mixiユーザー(id:48382454)

2020年07月10日00:06

22 view

7月10日の日記

今日の出来事:645年−乙巳の変:蘇我入鹿が暗殺、1205年−畠山重忠の乱、1804年−象潟地震、1868年−北関東戊辰戦争:戸倉戦争、1868年−会津戊辰戦争:七曲の戦い、1927年−岩波文庫創刊、1945年−第二次世界大戦:第6回大阪大空襲(堺大空襲)、仙台大空襲、1966年−特撮テレビ番組「ウルトラマン」第1回の放送となる「ウルトラマン前夜祭 ウルトラマン誕生」が放送される

今日は、乙巳の変です。乙巳の変は中大兄皇子、中臣鎌足らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して、蘇我氏を滅ぼした飛鳥時代の政変です。朝廷の政を執っていた聖徳太子が死去すると、大豪族・蘇我氏を抑える者がいなくなりました。蘇我氏の専横は甚だしいものになり、その権勢は天皇家を凌ぐほどになりました。蘇我馬子が死に、子の蝦夷がかわって大臣となりました。推古天皇が後嗣を指名する事なく崩御しました。有力な皇位継承権者には田村皇子と山背大兄王(聖徳太子の子)がいました。血統的には山背大兄王の方が蘇我氏に近いが(聖徳太子は蘇我氏の血縁であり、山背大兄王の母は蝦夷の妹)、有能な山背大兄王が皇位について上宮王家(聖徳太子の家系)が勢力を持つ事を嫌った蘇我蝦夷は、田村皇子を次期皇位に推しました。蘇我蝦夷は山背大兄王を推す叔父・境部摩理勢を滅ぼして、田村皇子を即位させる事を強行しました。これが舒明天皇です。蘇我氏の勢いはますます盛んになり、豪族達は朝廷に出仕せず、専ら蘇我家に出仕する有り様となりました。大派王(敏達天皇の皇子)は、群卿が朝廷に出仕する事を怠っているので、今後は鐘を合図に出仕させる事にしようと建議しましたが、蘇我蝦夷はこれを拒みました。やがて舒明天皇は崩御し、皇后であった宝皇女が即位しました。これが皇極天皇です。蘇我氏の専横は更に甚だしくなりました。日照りが続いたため、蘇我蝦夷は百済寺に菩薩像と四天王像をまつって衆僧に読経させ焼香して雨を祈ったところ、翌日は僅かに降りましたが、その翌日には降りませんでした。皇極天皇が南淵の川辺で四方を拝して雨を祈ったところ、たちまち雷雨となり、5日間続きました。人々は「至徳天皇」と呼びました。蘇我蝦夷とその子の入鹿は、自分達の陵墓の築造のために天下の民を動員、聖徳太子の一族の領民も動員されたため、聖徳太子の娘・大娘姫王はこれを嘆き抗議しました。蘇我蝦夷は病気を理由に朝廷の許しも得ず、紫冠を入鹿に授けて大臣とし、次男を物部の大臣としました(彼らの祖母が物部守屋の妹であるという理由)。蘇我入鹿は蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を、皇極天皇の次期天皇に擁立しようと望みました。そのためには有力な皇位継承権者である山背大兄王の存在が邪魔であると考えました。入鹿は巨勢徳多、土師娑婆連の軍勢をさしむけ、山背大兄王の住む斑鳩宮を攻めさせました。これに対し山背大兄王は、舎人数十人をもって必死に防戦して土師娑婆連を戦死させましたが、持ちこたえられずに生駒山へ逃れました。そこで側近の三輪文屋君からは東国へ逃れて再挙する事を勧められましたが、山背大兄王は民に苦しみを与える事になると採り上げませんでした。山背大兄王は斑鳩寺に戻り、王子と共に自殺しました。こうして聖徳太子の血を引く上宮王家は滅亡しました。