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2020年07月14日00:22

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7月14日の日記

今日の出来事:756年−安史の乱:安禄山の蜂起、1789年-フランス革命勃発:パリの民衆がバスティーユ牢獄を襲撃・占領、政治犯を解放、1803年−延命院事件、1863年−中島名左衛門暗殺、1867年−住谷寅之介暗殺、1867年−アルフレッド・ノーベルがダイナマイトを発表、1881年−ビリー・ザ・キッドが、友人でもあった保安官パット・ギャレットにより射殺される、1933年−強制的同一化:ドイツでナチ党を除く全政治政党が禁止される、1945年−第二次世界大戦:北海道空襲、第1回釜石艦砲射撃、1969年−サッカー戦争:エルサルバドル軍がホンジュラスに侵攻、1977年−日本初の気象衛星「ひまわり1号」が米フロリダ州のケネディ宇宙センターから打ち上げられる

今日は、安史の乱:安禄山の蜂起です。安禄山は西域のサマルカンド出身で、ソグド人と突厥の混血でした。貿易関係の業務で唐王朝に仕えて頭角を現し、宰相・李林甫に近付き、玄宗皇帝から信任され、さらに寵妃・楊貴妃に取り入ることで、范陽をはじめとする北方の辺境地域の三つの節度使を兼任するにいたりました。史思明は安禄山とは同郷で、同様に貿易関係の仕事で頭角を現し、安禄山の補佐役として彼に仕えるようになりました。李林甫の死後、宰相となった楊国忠(楊貴妃の従兄)と対立し、その身に危険が迫ると安禄山は挙兵しました。盟友・史思明、参謀で次男・安慶緒、漢人官僚・厳荘や高尚、突厥王族出身の蕃将・阿史那承慶、契丹人・孫孝哲らが参加しました。当時、安禄山は唐の国軍の多数の兵力を玄宗皇帝から委ねられており、親衛隊8000騎、藩漢10万〜15万の軍団で構成されました。唐政府軍は平和に慣れきっていたことから、全く役に立たず、安禄山軍は挙兵からわずか1ヶ月で、唐の副都というべき洛陽を陥落させ、大燕聖武皇帝(聖武皇帝)を名乗り、燕国の建国を宣言します。唐軍は洛陽から潼関まで退き、司令官・封常清は敗戦の罪で、高仙芝は退却の罪で処刑されました。新たに哥舒翰が兵馬元帥に任じられ、潼関に赴任しました。哥舒翰は病気をもって固辞しようとしましたが玄宗に拒絶されました。蕃将・哥舒翰は潼関から出撃しましたが、安禄山軍に敗北します。混乱に陥った唐朝廷は、楊国忠の進言により宮廷を脱出しました。玄宗皇帝は蜀へと敗走します。その途上の馬嵬で陳玄礼と護衛の兵が反乱を起こし、楊国忠は安禄山の挙兵を招いた責任者として断罪されたあげく、韓国夫人、息子の楊暄・楊?・楊曉・楊晞兄弟と共に兵士に殺害されました。その上に陳玄礼らは、皇帝を惑わせた楊貴妃もまた楊国忠と同罪であるとしてその殺害を要求します。「賊の本」として楊貴妃を殺害することを要求した。玄宗は「楊貴妃は深宮にいて、楊国忠の謀反とは関係がない」と言ってかばいましたが、やむなく玄宗皇帝の意を受けた高力士によって楊貴妃は絞殺されました。これは「馬嵬駅の悲劇」といわれます。安禄山は楊貴妃の死を聞き、数日間、泣いたと言います。こうして、世界三大美女、中国四大美人の一人と言われた楊貴妃は最期を遂げました。この後、失意の中で玄宗は退位し、皇太子の李亨が霊武で粛宗として即位し、反乱鎮圧の指揮を執る事となります。

