mixiユーザー(id:48382454)

2020年07月08日00:23

17 view

7月8日の日記

今日の出来事:1247年−宝治合戦:三浦氏滅亡、1582年−神流川の戦い、1853年−黒船来航:ペリー率いる黒船が浦賀に来航(幕末のはじまり)、1864年−池田屋事件、1868年−北越戊辰戦争:長岡城陥落、1868年−箱根戊辰戦争:箱根関所襲撃、1921年−イラク・バスラで世界最高気温58・8℃を記録

今日は、宝治合戦:三浦氏滅亡です。鎌倉幕府3代執権・北条泰時が死去し、その嫡孫で19歳の北条経時が跡を継ぎました。北条得宗家主導の政治に不満を募らせていた御家人達は、北条泰時時代には幼少だった4代将軍・藤原頼経が成人すると、その元に集って北条執権体制への反対勢力を形成しました。鎌倉幕閣は北条執権派と将軍派に分裂して対立を続け、北条経時の病死と同時に「宮騒動」が勃発しました。急遽5代執権となった弟・北条時頼により、嫡男の藤原頼嗣に将軍職を譲らされた前将軍・藤原頼経が京都へ送還され、将軍派であった御家人達が処分されました。この騒動の際、三浦氏は将軍派の背後にありながらも動かなかったため、処分を受けませんでしたが大きな打撃でした。三浦氏は鎌倉の地元相模国を本拠とする幕府創設以来の大族で、有力御家人が次々と排斥されていった中で生き残った北条氏に比肩しうる最大勢力でした。北条得宗家とは縁戚関係を結びながらも、常に緊張関係にありました。三浦氏当主・三浦泰村は北条氏への反抗の意志はありませんでしたが、弟の光村は反北条の強硬派であり、藤原頼経の京都送還に同行し、「必ず今一度鎌倉へお迎えします」と涙ながらに語り、その様子は北条時頼に報告されていました。執権・北条時頼は藤原頼経の父で将軍派の背後にいた九条道家の関東申次職を罷免し、代わって西園寺実氏を任命しました。九条道家の後ろ盾を失った将軍復権派は、もう実力行使しか手は残されておらず、三浦光村は鎌倉に帰着すると反北条の勢力を集結すべく動きました。そんな中、北条政子の死後、高野山に籠もっていた打倒三浦の強硬派である安達景盛が25年ぶりに鎌倉へ戻ってきました。北条時頼の邸に参上し、長時間話し込んで三浦攻撃を説きました。その後、安達景盛は三浦氏の風下に甘んじる子の義景や孫の泰盛を激しく叱責しました。しかし、北条時頼は腹心・平盛綱を三浦泰村邸に遣わし、和平の義を成立させました。その事を知った安達景盛は、三浦氏と雌雄を決するべく安達泰盛を先陣として一族に出撃を命じました。平盛綱が和議をまとめ、三浦の館に赴くのを出し抜いて、武装した安達の軍勢が館から出撃し、若宮大路を突っ切って鶴岡八幡宮に突入し、境内を斜めに駆け抜けて三浦泰村の館を強襲しました。奇襲を受けた三浦泰村は仰天し、舘に立て籠もって迎撃の構えを取りました。合戦が始まると御家人達が続々と両陣営に駆けつけ始めて鎌倉に密集し、趨勢は混乱を極めました。三浦方には妹婿の毛利季光、関政泰、春日部実景、宇都宮時綱ら縁戚と将軍派の御家人達が集まりました。小鹿島公業の子・小鹿島公苗は、一番槍の勲功を挙げようと前日から三浦氏の屋敷の庭の藪の中に郎党二人と共に潜伏して、合戦が始まるや否や飛び出して奇襲を仕掛けましたが、反撃を受けて郎党一人を失い遁走しました。