井伊直憲から疎まれ、家老・岡本半介に井伊直弼時代の功績や厚遇などを嫉視されて対立しました。そして1862年9月20日、「文久の改革」で井伊家が問罪されると、岡本半介の進言を聞き入れた井伊直憲によって斬首・打ち捨ての刑に処されました。享年48でした。12月27日には、宇津木六之丞も処刑されました。享年54でした。長野主膳や宇津木六之丞が粛清されたのは、島津久光の率兵上京による幕政刷新、井伊政権精算の圧力に自主的に対応したためでした。彦根藩は10万石減封、藩祖・井伊直政以来の「京都守護」の地位剥奪など追罰は免れえませんでした。しかし、長野主膳、宇津木六之丞に井伊直弼の「失政」の全責任を負わせた結果、彦根藩では他藩のような内訌は起きず、「王政復古」後の政局に巧みに対応して新政府軍に加わる事が出来ました。

そのまた次の次に、秋田戊辰戦争:湯沢の戦い、本荘落城、亀田藩降伏、山田合戦です。
湯沢の戦い:山道口の庄内軍・惣右衛門隊と権蔵隊を先鋒にして、山形藩兵と共に横堀を出発しました。雄物川の対岸をひそかに進み、山田村に出ました。ここに山形兵を残すと、雄物川を舟で渡って湯沢へ奇襲上陸しました。守将の佐竹三郎は、すでに横手に逃亡していました。館には若干の久保田藩兵が守備していましたが、列藩同盟軍が鬨の声をあげて攻撃すると、久保田兵は潰走しました。惣右衛門隊が表門を壊し、分隊長・野沢権内が邸内を捜索しましたが、敵兵はいませんでした。庄内軍は湯沢に本営を置きました。
本荘落城、亀田藩降伏:海道口では弘前藩、本荘藩、亀田藩、福岡兵が庄内四番大隊と4時間に及ぶ銃撃戦を展開しました。庄内軍の援軍により、新政府軍は退却しました。そこで、奥羽鎮撫府参謀・前山清一郎が久保田軍と福岡軍と共に援軍に来て、庄内軍を攻撃しました。久保田軍は突撃刀槍隊で、切り込みを敢行しました。しかし、最終的には新政府軍が退却し、本荘藩主・六郷政鑑は城に火を掛け逃亡し、本荘城が奪われました。亀田藩主・岩城隆邦は庄内藩に降伏しました。
山田合戦:久保田藩兵と弘前藩の成田求馬隊は、山田村で庄内藩軍と衝突しました。成田求馬隊は全滅し、成田求馬は自刃しました。これが、弘前藩の「戊辰戦争」での最初の犠牲となりました。

さらに次に、明治政府が蝦夷地を「北海道」と改称です。この島の先住民であるアイヌの言葉(アイヌ語)では「アイヌモシリ」(人間の住む土地)と呼ばれていました。日本人は近代に至るまでアイヌを「蝦夷」、その土地を「蝦夷地」もしくは「北州」、「十州島」などと呼んでいましたが、明治政府は開拓使の設置に伴い名称の変更を検討しました。蝦夷地探査やアイヌとの交流を続けていた松浦武四郎は政府に建白書を提出、「北加伊道」「海北道」「海東道」「日高見道」「東北道」「千島道」の6案を提示しました。結局「北加伊道」を基本として採用し、海北道との折衷案として、律令制時代の五畿七道の東海道、南海道、西海道の呼称に倣う形として「北海道」と命名されました。

さらに次の次に、江華島事件です。江華島事件は、朝鮮の首府漢城の北西岸、漢江の河口に位置する江華島付近で、日本と朝鮮の間で起こった武力衝突事件です。朝鮮西岸海域を測量中の日本の軍艦「雲揚」が、江華島、永宗島砲台と交戦しました。日本側の軍艦の名を取って「雲揚号事件」とも呼ばれます。井上良馨は、艦長として「雲揚」に着任しました。政府は朝鮮王朝に外圧をかけるべく、「雲揚」と「第二丁卯」を派遣しました。征韓論者である井上良馨は嬉々として釜山に乗り込み、示威砲撃訓練や無断測量などの挑発を重ねて朝鮮西岸へ進出しました。江華島砲台は遂に井上の挑発に屈して反撃し、「雲揚」が応戦して砲台を陥落させました。日本側は負傷者2名、後に1名死亡、朝鮮側は死者35名、捕虜16名でした。この事件が「日朝修好条規締結」の契機となりました。