次に、フランス革命勃発:パリの民衆がバスティーユ牢獄を襲撃・占領、政治犯を解放です。
革命前夜:フランスでは君主主権が唱えられ、ブルボン朝による絶対君主制の支配(アンシャン・レジーム)が続いていました。アンシャン・レジーム下では、国民は三つの身分に分けられており、第一身分である聖職者が14万人、第二身分である貴族が40万人、第三身分である平民が2600万人いました。第一身分と第二身分には年金支給と免税特権が認められていました。ルイ16世は、財政改革を行おうとしました。第三身分からはすでにこれ以上増税しようがないほどの税を徴収していたので、聖職層と貴族階級の特権を制限して財政改革を行おうとしました。しかし貴族達は猛反発し、挫折します。国王は、三部会を開催して問題解決をしようとしました。しかし、議論が進まない事に愛想をつかした第三身分の代表達は、三部会に見切りをつけ、自分達だけの議会「国民議会」を発足させました。そしてヴェルサイユ宮殿の室内球戯場に集り、憲法を制定する事と国王が国民議会を正式な議会と認めるまで解散しない事を誓いました。これが世に言う「テニスコートの誓い」です。しかし特権貴族や王族はこれに反対し、第三身分に圧力をかけるため、軍隊をヴェルサイユとパリに集結させる事を国王に強要しました。
革命勃発:国王政府の軍隊集結によって緊張が高まるなか、国民に人気のあったネッケルが罷免されました。これは王妃のマリー・アントワネットや王弟アルトワ伯らの独断でした。怒った民衆は、当時は火薬庫であったバスティーユ牢獄を襲撃しました。やがて2人の男が塀を乗り越えて侵入し、司令部の中庭に通じる第一の跳ね橋を落としました。これを皮切りに群衆が中庭になだれ込み、襲撃が始まりました。恐怖にとらわれた守備兵が発砲して、民衆と守備兵が衝突し、混乱のさなかの激しい銃撃戦により死傷者が出ました。市庁舎からやって来た市民代表がド・ローネーに調停を申し入れましたが、拒否しました。群衆側に大砲の用意ができると、敗北を意識したド・ローネーは、貯蔵されている爆薬によりバスティーユを爆破するよう指令しました。しかし、守備隊によって阻止されました。要塞内部に通じる主門の跳ね橋が下ろされ、群衆がなだれ込み、激しい銃撃戦が展開されました。最終的にバスティーユ全体を群衆が制圧し、牢に入れられていた7人の囚人が解放されました。こうして、バスティーユは陥落しました。攻め込んだ群集側には98人の死者、73人の負傷者が出ました。対する守備隊側は、敗北後に虐殺された者を除くと、死者1名、負傷者3名でした。ド・ローネーは捕らえられ、市庁舎に連行され、グレーヴ広場で殺され、首を刎ねられました。3人の士官と3人の守備兵も、司令官と同じ運命を辿りました。さらに市長のフレッセルも、この日の出来事への対応を「裏切り行為」として咎められ、市庁舎から出て来たところを射殺され、首を刎ねられました。 彼らの首を槍の先に刺して高く掲げた群集は、市庁舎前の広場を練り歩きました。その後、高官・フーロンとベルチエ・ド・ソーヴィニーも殺されました。パリでの事件が伝えられると争乱はフランス全国に飛び火し、暴動を起こした農民達が貴族や領主の館を襲って、借金の証文を焼き捨てるという事件が各地で発生しました。こうして「フランス革命」がはじまりました。

その次に、延命院事件です。延命院事件は、大奥女中を巻き込んだ事件です。延命院は、谷中(現・東京都荒川区西日暮里)ある日蓮宗の寺院です。延命院住職の日潤は、歌舞伎役者の初代尾上菊五郎の隠し子だと言われています。この日潤が、多数の大奥女中と寺で密通しているという噂が広がっていました。寺社奉行・脇坂安董は女密偵を使って慎重に内偵を進めました。播州・龍野藩家臣で三枝右門の妹・お椰を奥女中に仕立て、密偵として延命院に潜入させました。お椰は、参詣客を延命院に日参して日潤に接近しました。身を挺して任務に当たったお椰は、特別に祈禱をすると称して隠し部屋になっている別室に誘い、淫らな行為を行っている事を報告しました。証拠を掴んだ脇坂安董は1803年7月14日、配下を率いて自ら延命院に踏み込んで一斉摘発を行いました。寺の内部には、奥女中との密通を世間から隠すための様々な仕掛けが施されていました。日潤は、江戸城西の丸大奥の御中臈・梅村の部屋方・おころと言う奥女中と、大奥に入る以前から交際していました。美男で美声の持ち主だった日潤の説教は、多くの女性信者を陶酔させました。噂を聞いた大奥女中達が次第に引き寄せられ、「延命院詣で」が頻繁に行われるようになりました。日潤との関係が続いていたおころは、日潤が奥女中と密接な関係を作る手助けをしました。取り調べの結果、日潤は大奥女中や御三家女中など59人の名を挙げました。日潤は9月14日に死罪に処されました。延命院の僧・柳全は、晒しの上で触頭の寺預かりとなりました。大奥の女中「おころ」は百日押込と「武家奉公構」となり、以降は武家屋敷で奉公する事を禁じられます。尾張藩奥年寄「初瀬」は永押込、紀州藩書院番・石川千左衛門の妻「ゆい」は永押込、一橋家側用人・井上芸十郎の娘「はな」は永押込、中奥御番・石川右近の娘「あい」は押込、谷中善光寺門前の家持・源太郎の娘「きん」は押込に処されました。女性はわずか6人が検挙されたのみでした。この一件は、日潤の祈祷を受けた奥女中達の全てを被害者と見なし、日潤を加害者として決着を付けました。これは、大奥の醜聞に発展するのを恐れた幕閣が、僧侶の破戒事件として全ての一件を隠蔽したためでした。