合戦に引きずり込まれる形になった北条時頼は、北条実時に将軍御所の守護を命じ、弟・時定を大将軍に任じて三浦泰村の討伐を命じました。三浦舘には鎌倉にいた三浦一族、藤原頼経を慕う御家人達が集まり、三浦半島からも一族が駆けつけました。三浦光村は80騎を率いて永福寺に籠もり、鎌倉と得宗家の本拠地山内荘を分断しました。三浦泰村館への攻撃で、北条勢は攻めあぐねていました。風向きが変わったところで周辺の舘に火がかけられ、燻り出された三浦泰村達は舘を出て右大将家(源頼朝)法華堂に向かいました。三浦光村は三浦泰村に使者を使わして要害の地である永福寺での合流を勧めましたが、泰村はすでに戦う意志はなく、兄弟一緒に亡き頼朝公の御影の前で死ぬべしとして光村に法華堂へ来るように命じました。やむなく光村は数町に及ぶ敵陣の中を強行突破して法華堂へ向かいました。法華堂には三浦一族とその縁戚、将軍派であった御家人達500余名が集まっていました。その内260名は将軍御所に出仕する資格を持った番衆でした。法華堂の門外で郎従達が防戦している間、出家して西阿と称していた毛利季光が念仏を唱え、三浦光村が調声の任を努めました。源頼朝の御影の前で一同は、しばし懐旧の談を交わしました。三浦光村は「九条頼経殿が将軍の時、その父・九条道家殿が内々に北条を倒して兄・泰村殿を執権にすると約束していたのに、泰村殿が猶予したために今の敗北となり、愛子と別れる事になったばかりか、当家が滅ぶに至り、後悔あまりある」と悔やみました。三浦光村は太刀を抜くと自分の顔を削って「この顔は我とわかるか?」と訪ね、「いまだに光村殿と見ゆ」と返事を聞くとさらに自分の顔を切り刻み、あまりの事に三浦泰村は「汝の血で故・頼朝公の御影を汚し奉る。不忠至極である」と諫めました。血気の三浦光村に対し、最期まで穏便であった三浦泰村は「当家数代の功を思えば、累代は赦されるだろう。我らは三浦義明以来四代の家督なり。北条殿の外戚として長年補佐してきたものを、讒言によって誅滅の恥を与えられ、恨みと悲しみは深い。ただし、父・義村は他の一族の多くを滅ぼし、罪業を負った。これはその報いであろう。もうすでに冥土に行く身で、もはや北条殿に恨みはない。」と涙で声を震わせました。三浦一族と与党500余名はそれぞれに自刃して果てました。上総国にあった三浦泰村の妹婿・千葉秀胤は追討軍と戦って敗れ、一族と共に自害しました。残された三浦一族の妻子は鎌倉を追放されました。三浦家村は所在不明、泰村の弟である僧・良賢が召しだされた他、朝廷に使える女人の内、三浦一族と縁の深い者が罷免されました。三浦一族の墓所は、頼朝法華堂東方の山腹にあります。こうして幕府創設以来の雄・三浦氏の滅亡により、将軍側近勢力は一掃され、合議制の執権政治は終わりを告げ、北条得宗家による専制体制が確立しました。北条泰時の前妻だった矢部禅尼の再婚後の子供達である三浦氏・佐原流は生き残り、のちに三浦姓を名乗って三浦家を再興し、相模三浦氏となって北条早雲と戦います。佐原流のもう一方は、会津守護・蘆名氏となります。また、毛利季光の一族はこの時に大半が果てていますが、越後にいた四男・毛利経光のみが生き残り、後に戦国大名となる安芸・毛利氏になります。