神祇を職とする一族の中臣鎌足は、蘇我氏の専横を憎んで蘇我氏打倒の計画を密に進めました。法興寺の打毬で、中大兄皇子の皮鞋が脱げたのを中臣鎌足が拾って中大兄皇子へ捧げました。これが縁となって2人は親しむようになりました。中大兄皇子と中臣鎌足は南淵請安の私塾で周孔の教えを学び、その往復の途上に蘇我氏打倒の密談を行いました。中臣鎌足は更に蘇我一族の長老・蘇我倉山田石川麻呂を同志に引き入れ、その娘を中大兄皇子の妃としました。三韓(新羅、百済、高句麗)から進貢(三国の調)の使者が来日しました。三国の調の儀式は朝廷で行われ、大臣の蘇我入鹿は必ず出席しました。中大兄皇子と中臣鎌足はこれを好機として暗殺の実行を決めました。三国の調の儀式が行われ、皇極天皇が大極殿に出御し、古人大兄皇子が側に侍し、蘇我入鹿も入朝しました。蘇我入鹿は猜疑心が強く日夜剣を手放しませんでしたが、俳優(道化)に言い含めて剣を外させていました。中大兄皇子は衛門府に命じて宮門を閉じさせました。蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み、中大兄皇子は長槍を持って殿側に隠れ、中臣鎌足は弓矢を取って潜みました。海犬養勝麻呂に二振りの剣を運ばせて、佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田に与えました。蘇我入鹿を斬る役目を任された2人は恐怖し、飯に水をかけて飲み込みましたが、たちまち吐き出すありさまでした。中臣鎌足は2人を叱咤しましたが、蘇我倉山田石川麻呂が表文を読み進めても佐伯子麻呂らは現れませんでした。恐怖のあまり全身汗にまみれ、声が乱れ、手が震えていました。不審に思った蘇我入鹿が「なぜ震えるのか」と問うと、蘇我倉山田石川麻呂は「天皇のお近くが恐れ多く、汗が出るのです」と答えました。中大兄皇子は佐伯子麻呂らが蘇我入鹿の威を恐れて進み出られないのだと判断し、自ら躍り出ました。佐伯子麻呂らも飛び出して、蘇我入鹿の頭と肩を斬りつけました。蘇我入鹿が驚いて起き上がると、佐伯子麻呂が片脚を斬りました。蘇我入鹿は倒れて天皇の御座へ叩頭し、「私に何の罪があるのか。お裁き下さい」と言いました。天皇は大いに驚き、中大兄皇子に問いました。中大兄皇子は「入鹿は皇族を滅ぼして、皇位を奪おうとしました」と答えると、皇極天皇は直ちに殿中へ退きました。佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田は、蘇我入鹿を斬り殺しました。この日は大雨が降り、庭は水で溢れていました。蘇我入鹿の死体は庭に投げ出され、障子で覆いをかけられました。古人大兄皇子は私宮へ逃げ帰りました。中大兄皇子は直ちに法興寺へ入り戦備を固め、諸皇子、諸豪族は皆これに従いました。帰化人の漢直の一族は蘇我蝦夷に味方しようと蘇我氏の舘に集まりましたが、中大兄皇子が巨勢徳陀を派遣して説得して立ち去り、蘇我家の軍衆はみな逃げ散ってしまいました。蘇我蝦夷は舘に火を放ち「天皇記」、「国記」、その他の珍宝を焼いて自殺しました。船史恵尺がこの内「国記」を火中から拾い出して、中大兄皇子へ献上しました。こうして長年にわたり強盛を誇った蘇我本宗家は滅びました。皇極天皇は軽皇子へ譲位しました。これが孝徳天皇です。中大兄皇子は皇太子に立てられました。中大兄皇子は阿倍内麻呂を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣、中臣鎌足を内臣に任じました。その後「大化の改新」と呼ばれる改革を断行する事になります。

