mixiユーザー(id:48382454)

2020年07月11日00:18

22 view

7月11日の日記

今日の出来事:420年−東晋の恭帝が劉裕(武帝)に禅譲、東晋が滅亡し宋(南朝宋)が建国、1868年−北越戊辰戦争:加茂軍議、村松藩士・近藤貢自刃、1893年−御木本幸吉が真珠の養殖に成功、1968年−「少年ジャンプ」創刊

今日は、東晋の恭帝が劉裕(武帝)に禅譲、東晋が滅亡し宋(南朝宋)が建国です。五斗米道の信者を中心に起こった「孫恩の乱」、「盧循の乱」で、劉裕は劉牢之の北府軍団に従って戦功を立て、軍規の乱れが目に付く北府軍団の中で、劉裕の部隊は最も軍規が厳正であったとして信望を集めました。ところが、西府軍団を率いる桓玄が首都の救援の名目で建業を制圧、政敵の劉牢之を殺害しました。劉牢之を失った北府軍団は解体され、劉裕も桓玄の支配に属する事になりました。桓玄が安帝を廃して禅譲を受け、国名を「楚」として自ら皇帝を称したのに対して、劉裕は劉毅・諸葛長民らを同志として、桓玄打倒の反乱を起こしました。そして、桓玄を討ち取り、追放されていた安帝を復位させる事に成功しました。東晋を復興させた功臣として発言力を獲得した劉裕は腹心の劉穆之の献策に従い、宰相となって独裁的な権力を掌握、さらに自らの立場をより強固なものとするため、劉毅・諸葛長民及び司馬休之・文思父子ら反対派に対して容赦ない粛清を行いました。国内の反対派を粛清する一方、北伐を開始しました。南燕、後蜀、後秦を滅亡させ、一時的ではあるが洛陽・長安を奪還しました。これらの功績により劉裕は相国に任じられ、宋王に封じられました。劉裕は安帝を殺害、東晋最後の皇帝となる恭帝を擁立しました。禅譲を計画した劉裕は、恭帝から禅譲を受けて皇帝に即位して宋を建国し、後顧の憂いを断つため恭帝を殺害しました。また、東晋の皇室一族を殺戮しました。禅譲後に旧皇帝を殺すようになったのは、この劉裕からです。

次に、北越戊辰戦争:加茂軍議、村松藩士・近藤貢自刃です。長岡城を失った河井継之助が率いる長岡藩兵や会津軍、桑名藩雷神隊、衝鋒隊などは加茂に集結しました。そこへ、列藩同盟の盟主・米沢藩が合流しました。ここで長岡城を奪還するための軍議が行われました。参加者は以下です。米沢藩:参謀・甘粕継成、大隊長・中条豊前 長岡藩:総督・河井継之助、軍事掛・花輪救馬、会津藩:総督・一瀬要人、奉行・秋月剃次郎、桑名藩:軍事奉行・金子権太左衛門、雷神隊長・立見鑑三郎、上山藩:家老・堀新兵衛、村上藩:家老・水谷孫平次、村松藩:家老・森重内、この軍議で河井継之助が長岡城奪取には見附を制圧するのが必要不可欠と力説した為、米沢藩を始め他の同盟軍首脳が了承し、主攻撃を見附に行なって、赤坂と与板方面に助攻撃を行なう事が決しました。
第一軍:米沢藩・中條豊前が総指揮官となり、米沢藩・会津藩・衝鋒隊及び長岡藩・村松藩の兵を合して長岡口へ進撃し、見附口占拠を目的とする。
第二軍:会津藩・一ノ瀬要人が総指揮官となり、会津藩・桑名藩・上ノ山藩兵で組織し、与板口に向かい、与板城攻略を目的とする。
第三軍:会津藩・庄内藩・山形藩・三根山藩兵及び、水戸藩諸生党からなり、出雲崎口方面守備を担当。
こうして、奥羽越列藩同盟軍による長岡奪還戦がはじまる事になります。この日、「奥羽越列藩同盟」への参加に反対していた村松藩士・近藤貢が、新政府軍との開戦を決めた藩命に抵抗して自刃しました。