次に、神流川の戦いです。神流川の戦いは、織田信長が「本能寺の変」によって敗死した後、滝川一益と北条氏直・北条氏邦が争った戦いです。戦国時代の関東地方で一番大きな野戦です。「甲州征伐」が終了後、織田家からは信長の重臣・滝川一益が上野と信濃の小県郡・佐久郡に封じられ、織田家に従った関東諸侯を与力としました。滝川一益は厩橋城を拠点として駐留しました。「本能寺の変」は、滝川一益及び北条家の陣営にも伝わりました。これに乗じた北条氏により、上野侵攻が企画されました。北条軍は即時動員を行い、北条氏直と叔父・北条氏邦が率いる5万6千が上野に侵攻しました。滝川一益は「弔い合戦」と称し、2万弱の兵を率いて北条と対決する事となりました。北条氏直軍は倉賀野を攻め、滝川一益はこれに応戦するため金窪(武蔵児玉郡上里町)で迎え撃ちました。金窪原で行われた第一次合戦では、滝川一益が寡兵ながらも北条氏邦の鉢形衆300と北条氏直の近侍衆を討ち取るなど、北条軍の先遣部隊を追い落としました。しかし、翌日の第二次合戦では上野勢は積極的に動かず、滝川一益軍2800がほぼ単独で戦いました。序盤は優勢でしたが、北条軍を追ったところで軍勢が著しく縦長となり、退くと見せかけて反転攻勢に出た北条軍に取り囲まれ、滝川一益軍は総崩れとなって惨敗を喫しました。家臣・笹岡平右衛門が身代わりとなって討死し、滝川一益は厩橋城に遁走し、碓氷峠から小諸を経て本拠地の伊勢長島城に逃げ帰りました。滝川一益はこの敗戦のために「清洲会議」に出席が出来ず、織田家での地位は急落しました。滝川一益は織田信孝、柴田勝家に与して羽柴秀吉と激突しましたが、柴田勝家が「賤ヶ岳の戦い」で敗死、織田信孝も自害すると孤立し、羽柴秀吉に降伏しました。この後、「小牧・長久手の戦い」では「蟹江城の戦い」で徳川家康・織田信雄の軍勢と戦って降伏、越前大野に流されて一生を終えました。北条軍はこのまま上野を通過して信濃に入り、傘下に降った真田氏、依田氏などの国人を足掛かりにして信濃の小諸城に進出し、徳川家康、上杉景勝と三つ巴の対立「天正壬午の乱」が始まります。

その次に、黒船来航:ペリー率いる黒船が浦賀に来航(幕末のはじまり)です。マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍・東インド艦隊の艦船が、日本の浦賀沖に来航しました。黒塗りの船体の外輪船は、帆以外に外輪と蒸気機関でも航行し、帆船を1艦ずつ曳航しながら煙突からはもうもうと煙を上げていました。日本人が初めて見た艦は、その様子から「黒船」と呼ばれました。浦賀沖に投錨した艦隊は旗艦「サスケハナ」、「ミシシッピ」、「サラトガ」、「プリマス」の四隻からなっていました。大砲は計73門あり、臨戦態勢をとりながら、勝手に江戸湾の測量などを始めました。さらに、「アメリカ独立記念日」の祝砲や、号令や合図を目的として、湾内で数十発の空砲を発射しました。最初の砲撃によって江戸は大混乱となりましたが、やがて空砲だとわかると、町民は砲撃音が響くたびに、花火の感覚で喜んでいました。浦賀は見物人でいっぱいになり、勝手に小船で近くまで繰り出し、上船して接触を試みる者もありました。この時、「泰平の 眠りを覚ます 上喜撰 たつた四杯で 夜も眠れず」という狂歌が詠まれました。幕府は、船上のペリーに対してまず浦賀奉行所与力の中島三郎助を派遣し、ペリーの来航が将軍に「アメリカ合衆国大統領親書」を渡すのが目的である事を把握しましたが、ペリー側は幕府側の与力の階級が低過ぎるとして、親書を預ける事を拒否しました。続いて同じく香山栄左衛門が訪ねましたが対応は変わらず、親書は最高位の役人にしか渡さないとはねつけられました。この時、第12代将軍・徳川家慶は病床に伏せていて、国家の重大事を決定できる状態ではありませんでした。老中首座・阿部正弘は、ペリー一行の久里浜上陸を許し、下曽根信敦が率いる部隊の警備の下、浦賀奉行の戸田氏栄・井戸弘道がペリーと会見しました。ペリーは彼等に開国を促すフィルモア大統領親書、提督の信任状、覚書などを手渡しましたが、幕府は将軍が病気であって決定できないとして、返答に1年の猶予を要求しました。ペリーは返事を聞くため、1年後に再来航すると告げました。こうして艦隊は江戸を離れました。それからわずか10日後に将軍・徳川家慶が死去すると、13代将軍に徳川家定が就きましたが、彼は病弱で国政を担えるような人物ではありませんでした。国内は異国排斥を唱える「攘夷論」が高まっていたため、老中首座の阿部正弘は開国要求に頭を悩ませました。「大船建造の禁」が解除され、各藩に軍艦の建造を奨励、幕府自らも洋式帆船「鳳凰丸」を浦賀造船所で起工しました。日本では、この「黒船来航」から「明治維新」までを「幕末」と呼んでいます。