次に、畠山重忠の乱です。鎌倉幕府創設者である初代将軍・源頼朝の死後、幕府内部の権力闘争が続き「梶原景時の変」、「比企能員の変」によって有力者が滅ぼされ、幕府の実権は14歳の3代将軍・源実朝を擁する北条時政が握っていました。畠山重忠は秩父氏が代々継承してきた武蔵国の武士団を統率する留守所総検校職の地位にあり、その武勇と人望により源頼朝の時代には常に先陣を務め、その死に際して子孫を守護するように遺言を受けた有力御家人でした。また北条時政の前妻の娘婿であり、「梶原景時の変」、「比企能員の変」ではいずれも北条氏側に協力していました。京の平賀朝雅亭で、将軍・源実朝の妻・坊門信清の娘(信子)を迎えるために上洛した御家人たちの歓迎の酒宴が行われました。その席で平賀朝雅と畠山重忠の嫡子・重保との間で言い争いとなり、周囲の取りなしで事は収まりましたが、これが後に大きな争いの火種となりました。畠山重保と共に上洛していた北条時政と後妻・牧の方の子・政範が病で急死しました。そして政範の埋葬と畠山重保と平賀朝雅の争いの報告が同時に鎌倉に届きました。平賀朝雅は畠山重保に悪口を受けたと牧の方に讒訴し、牧の方はこれを畠山重忠父子の叛意であると北条時政に訴えました。平賀朝雅は牧の方の娘婿であり、畠山重保は北条時政の先妻の外孫にあたります。北条時政が子の義時と時房に畠山重忠討伐を相談すると、2人は畠山重忠の忠勤を訴えて謀反など起こすはずがないと反対しましたが、牧の方の兄・大岡時親に「牧の方が継母だから仇をしようと思っているのだろう」と迫られ、やむなく義時は畠山重忠討伐に同意しました。鎌倉は大きな騒ぎとなり、軍兵が謀反人を誅するべく由比ヶ浜へ先を争って走りました。同じ秩父氏の稲毛入道に招かれて鎌倉にいた畠山重保も郎従3人と共に由比ヶ浜へ駆けつけると、北条時政の意を受けた三浦義村が佐久間太郎らに畠山重保を取り囲ませました。自分が謀反人とされている事に気づいた畠山重保は奮戦しましたが、多勢に無勢で郎党共々殺害されました。北条時政の命により、鎌倉へ向かっている畠山重忠を道中で誅殺するべく大軍が派遣されました。大手の大将軍・北条義時に従ったのは先陣・後陣に葛西清重・堺常秀・大須賀胤信・国分胤通・相馬義胤・東重胤、そのほか足利義氏、小山朝政・三浦義村・三浦胤義・長沼宗政・結城朝光・宇都宮頼綱・八田知重・安達景盛・中条家長・苅田義季・狩野介入道・宇佐見祐茂・波多野忠綱・松田有経・土屋宗光・河越重時・河越重員・江戸忠重・渋河武者所・小野寺秀通・下河辺行平・薗田成朝、ならびに大井氏・品河氏・春日部氏・潮田氏・鹿島氏・小栗氏・行方氏、児玉党・横山党・金子党・村山党らが従い、関戸(多摩市関戸)の大将は北条時房・和田義盛として鎌倉を出陣しました。畠山重忠は鎌倉に騒ぎがあると聞き菅谷館を出発しており、二俣川で討伐軍に遭遇しました。畠山重忠の弟・長野重清は信濃国、六郎重宗は奥州へ行っており、畠山重忠が率いていたのは二男の重秀、郎従・本田次郎近常、乳母父の榛沢六郎成清以下140騎程度でした。今朝、畠山重保が殺された事、自分に追討軍が差し向けられた事を二俣川で初めて知った畠山重忠は、館へ退く事はせず潔く戦う事が武士の本懐であるとして大軍を迎え撃つ決断を下しました。そこへかつての旧友・安達景盛と主従七騎が先陣を切って突入し、北条義時の大軍と少数の兵で応戦する畠山重忠主従との激戦が4時間余り繰り広げられました。畠山重忠は愛甲季隆の放った矢に討たれ、首級を取られました。畠山重忠の死を知った畠山重秀以下は自害しました。軍勢を鎌倉へ引き上げた北条義時は、合戦の様子を聞いた北条時政に対し、畠山重忠の一族は出払っていて小勢であり、謀反の企ては虚報で、畠山重忠は無実でした。その首を見ると涙を禁じ得ず、大変気の毒な事をしたと述べました。北条時政は黙って引き下がりました。この日の夕方、鎌倉内で畠山重忠の同族で討伐軍に加わっていた稲毛重成父子、榛谷重朝父子が畠山重忠を陥れた首謀者として、三浦義村らによって殺害されました。少年の将軍・源実朝に代わり、尼御台・北条政子の命により、畠山氏の所領は勲功として畠山重忠を討った武士たちに与えられました。この事件をきっかけに北条時政は失脚し、牧の方と共に子の義時・政子姉弟によって鎌倉を追放されました。京にいた平賀朝雅は北条義時の命によって誅殺されました(牧氏事件)。残された畠山重忠の所領は北条時政の前妻の娘である畠山重忠の妻に安堵され、妻は足利義純に再嫁して義純が畠山氏の名跡を継ぎ、平姓秩父氏の畠山氏は滅亡しました。武蔵国は北条義時の弟・時房が守護・国司となりました。

