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2020年07月13日00:03

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7月13日の日記

今日の出来事:986年−寛和の変:花山天皇が近習らとともに清涼殿から失踪、1689年−奥の細道:松尾芭蕉が立石寺に到着、1864年−明保野亭事件、1867年−坂本龍馬が「船中八策」を著す、1868年−北越戊辰戦争:寺泊沖海戦、1995年−ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争:「スレブレニツァの虐殺」、ボスニア・ヘルツェゴビナのスレブレニツァでスルプスカ共和国軍が推定8千人のボシュニャク人を殺害、第二次世界大戦以降では欧州最悪のジェノサイドと認定される

今日は、寛和の変です。第65代・花山天皇は即位後、外戚(叔父)である藤原義懐らの補佐を受けて新政策を展開していきましたが、寵愛していた女御・藤原忯子が妊娠中に急死した事で出家を考えるようになりました。皇太子・懐仁親王の外祖父であった右大臣・藤原兼家は孫である皇太子の即位と自らの摂政就任を早めるために、天皇の退位・出家を画策しました。蔵人として天皇に仕えていた次男・藤原道兼に対して天皇に出家を勧めさせました。天皇は藤原道兼の勧めに従って内裏を出て山科の元慶寺に向かいました。これを確認した藤原兼家は、清涼殿に残された三種の神器を皇太子の居所である凝華舎に移し、内裏諸門を封鎖しました。藤原義懐が事態を知った時には、既に天皇は元慶寺において出家を済ませた後でした。藤原義懐も側近の藤原惟成とともに元慶寺で出家しました。更に当時の関白・藤原頼忠も摂関の地位を失う事になり、事実上失脚しました。懐仁親王は一条天皇として即位し、外祖父・藤原兼家は摂政に就任しました。藤原兼家はそれまでの慣例を破って、右大臣を辞任して摂政専任の先例(大臣と摂関の分離)を生み出しました。摂関政治の歴史において一つの転機になる事件でした。

次に、奥の細道:松尾芭蕉が立石寺に到着です。芭蕉は、「山形の領内に立石寺という山寺がある。慈覚大師が開かれた寺で、とても清らかで静かな所だ。一度行って見るべきだ。」と人々の勧めにより、尾花沢から立石寺に向かいました。到着すると山上の堂にのぼりました。そこは、岩の上に巌が重なり合って山になっていて、樹齢を経た松や檜が追い茂っていました。土や石も長い年月の間に滑らかな苔に覆われていました。岩上に建てられたお堂はみな扉を閉ざして、物音一つ聞こえませんでした。崖を回り、岩を這って仏堂に詣でました。芭蕉は「周りのすばらしい景色は静寂に包まれ、心が澄みとおっていくばかりである。」と表現しています。ここで芭蕉はこの有名な句を詠みました。「閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声」(山奥の寺の境内は、ひっそりと静まりかえっている。蝉の声が聞こえているが、それすらも岩肌に吸い込まれていくようで、なおいっそう辺りの静けさを際立たせている。)

その次に、明保野亭事件です。幕府により「池田屋事件」の残党の捕縛を命じられた新選組が、東山の料亭「明保野」に長州系浪士が潜伏しているとの情報を得ました。武田観柳斎が率いる新選組隊士15名と、前日より応援として派遣されていた会津藩士20名のうち5名が共に捕縛に向かいました。現場で会津藩士・柴司が、座敷にいた武士を制止しようとしたところ、相手が逃げ出したため、取り押えようと追跡の上、槍で傷を負わせました。直後に相手が浪士ではなく、土佐藩士・麻田時太郎と判明したため、その場で解放しました。当初、柴司の行為に問題無しとして、念のために会津藩から医師と謝罪の使者を送りました。これに対して土佐藩側も最初に名乗らなかった麻田時太郎にも落ち度があるとし、麻田時太郎を「士道不覚悟」として藩命により切腹させました。これにより、若い土佐藩士たちが「片手落ち」(不公平)だと激昂し、会津・土佐の関係に亀裂が入りかねない事態へと発展しました。結局、会津藩士・柴司が謝罪の意味で切腹し、両者の関係悪化は回避されました。当時、土佐藩は藩主・山内容堂の下で公武合体を支持しており、会津藩との関係も良好でした。しかし、内部には「土佐勤王党」など倒幕を目論む勢力があり、その中で起きた傷害事件はまさに両藩の関係に水を差すものでした。柴司は自らの職務を遂行しただけでしたが、自ら犠牲となる事で両者の関係悪化を食い止めました。