その次の次に、池田屋事件です。幕末の京都は政局の中心地となり、尊王攘夷・勤王等の政治思想を持つ諸藩の浪士が潜伏して活動していました。長州藩は会津藩と薩摩藩による宮中クーデターである「八月十八日の政変」で失脚し、朝廷は公武合体派が主流となっていました。京都守護職・松平容保は、新選組を用いて市内の警備や捜索を行わせました。新選組・諸士調役兼監察の山崎烝・島田魁らによって四条小橋で炭薪商を経営する枡屋(古高俊太郎)の存在を突き止め、会津藩に報告して捜索すると武器や長州藩との書簡等が発見されました。古高俊太郎を捕らえた新選組は、土方歳三の拷問により自白させました。自白内容は「祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉し、一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去る」というものでした。さらに探索によって、長州藩・土佐藩・肥後藩等の尊王派が古高俊太郎の逮捕をうけて、襲撃計画の実行・中止について協議する会合が池田屋か四国屋に於いて行われる事を突き止めました。亥の刻(22時頃)過ぎ、捜索の末に近藤隊は池田屋で謀議中の尊攘派志士を発見しました。近藤隊は数名で突入し、真夜中の戦闘となりました。20数名の尊攘派に対し、当初踏み込んだのは近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4名で、残りは屋外を固めました。屋内に踏み込んだ沖田総司は奮戦しましたが、戦闘中に病に倒れて戦線離脱しました。また1階の藤堂平助は汗で鉢金がずれたところに太刀を浴びせられ、額を斬られて血液が目に入ったため戦線離脱しました。襲撃を受けた宮部鼎蔵ら志士達は応戦しつつ、現場からの脱出を図りました。裏口を守っていた安藤早太郎・奥沢栄助・新田革左衛門達のところに土佐藩脱藩・望月亀弥太ら浪士が脱出しようと必死で斬りこみ逃亡しました。これにより奥沢栄助は死亡し、安藤早太郎・新田革左衛門も1ヶ月後に死亡しました。望月亀弥太は負傷しつつも長州藩邸付近まで逃げ延びましたが、追っ手に追いつかれて自刃しました。新選組側は一時は近藤勇・永倉新八の2人となりましたが、土方隊の到着により戦局は新選組に有利に傾き、方針を「斬り捨て」から「捕縛」に変更しました。9名を討ち取り、4名を捕縛の戦果を上げました。会津・桑名藩の応援は戦闘後に到着しました。土方歳三は手柄を横取りされないように、一歩たりとも近づけさせなかったといいます。この戦闘で数名の尊攘派は逃走しましたが、続く翌朝の市中掃討で会津・桑名藩らと連携し、20余名を捕縛しました。この市中掃討も激戦となり、会津藩は5名、彦根藩は4名、桑名藩は2名の即死者を出しました。桂小五郎(後の木戸孝允)は、会合への到着が早すぎたので、一旦池田屋を出て対馬藩邸で大島友之允と談話していたため、難を逃れました。談話中に外の騒ぎで異変に気付いた桂小五郎は、現場に駆けつけようとしましたが、大島友之允に制止されたため思い留まりました。こうして、御所焼き討ちの計画を未然に防ぐ事に成功した新選組の名は、天下に轟きました。逆に尊攘派は多数の逸材が戦死し、大打撃を受けました。落命した志士達は三条大橋東の三縁寺に運ばれて葬られました。長州藩はこの事件をきっかけに激高した強硬派に引きずられる形で挙兵・上洛し、「禁門の変」を引き起こす事になります。この「池田屋事件」により逸材たちが落命し明治維新が1年遅れたとも、逆に尊攘派を刺激してしまい維新を早めたともいわれています。以下が池田屋事件で襲撃された志士たちです。