最後に、おニャン子クラブが代々木第一体育館でのライブを最後に解散です。1987年9月20日(日曜日)、国立代々木競技場第一体育館ではおニャン子クラブ解散コンサートが行われ、全国から3万人近いファンが会場に集まりました。また会場前の広場にはチケットを手に入れられなかった数百人のファンが押し寄せ、その数は原宿駅に渡る歩道橋まで埋め尽くす程でした。そうしたファンは皆一丸となって会場から微かに聞こえてくる歌声を聞きながら声援を送っていました。しかし、最終公演のアンコールに差し掛かった時に事件は起きました。「突っ込めー!!」の合図と共に親衛隊を中心とした数十人のファンが入り口のガラスを折りたたみ椅子で割るなどして乱入、これにつられて他のファン数百人も「俺達だって中に入る権利があるんだ!」と叫びながら警備員の制止を振り切って一気になだれ込みました。また会場内でも多くのファンが誰彼かまう事なく肩を組みながら歌を熱唱し始め、ステージとファンが一体となったのです。これ以後、毎年9月20日にファン有志が代々木競技場近くの代々木公園に集まって集会(解散コンサートのビデオ上映会)が行われています。解散により「元メンバー」となった者たちの大多数は、フジテレビによるマネジメントと「庇護」からそのまま放り出される形で芸能界の激烈な生き残り競争に晒され、少なからぬ元メンバーが短期間の内に芸能界の華やかな場所から姿を消していきました。既にソロ・デビュー等で独自に芸能事務所と所属契約を結んでいたメンバーや、番組終了のタイミングで芸能事務所に声を掛けてもらい所属する事ができたメンバーは、各々の芸能活動を展開・継続出来ました。しかし、最後までフジテレビ専属のまま芸能事務所から声が掛からなかったメンバーは、番組スタッフにより番組終了と同時に芸能界から引退して「一般人の生活」へと戻る様に説得されました。

今日の誕生日:吉田松陰、浜田彦蔵、根上淳、麻生太郎(第92代内閣総理大臣)、村井国夫、小田和正(元オフコース)、五十嵐淳子、石川ひとみ、山口美江、張曼玉(マギー・チャン)、高橋真美(元わらべ)、鈴木砂羽、新藤晴一(ポルノグラフィティ)、一青窈、堀江由衣、安室奈美恵(元SUPER MONKEYS)、藤原一裕(ライセンス)、若林正恭(オードリー)、杏さゆり、伊藤由奈、山崎真実、大本彩乃(Perfume「のっち」)、佐藤ありさ、SAYAKA「長友さやか」(E−girls、Happiness)、日比美思(元Dream5)、山内瑞葵(AKB48)、進藤ヒカル

今日の記念日:子どもの成長啓発デー、バスの日、空の日、動物愛護週間、お手玉の日、相続・贈与の日

今日の「今日訓」:1903年9月20日に、日本で初めての営業バスが京都市内を走ったことを記念して「バスの日」、1911年9月20日に、山田猪三郎が開発した山田式飛行船が東京上空を一時間にわたり、初飛行したことを記念して「空の日」、1992年、「第1回全国お手玉遊び大会」が愛媛県新居浜市で開かれた事を記念して「お手玉の日」、先祖を供養するために家族が集まる機会が多い「彼岸」に、相続や贈与についての知識を深め、家族で話し合うきっかけと、高齢化社会が進行する中で相続や贈与の準備、対策を行う事の大切さを確認する「相続・贈与の日」、内分泌疾患の患者や家族の支援団体で構成する国際組織「International Coalition of Organizations Supporting Endocrine Patients(ICOSEP)」が設立された事で「子どもの成長啓発デー」となりました。
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