その次に、御木本幸吉が真珠の養殖に成功です。御木本幸吉は、三重県鳥羽市で代々、うどんの製造・販売を営む「阿波幸」の長男・吉松として生まれました。14歳で家業の傍ら青物の行商を始めました。「地租改正」で、納税が米納から金納に変わったのを機会に米が商売の種になるとみて、青物商から米穀商に転換しました。20歳で家督を相続し、御木本幸吉と改名しました。同年、東京・横浜への旅により天然真珠など志摩の特産物が、中国人向けの有力な貿易商品になる事を確信し、海産物商人へと再転身しました。海産物商人としての御木本幸吉は自らアワビ、天然真珠、ナマコ、伊勢海老、牡蠣、天草、サザエ、ハマグリ、泡盛など種々雑多な商品を扱う一方、志摩物産品評会、志摩国海産物改良組合の結成などに参加、地元の産業振興に尽力しました。その後、志摩国海産物改良組合長、三重県勧業諮問委員、三重県商法会議員、などを務めて地元の名士になりました。職業選択の自由、身分を越えた結婚が可能になり、「富国強兵」のスローガンの下で海国日本の殖産興業政策により、「大日本水産会」が創設されました。23歳で結婚、妻・うめは当時17歳でした。鳥羽藩士族・久米盛蔵の娘で新しい学制の小学校とその高等科を出た才女であり、維新以前ではこの結婚は考えられませんでした。25歳、父・音吉が54歳で死去しました。世界の装飾品市場では、天然の真珠が高値で取引されており、海女が一粒の真珠を採ってくると高額の収入を得られる事から、志摩ばかりでなく全国のアコヤ貝は乱獲により絶滅の危機に瀕していました。この事態を憂慮して、第2回全国水産品評会の為に上京した折、主催者である「大日本水産会」の柳楢悦を訪ねて指導を仰ぎました。御木本幸吉は貝の養殖を開始しましたが、真珠を生まない限り商品としての価値が低く、経費倒れに終わりました。この為、発想を転換し「真珠の養殖」を最終目的に変え、アコヤ貝の生態を調べながら貝の養殖をしました。神明浦と相島(現在のミキモト真珠島)の2箇所で実験を開始しました。こうして1893年7月11日、実験中のアコヤ貝の中に半円真珠が付着している貝を発見しました。半円真珠の特許取得で、世の中に認知された第一歩となりました。この特許取得によって真珠事業の独占が可能となり、御木本は他の事業を整理し、真珠事業に専念する事となりました。しかし同年、妻・うめが32歳で死去しました。1899年、東京・銀座に御木本真珠店を開設しました。1916年には、上海支店を開設しました。1921年、ヨーロッパの宝石商が天然真珠と見分けのつかない養殖真珠をニセモノ、つまり詐欺であると断定して訴訟になりました。1924年、パリで起こした真珠裁判にて、天然と養殖には全く違いが無かったという判決を受けて全面勝訴しました。1927年、フランスの裁判所から天然と変わらぬものとの鑑定結果の通知を受け、ようやく世界に認められる宝石となりました。同年、ニューヨーク支店開設、1928年、ロンドンに小売店開店、1929年、パリ支店を開設しました。御木本真珠店は、世界の「ミキモト」となり、御木本幸吉は「真珠王」と呼ばれました。1954年9月21日、御木本幸吉は老衰のため96歳で死去しました。

最後に、「少年ジャンプ」創刊です。1968年7月11日に「少年ジャンプ」の名称で創刊されました。創刊時は月2回(第2・第4木曜日)発売でした。1969年10月から週刊化されました。2003年5月までは毎週火曜日発売、その後は、毎週月曜日発売となりました。シンボルマークは海賊マーク(ジャンプパイレーツ)です。1995年に653万部という漫画雑誌の最高発行部数を記録しました。雑誌キーワードは「友情」「努力」「勝利」です。すべての掲載作品のテーマに、この要素または繋がるものを最低1つ、必ず入れる事が編集方針になっています。創刊時に後発の少年漫画誌として、当時の人気漫画家を確保出来なかったため、連載陣のごく少数を除き、全て専属契約の新人で揃える事になりました。これは新人発掘に効果を発揮し、「ジャンプ」躍進の原動力となりました。この方針は、創刊から40年以上経ち、週刊少年漫画雑誌で最大部数を誇るようになった現在も継承されています。また、本誌は初の漫画専門誌であり、この人気により少年向け総合誌だった他誌も漫画専門誌へと移行するきっかけとなりました。1997年後半〜2002年7月まで発行部数が「少年マガジン」に抜かれて2位になりましたが、2002年8月〜首位を奪回して現在に至ります。

今日の誕生日:徳川光圀、ジョン・クィンシー・アダムズ(第6代アメリカ合衆国大統領)、ザ・デストロイヤー、木の実ナナ、沢田雅美、斉藤洋介、リッチー・サンボラ(ボン・ジョヴィ)、藤井郁弥(元チェッカーズ)、アーネスト・ホースト、近藤サト、葉月里緒奈、鈴江奈々、高杉さと美、前田亜季、加藤成亮(NEWS)、戸島花(元AKB48、元SDN48)、坂口健太郎、石井杏奈(E−girls)

今日の記念日:世界人口デー、真珠記念日、職業教育の日、YS−11記念日、アルカリイオン水の日、セブン-イレブンの日、ラーメンの日、島公之(殿下刑事)殉職

今日の「今日訓」:本日は、1987年に世界の人口が50億人を超えた事から「世界人口デー」、御木本幸吉が真珠の養殖に成功した事を記念して「真珠記念日」、1975年に「学校教育法」の改正により「専修学校の制度」が定められた事で「職業教育の日」、1962年、初の国産旅客機「YS−11」が完成した事を記念して「YS−11記念日」、「0(お)7(なかに)11(いい水)」と読む語呂合わせから「アルカリイオン水の日」、「セブン(7)イレブン(11)」の語呂合わせで「セブン-イレブンの日」、7をレンゲに11を箸に見立てた事と、ラーメンを最初に食べた人物とされる水戸黄門の誕生日から「ラーメンの日」となりました。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する