池田屋事件殉難者:宮部鼎蔵(熊本藩士、肥後勤王党の総師)、北添佶摩(土佐脱藩士)、大高又次郎(林田藩士、赤穂浪士四十七士の一人・大高忠雄の子孫、義弟・忠兵衛とともに池田屋事件に遭遇)、石川潤次郎(土佐藩士)、松田重助(熊本藩士・宮部鼎蔵に兵学を学ぶ、池田屋で新選組に捕縛される。翌朝、脱走したが見廻りの会津藩士により殺害)、伊藤弘長(土佐藩士)、福岡祐次郎(松山藩士)、越智正之(土佐藩士)、広岡浪秀(長州藩大嶺神社の神主、池田屋で負傷。逃れて長州藩邸付近で絶命)、吉田稔麿(長州藩士、吉田松陰の松下村塾に入門し、四天王の一人に称される。奇兵隊に参加。屠勇隊を創設、「朝陽丸事件」では烏帽子・直垂姿で船に乗り込み、説得に成功。池田屋に出席していたが、一度屯所に戻るために席を外す。戻ると新選組が池田屋の周辺を取り囲んでいて、奮闘の末に討死。後に、品川弥二郎が「稔麿が生きていたら総理大臣になっただろう」と語った。)、望月亀弥太(土佐脱藩士、土佐勤皇党員、神戸海軍操練所生。池田屋を脱出するが、幕府方諸藩兵によって取り囲まれて深手を負う。長州藩邸に辿り着いたが、門前で自刃。坂本龍馬と勝海舟も、その死を嘆いた。)、野老山吾吉郎(土佐藩士、土佐勤王党員。儒学者・板倉槐堂を訪問する為に藤崎八郎と共に三条小橋を通過する際、池田屋事件捕遂の任の会津藩兵に発見され襲撃を受けた。切り合いの末、負傷して長州藩邸に逃げ、傷が深く自刃)、藤崎八郎(土佐藩士、同僚の野老山吾吉郎と三条橋付近で、厳戒警備中の会津藩兵に尋問を受けて斬り合いになり、2人を斬殺し自らも負傷。板倉槐堂邸にて治療を受けた後、寓居に帰り着いた。後に大阪土佐藩営に移されるが死亡) 、杉山松助(長州藩士、吉田松陰による「間部詮勝天誅計画」をはじめとした過激な尊皇攘夷運動に参加。京都に赴き、久坂玄瑞らと共に活動。池田屋事件の時は長州藩邸にいたが、深手を負った野老山吾吉郎が助けを求めに来たのを見て、桂小五郎の安否を心配し槍を持って池田屋に向かったが、会津藩兵に囲まれ右腕を切り落とされ、後に出血多量で死亡)、酒井金三郎(長府藩士、捕縛後に殺害)、内山太郎右衛門(長州藩士、奇兵隊に入り、下関で外国船砲撃に参加。京都で活動中、池田屋事件の浪人狩りで捕らえられ、六角牢で処刑)、佐伯稜威雄(長州藩神職、八幡隊に入り、京都で朝廷の動静を探索。池田屋を脱出するが、その後の探索で新選組に捕らえられ、京都六角獄で刑死)、佐藤一郎(長州藩京都藩邸吏、会津藩兵に捕らえられ、京都六角獄で刑死)、山田虎之助(長州藩士、池田屋を脱出するが、会津藩兵に捕らえられ京都六角獄で刑死)、大高忠兵衛(林田藩士、義兄・又次郎とともに池田屋に居合わせ、新選組によって捕縛され六角牢で獄死)、西川耕造(近江の人、池田屋を脱出するが捕まり獄死)、今井三郎右衛門(豊岡藩士、池田屋事件の浪人狩りで捕らえられ、六角牢で処刑)、村上俊平(上田藩士、平野国臣の但馬義挙「生野の変」に参加し、敗軍のあと京都に潜行。この時に池田屋事件が起こり、捕われて六角の獄に投じられ処刑)、池田屋惣兵衛(池田屋主人、新選組に捕えられ獄死)、古高俊太郎(京都で諸藩御用達・枡屋を継ぎ、枡屋喜右衛門を名乗る。新選組に踏み込まれ捕縛。武器弾薬を押収され、諸藩浪士との書簡や血判書が発見された。新選組の拷問により計画を自白し「池田屋事件」が起こる。六角獄舎に収容され、刑死)