その次の次に、中島名左衛門暗殺です。中島名左衛門は、高島秋帆の門下で西洋砲術を学びました。1863年、長州藩に招かれて砲術教授となり、砲台築造に関わりました。幕府が約束した攘夷期限当日の6月25日、長州藩・久坂玄瑞の率いる「光明寺党」は、関門海峡を通過した米国商船に砲撃を行いました。さらに7月8日に仏国軍艦、11日に蘭国船を砲撃しました。不意を付かれた外国船は敗走しました。勝利に沸いた長州藩は、14日に世子・毛利定広が臨席の下、戦術会議を開きました。その会議で、砲術教授・中島名左衛門は技術の未熟さと軍律の不完全さを指摘し、軍規の確立と実弾による射撃訓練の必要性を主張しました。このため、「光明寺党」らの激しい反発を受けました。その夜、中島名左衛門は下関で何者かに暗殺されました。光明寺党の仕業だと言われています。この2日後の16日、長州藩は米国軍艦に、20日には仏国軍艦の報復を受けて惨敗する事になります。

そのまた次に、住谷寅之介暗殺です。住谷寅之介は、水戸藩の尊王攘夷志士です。幕府の実権を握る大老・井伊直弼に対する諸藩の決起を促すため、住谷寅之介は大胡聿蔵らと共に土佐藩・宇和島藩・薩摩藩へ遊説に向いました。土佐では龍馬龍馬と会談しました。「安政の大獄」に伴い、住谷寅之介は職を免ぜられて蟄居処分を受けました。翌1860年、高橋多一郎らを中心とする大老・井伊直弼の暗殺計画が藩に察知されると、住谷寅之介はその一味として投獄されて禄を奪われました。同志が井伊直弼の暗殺を実行した「桜田門外の変」の後、幕府は水戸藩に対する弾圧を弱めました。住谷寅之介は罰を解かれました。1861年、住谷寅之介は原市之進、宇都宮藩士・大橋訥庵らと老中・安藤信正暗殺を計画しました。「水長盟約」に基づき、長州藩士・周布政之助、桂小五郎に手紙を送って安藤信正暗殺の援助を要請しました。長州藩は藩内の事情から決行の延期を求めましたが、水戸藩士らによって計画は実行されましたが失敗しました「坂下門外の変」。住谷寅之介は禁固に処されましたが、赦免されて藩政に復帰しました。藤田東湖らが亡き後の、水戸藩の尊王攘夷思想の中心的人物と見られていた住谷寅之介は、公卿らとも交際し、土佐藩主・山内容堂に招かれて時勢を談じたりしました。しかし、住谷寅之介は公武合体を容認していた事から、勤王派志士から敵視されるようになり、1867年7月14日宵、鴨川東岸の松原河原で土佐藩足軽・山本旗郎らによって斬殺されました。その後、1870年に東京神田で住谷寅之介の長男・七之允、次男・忠次郎らが山本旗郎を殺害、日本で最後に認められた「仇討ち」を遂げています。