その次に、象潟地震です。象潟地震は、1804年7月10日22時頃に出羽国を中心として発生した大地震です。松尾芭蕉らにより「東の松島 西の象潟」と評された景勝地の「象潟」が隆起して陸地化した事で知られる地震です。由利郡、飽海郡、田川郡で特に被害が著しく、本荘城では櫓、門、塀、石垣が大破し、本荘藩、庄内藩領内周辺では潰家5500軒余、死者366人の被害となり、幕府は本荘藩主・六郷政速に金2000両を貸与しました。象潟、遊佐、酒田などでは地割れ、液状化現象による噴砂が見られ、象潟、遊佐付近では家屋の倒壊率が70%に達しました。

その次の次に、北関東戊辰戦争:戸倉戦争です。会津南口総督・大鳥圭介、米沢藩士・雲井龍雄が指揮する列藩同盟軍が、尾瀬沼から三平峠を越えて戸倉(現・群馬県利根郡片品村)に向かいました。戸倉は沼田の東で会津と接する地点で、新政府軍(前橋、高崎、沼田藩兵)がいました。列藩同盟軍は、新政府軍を襲撃しました。新政府軍は応戦しましたが、列藩同盟軍が勝利しました。

そのまた次に、会津戊辰戦争:七曲の戦いです。仙台藩士・細谷十太夫は白河城の近くの須賀川で、東北地方の大親分を含む博徒や漁師などの庶民を束ねて「衝撃隊」を結成し、自ら隊長に就任しました。白河を落として進撃を開始した新政府軍は、須賀川に迫ってきました。細谷十太夫が率いる「衝撃隊」は、七曲(現・白河市表郷堀之内七曲)で67人全員が抜刀し、新政府軍を襲撃して潰走させました。「衝撃隊」は黒装束に長脇差一本で新政府軍に夜襲攻撃を敢行し、新政府軍を恐怖に陥れました。その後、「衝撃隊」の新政府軍への襲撃回数は30数回に及び、その全ての戦いに勝利しました。こうして「衝撃隊」は、列藩同盟軍の主戦力となりました。細谷十太夫が黒装束の上に着用していた半てんの背中に「カラス」の文様が描かれていた事と、「衝撃隊」が黒装束を身にまとっていた事から、「衝撃隊」は新政府軍から「鴉組(からすぐみ)」と呼ばれて大いに恐れられました。細谷十太夫は、東北地方の民衆の英雄となりました。「細谷烏と十六ささげ 無けりゃ官軍高枕」の唄が流行しました。この「細谷烏」は、細谷十太夫と衝撃隊(鴉組)の事です。