そのまた次に、北越戊辰戦争:第一次長岡城攻防戦・長岡城陥落です。「榎峠の戦い」、「朝日山の戦い」で敗退した新政府軍・山県有朋は、三好重臣が率いる海道軍の到着を待ちました。三好重臣が率いる海道軍は、出雲崎等に籠る桑名藩兵・会津藩兵・水戸脱走軍等の同盟軍を駆逐しながら前進し「妙法寺の戦い」、「椎谷・赤田の戦い」、「灰爪・市の坪の戦い」で関原を制圧しました。この関原を本営とする事にした三好重臣は小千谷の山県有朋と連絡を取り、同盟軍の主力が妙見高地に居る隙を狙い、海道軍が一気に信濃川を渡河して長岡城を攻撃する作戦を立てました。大雨により信濃川が増水していたため、薩摩陣営から「無謀だ」と言う反対意見が出ましたが三好重臣と報国隊軍監・熊野直介は、ここで長州勢の意地を見せてやると長州藩兵が先鋒となる渡河作戦を決意しました。三好重臣と熊野直介は長州藩奇兵隊三番隊(隊長・堀潜太郎)、長府藩報国隊二番隊(隊長・内藤芳介)、同四番隊(隊長・木村安八)を率いて渡河作戦を開始し、長岡城正面の中島方面に上陸しました。続いて高田藩・榊原若狭大隊(兵員380名程)と加賀藩兵2個中隊(隊長・小川仙之助、斉藤興兵衛)も渡河作戦を開始し、中島周辺に次々と新政府軍が上陸しました。この三好重臣が率いる部隊の上陸後に薩摩藩兵も渡河作戦を開始し、北側の蔵王方面に薩摩藩城下士小銃十番隊半隊(隊長・山口鉄之助)、外城三番隊(隊長・有馬誠之丞)、同四番隊(隊長・中村源助)等が次々に上陸し、蔵王堂城陣地を守る長岡藩兵を撃破してこの地を占拠しました。当時、長岡藩をはじめとした同盟軍主力部隊は榎峠や朝日山の守備に回っており、城下はがら空きの状態でした。城はわずか半日で落城し、長岡藩兵は栃尾に退却しました。新政府軍は長岡城を奪取しましたが追撃する余力が無かったため、長岡藩兵は態勢を整えて加茂に集結します。この加茂に米沢藩兵を主力とした援軍が到着したため、同盟軍の戦力は増加して約3000の大軍となり、更に背後の新潟港より諸外国から購入した銃砲や弾丸の補給が容易になり、新政府軍への反撃を開始する事になります。