その次の次に、坂本龍馬の「船中八策」です。「船中八策」は、坂本龍馬が起草した新国家体制の基本方針です。龍馬は、「いろは丸沈没事件」を解決させたのち、京都に上洛していた前土佐藩主・山内容堂に対して「大政奉還論」を進言するため、藩船の夕顔丸で長崎を出航しました。その上洛中の洋上で参政・後藤象二郎に対して、口頭で提示したものを海援隊士・長岡謙吉が書きとめて成文化しました。「船中八策」の内容は以下のとおりです。
1.大政奉還
2.上下両院の設置による議会政治
3.有能な人材の政治への登用
4.不平等条約の改定
5.憲法制定
6.海軍力の増強
7.御親兵の設置
8.金銀の交換レートの変更
当時としては画期的な条文が文章として記されています。8番目の経済政策は、「海援隊」を組織して貿易を行なっていた龍馬だからの着眼点です。金銀の交換レートが国内と国外で異なっていると、二国間で金銀の交換を行なうだけで利益を上げられるので、貿易や物価安定に好ましくない事に気付いていたのです。後の「薩土盟約」や土佐藩の「大政奉還建白書」、明治政府の「五箇条の御誓文」にまで連なる内容で、この「船中八策」を原案にして出来上がりました。まさに、時代を先取りしていたと言えます。

最後に、北越戊辰戦争:寺泊沖海戦です。旧幕府軍艦の輸送船「順動丸」は、旧幕府方の1隻として多量の軍需物資や兵員を輸送しました。新潟方面の「奥羽越列藩同盟」への支援用として派遣されていました。新潟の寺泊港に停泊していたところ、新政府軍の軍艦「第一丁卯」(長州藩)と「乾行」(薩摩藩)に攻撃されました。「順動丸」は味方艦と間違えて港外に出迎えたところを撃たれて、砲撃戦となりました。「順動丸」は追い詰められ、砂浜に座礁して後に自爆しました。この戦闘により、新政府軍は越後方面の制海権を掌握しました。

今日の誕生日:ジュリアス・シーザー(ユリウス・カエサル)、梅田雲浜、松本良順、堺屋太一、ハリソン・フォード、関口宏、エルノー・ルービック、日野てる子、達川光男、丹波義隆、ファンキー末吉(爆風スランプ)、中森明菜、石川秀美、北斗晶、西野健一(元MANZAI−C)、遠藤章造(ココリコ)、大地洋輔(ダイノジ)、川本成(あさりど)、鈴木紗理奈、井川慶、中孝介、上野なつひ、渋谷飛鳥(元美少女クラブ31)、道重さゆみ(元モーニング娘。)、のん(能年玲奈)

今日の記念日:日本標準時制定記念日、生命尊重の日、オカルト記念日、水上バイクの日、もつ焼の日、イーサン・ハントの日、早見淳(マカロニ刑事)殉職、田口良(ボン刑事)殉職

今日の「今日訓」:本日は、1886年7月13日に東経135度を日本標準時とし、1888年1月1日よりこれを実施するという内容の勅令が公布された事で「日本標準時制定記念日」、1948年、「優生保護法(現在の母体保護法)」が公布された事を記念して「生命尊重の日」、1974年7月13日にオカルトブームの火つけ役となった映画「エクソシスト」が日本で初公開された事で「オカルト記念日」、映画「ミッション:インポッシブル」が1996年7月13日に日本で公開された事で「イーサン・ハントの日」、「7(な)3(み)=波」の間に「/(1)」で「波を切る」の語呂合わせで「水上バイクの日」、7(な)1(い)3(ぞう)」の語呂合わせで「もつ焼の日」となりました。マカロニ刑事殉職、ボン刑事殉職
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