そのまた次の次に、アルフレッド・ノーベルがダイナマイトを発表です。ノーベルは、知人の化学者アスカニオ・ソブレロが発明した爆薬、ニトログリセリンを初めて実用化する事に成功しました。さらにこれを改良し、安全に使えるようにしたダイナマイト(ギリシア語で「力」)を発明しました。ダイナマイトは工事現場での岩盤の破壊など、作業の効率化を進めるものとして広く普及しましたが、同時に戦争にも爆薬として使用されました。50カ国で特許を得て100近い工場を持ち、一躍世界の富豪の仲間入りをしました。ノーベルは1896年12月7日、脳溢血で倒れて死亡しました。ノーベルの莫大な遺産の相続をめぐって、兄弟やその子達が当然のようにトラブルを起こしました。最後に書かれて、最終的に有効とされた遺言状には、遺産を使って賞を作り、科学技術、文学、平和など合計5部門に貢献した人物に賞を贈るように記載されていました。こうして「物理学」、「化学」、「生理学医学」、「文学」、「平和」の5分野で顕著な功績を残した人物に贈られる「ノーベル賞」が設立されました。後に、「経済学」が加えられ6分野になります。

さらに次に、第二次世界大戦:北海道空襲、釜石艦砲射撃です。アメリカ海軍第38任務部隊は、北海道南部から登別市沖合へと展開しました。13隻の航空母艦から3000機以上もの艦載機を発進させ、留萌市以南の北海道主要都市に無差別爆撃及び機銃掃射を行いました。特に軍需産業の生産地であった釧路市、根室市への空襲は大規模でした。
釧路空襲:艦載機141機により、8波による大規模な空襲でした。鉄道工場、造船所、製紙工場、橋梁が主な攻撃目標で、被害は全市街地に渡りました。死者183人、負傷者273人、焼失倒壊家屋1618戸、罹災者6211人の被害を出しました。また、釧路港内外の船舶も攻撃を受けました。死者・行方不明者28名、負傷者8名を出しました。
根室空襲:根室市も大規模な空襲を受けました。死者369人、焼失倒壊家屋2457戸の被害を出しました。
この他、函館、小樽、帯広、旭川や戦略上全く意味のない農村部も攻撃され、一般市民を中心に死者2000人を超える被害を出しました。
津軽海峡空襲:千島列島から北海道、北海道から本州を結ぶ航路の船舶も攻撃対象となり、多くの船が撃沈または大破の被害を受け、ほとんどの航路が機能を失いました。大動脈である青函航路も、全連絡船12隻が被害を受け(8隻沈没、2隻大破炎上、2隻航行不能、352人死亡)壊滅状態となりました。「翔鳳丸」が青森港内、「飛鸞丸」、「第二青函丸」が青森港外で沈没しました。「松前丸」は七重浜で座礁して炎上しました。「津軽丸」は狐越岬沖で沈没しました。「第三青函丸」は矢越岬沖で、「第四青函丸」は葛登支岬沖で沈没しました。「第六青函丸」は野内沖で座礁しました。「第十青函丸」は函館港外で沈没しました。「第七青函丸」、「第八青函丸」は函館港内で損傷を受けました。「第一青函丸」は三厩港灯台の東1キロ付近で沈没しました。この他、「第219号海防艦」、「第24号掃海艇」、「豊国丸」、「永保丸」、「朝洋丸」などが撃沈され、死者570人の被害を出しました。
第1回釜石艦砲射撃:一方、北海道空襲を開始したアメリカ海軍機動部隊は、第38任務部隊から分派した第34・8・1任務隊(司令官:ジョン・F・シャフロス少将)の戦艦「サウスダコタ」、「インディアナ」、「マサチューセッツ」、重巡洋艦「シカゴ」、「クインシー」と駆逐艦9隻により、釜石を砲撃しました。主要な攻撃目標は、日本製鐵釜石製鉄所でした。この砲撃で日本側は一般市民423人が死亡しました。