最後に、第二次世界大戦:第6回大阪大空襲(堺大空襲)、仙台大空襲です。アメリカ軍は大規模空襲に先立ち「仙台よい町 森の町 7月10日は灰の町」と印刷したビラを空から撒き、空襲を予告していました。7月9日、アメリカ軍第20航空軍所属の第58爆撃飛行団に出撃命令が出され、日本時間の午後4時3分、B−29爆撃機131機がテニアン西飛行場を離陸して出撃しました。不具合で引き返したものを除く123機が仙台に到達しました。7月10日午前0時3分、高度約3000メートルより、2、3機から5機くらいの編成で25波に分かれ、仙台市内を約2時間にわたって空襲しました。焼夷弾10961発による絨毯爆撃と高性能爆弾8個により、仙台市中心部は焦土と化しました。「仙台駅から西公園が見えるようになった」との体験談が語られています。被害は、死者2755人、被災人口57321人、被災戸数11933戸、被災面積5平方キロメートルにのぼり、東京よりも北の都市では最大規模となりました。アメリカ軍の損失は、滑走路で炎上した1機(全乗員脱出)のみでした。しかし、東北軍管区司令部は「撃墜5、撃破12」という虚偽の戦果を発表しました。
第6回大阪大空襲(堺大空襲):1945年7月10日1時33分から3時6分の約1時間半に渡って行なわれました。この空襲は一般的に「堺大空襲」呼ばれ、堺市中心部が大きな被害を受けました。中小都市爆撃作戦の一環として、サイパン島アイズレイ飛行場第73航空団の116機が、堺市中心部に約1万3000発、778.9トンの爆弾を落としました。大阪市中心部を狙った「第1回大阪大空襲」以来の夜間空襲で、堺市では2.64平方メートル、約5万5000人が被災し、死者1370人、重軽傷者1472人、行方不明者3人、家屋の全半焼14797戸の被害を出しました。この空襲では堺市の他、大阪市住吉区や貝塚市でも被害を出しました。
仙台大空襲:アメリカ軍は大規模空襲に先立ち「仙台よい町 森の町 7月10日は灰の町」と印刷したビラを空から撒き、空襲を予告していました。7月9日、アメリカ軍第20航空軍所属の第58爆撃飛行団に出撃命令が出され、日本時間の午後4時3分、B−29爆撃機131機がテニアン西飛行場を離陸して出撃しました。不具合で引き返したものを除く123機が仙台に到達しました。7月10日午前0時3分、高度約3000メートルより、2、3機から5機くらいの編成で25波に分かれ、仙台市内を約2時間にわたって空襲しました。焼夷弾10961発による絨毯爆撃と高性能爆弾8個により、仙台市中心部は焦土と化しました。「仙台駅から西公園が見えるようになった」との体験談が語られています。被害は、死者2755人、被災人口57321人、被災戸数11933戸、被災面積5平方キロメートルにのぼり、東京よりも北の都市では最大規模となりました。アメリカ軍の損失は、滑走路で炎上した1機(全乗員脱出)のみでした。しかし、東北軍管区司令部は「撃墜5、撃破12」という虚偽の戦果を発表しました。

今日の誕生日:北条政村(鎌倉幕府・第7代執権)、後花園天皇(第102代天皇)、梁川星巌、花菱アチャコ(元エンタツ・アチャコ)、吉行あぐり、ボボ・ブラジル、左右田一平、米倉斉加年、松島トモ子、森功至、大杉久美子、ニール・テナント(ペット・ショップ・ボーイズ)、布施博、沢村一樹、小泉孝太郎、佐藤夕美子、田中圭、山田親太朗(元サーターアンダギー)、林丹丹、前田敦子(元AKB48)、三宅ひとみ(元アイドリング!!!17号)、勝田梨乃(元SUPER☆GiRLS)、加藤玲奈(AKB48)、ねば〜る君

今日の記念日:四万六千日、ウルトラマンの日、納豆の日、指笛の日、潤滑油の日、植物油の日、国土建設記念日、ブナピーの日、ナオトの日、Stop!迷惑メールの日、日本なまずの日

今日の「今日訓」:本日は、「四万六千日」です。浅草の浅草寺では、この日に参詣すると46000日分の参詣をしたに等しい利益があると言われています。1966年、特撮番組「ウルトラマン」の放映が開始された事を記念し、「ウルトラマンの日」となりました。前番組「ウルトラQ」の最終話が急遽放送されない事になったため、穴埋めとしてこの前日に行われたウルトラマンの宣伝イベントの模様を「ウルトラマン前夜祭」として放映しました。2002年、ブナシメジの新品種「ブナピー」が発売された事で「ブナピーの日」、2006年に沖縄の指笛愛好家グループ「指笛王国おきなわ」が設定した「指笛の日」、1948年、「建設院」が省に昇格して「建設省」となった事を記念して「国土建設記念日」、2002年に「迷惑メール相談センター」が開設された事で「Stop!迷惑メールの日」、「7(なっ)10(とう)」の語呂合わせで「納豆の日」、「710」を逆さにすると「OIL」になる事から「潤滑油の日」、「植物油の日」、南米インカの言葉で「太陽の祭り」を意味する「インティライミ」を冠する「ナオト・インティライミ」、「7(ナオ)10(ト)」の語呂合わせで「ナオトの日」、「な(7)まず(10)」の語呂合わせで「日本なまずの日」となりました。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する