最後に、箱根戊辰戦争:箱根関所襲撃です。上総国の請西藩主・林忠崇は「撤兵隊」や伊庭八郎、人見勝太郎が率いる「遊撃隊」などの旧幕府軍が来訪して協力を要請すると、林忠崇は自ら脱藩して藩士70名とともに「遊撃隊」に参加しました。新政府は藩主自らの脱藩を反逆と見なし、林家は改易処分となりました。こうして、林忠崇は「脱藩大名」と言われる事になります。安房館山から船に乗り、伊庭八郎が来援を依頼した旧幕府海軍所属の軍艦「大江丸」に曳航されて、伊豆の真鶴へ到着しました。林忠崇が小田原城に出向いて、同じ譜代藩である小田原藩・大久保忠礼に協力を求めました。小田原藩は物資や金を差出しました。林忠崇は東海道筋の諸藩に、名古屋・彦根が徳川の分家、家臣でありながら出兵して宗家を討たんとしている非道を訴え、同盟を請う檄文を発しました。これに伴って参加してくる諸藩の同志が増えて273名になりました。このため、隊を5軍に分けてそれぞれに隊長を任じる事にしました。人見勝太郎は第1軍隊長、伊庭八郎を第2軍隊長とし、林忠崇は請西脱藩士のみの第4軍隊長になりました。以降、この混成部隊を「遊撃隊」と呼ぶ事になります。江戸で旧幕臣を中核とする「彰義隊」が、上野の山に籠って薩長軍と開戦した報が、「遊撃隊」を激発させる事になりました。「彰義隊」が奮戦している内に東西呼応の蜂起を決心し、箱根関所の占領を目指して動きました。関所守備の小田原藩兵(約300名)と戦端を開き、小田原藩側が「大総督府の軍監が小田原にいるので関所を通すわけにはいかないが、戦いもまた望まない故に、間道を案内するからそこを通行されたい」と申し入れましたが、人見勝太郎が拒否すると関所内より砲撃を受けて応戦をしました。一方は関所に籠り、他方は箱根の宿場内に散開しての銃砲撃戦で、勝敗は定まりませんでした。箱根関所争奪戦は、小田原藩側から休戦を申し入れて終了となりました。戦いの中で小田原藩の藩論は一変して佐幕と決し、関所内に迎え入れる事にしました。こうして「遊撃隊」は、一日で関所を手に入れました。小田原藩軍を督戦すべく、小田原から箱根に向かった軍監の中井範五郎は、人見勝太郎の放った遊撃隊士に斬られ、もう一人の軍監・三雲種方は海路江戸へ逃れました。さらに小田原城下でも佐幕派の小田原藩士・小泉彦蔵と山田龍兵衛が、滞在中だった土佐藩軍監の吉井顕蔵を斬りました。荻野山中藩士・小野木守三も討死しました。そして、「遊撃隊」は小田原藩主・大久保忠礼に招かれて、小田原城に入城しました。

今日の誕生日:ジョン・D・ロックフェラー、岩村通俊、吉行理恵、大木凡人、麻生圭子、三谷幸喜、SUGIZO(LUNA SEA)、安永亜衣、谷原章介、ヒライケンジ、鈴木繭菓、鈴木啓太

今日の記念日:質屋の日、中国茶の日、外務省開庁記念日、なはの日、ベイエフエムの日、ナイスバディーの日、菌労感謝の日、なわの日

今日の「今日訓」:本日は、明治2年7月8日に明治新政府が外務省を創設した事を記念して「外務省開庁記念日」、2010年7月8日、「もやしもん」のドラマ化で「菌」の人類への貢献に感謝する日として「菌労感謝の日」、「7(しち)8(や)」の語呂合わせで「質屋の日」、中国語の7(チー)と日本語の8(や)で「ちゃ」と読む語呂合わせで「中国茶の日」、「7(ナ)8(ハ)」の語呂合わせで沖縄県那覇市の「なはの日」、78.0MHzの周波数から「ベイエフエムの日」、「(7)ナイス(8)バディー」の語呂合わせで「ナイスバディーの日」、「7(な)8(わ)」の語呂合わせで「なわの日」となりました。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する