最後に、サッカー戦争です。FIFAワールドカップメキシコ大会の出場権を巡り、ホンジュラスの首都テグシガルパにおいて、ホンジュラス対エルサルバドルの予選1回戦が行われました。結果は1対0でホンジュラスが勝利します。この際、熱狂的なサッカーファンであったエルサルバドルの18歳の女性がピストル自殺してしまいます。彼女の葬儀にはエルサルバドルの代表選手や大統領などもかけつけるなど、一大イベント化しました。国の威信をかけてエルサルバドルの首都サンサルバドルで行われた2回戦でエルサルバドルは3対0で勝利し、最終戦に望みをつなぎました。最終戦でエルサルバドルは延長の末3対2で勝利します。試合直前、エルサルバドルは外交関係断絶を臭わせ、ホンジュラスを脅迫しましたが、試合に負けたホンジュラス側が断交を持って応じ、両国の関係は最悪の状況となりました。先手を打ったのはエルサルバドル軍でした。エルサルバドル空軍が、テグシガルパ郊外のトンコンティン飛行場を爆撃しました。また、サン・ペドロ・スーラ郊外のラ・メサ飛行場への爆撃など、同時刻にホンジュラスの主だった飛行場及び軍事施設十数か所への爆撃が行われました。これに対し、ホンジュラス空軍機4機がエルサルバドル領内に侵入します。うち2機がサンサルバドル郊外のイロパンゴ飛行場を爆撃し、残り2機はソンソナテ県のアカフトラ港を攻撃した後、ラ・ウニオン県のクトゥコ港にある石油タンクを攻撃しました。こうして両軍による爆撃が続きます。エルサルバドル陸軍も、歩兵部隊(兵力約12000人)を投入し、ホンジュラス領内に侵攻しました。この100時間程の戦争による双方の死者は合計数千人にものぼりました。死者のほとんどがエルサルバドル陸軍の侵攻により殺害されたホンジュラス人の農民でした。このことは両国間に大きな亀裂を作りました。OASが調停に乗り出した結果、エルサルバドル陸軍が撤退を完了し、停戦が成立しました。この戦争の後、極右勢力のテロが繰り返されました。サッカーから始まった戦争は「エルサルバドル内戦」となり、中米一の工業国であったエルサルバドルの没落が始まります。両国関係の修復には10年以上の歳月を要しました。1982 FIFAワールドカップ地区予選で、両国の12年ぶりのサッカー対戦が実現し、試合は2−1でエルサルバドルが勝利します。しかし、両国はともに地区予選を勝ち抜き、2年後の1982年、中米諸国を巻き込んだいつ終わるともしれない中米ゲリラ戦争の最中に、揃ってワールドカップに出場しました。1992年、75000人に及ぶ死者と100万人と推測される亡命者を出したエルサルバドル内戦はようやく停戦となりました。

今日の誕生日:ウィリアム・ハンナ、ジェラルド・R・フォード(第38代アメリカ合衆国大統領)、森喜朗(第85、86代総理大臣)、久米宏、水谷豊、岡田克也、あいはら友子、斉藤慶子、宮澤ミシェル、椎名桔平、倉持陽一「YO−KING」(真心ブラザーズ)、桜庭和志、夢眠ねむ(元でんぱ組.Inc)、山本彩(元NMB48)、林愛夏(元ベイビーレイズJAPAN)、久保史緒里(乃木坂46)

今日の記念日:フランス建国記念日(パリ祭)、ペリー上陸記念日、廃藩置県の日、ひまわりの日、求人広告の日、内視鏡の日、ゼラチンの日、ゼリーの日、新聞配達の日

今日の「今日訓」:本日は、1789年7月14日の「バスティーユ牢獄襲撃」による「フランス革命」勃発の日で「フランス建国記念日(パリ祭)」、1853年7月14日、4隻の黒船艦隊で江戸湾の浦賀沖に現れたマシュー・ペリー提督が、久里浜に上陸して将軍への親書を渡した事を記念して「ペリー上陸記念日」、明治4年7月14日に「廃藩置県」の詔書が出された事を記念して「廃藩置県の日」、1872年、「東京日日新聞」に日本初の求人広告が掲載された事で「求人広告の日」、1977年、日本初の気象衛星「ひまわり1号」がアメリカのケネディ宇宙センターから打ち上げられた事から「ひまわりの日」、「新聞配達の日」、ゼラチンがフランス料理によく使われる事から「フランス革命の日」を「ゼラチンの日」、ゼラチンがゼリーの主材料となる事から「ゼリーの日」、「7(な)1(い)4(し)」の語呂合わせで「内視鏡の日」となりました。
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