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2020年07月07日00:26

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7月7日の日記

今日の出来事:1541年−武田晴信(後の信玄)が父・信虎を甲斐から追放、1582年−天正壬午の乱:武田旧臣一揆、1937年−盧溝橋事件、1944年−第二次世界大戦:サイパンの戦い、サイパン島の日本軍守備隊が玉砕、1945年−第二次世界大戦:清水空襲、1970年−日本初のファミリーレストラン・すかいらーく国立店が開店

本日は、まず七夕伝説です。琴座の1等星「ベガ」は、中国・日本の七夕伝説では「織姫星(織女星)」として知られています。織姫は天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘でした。「夏彦星(彦星、牽牛星)」は、鷲座の1等星「アルタイル」です。夏彦もまた働き者であり、天帝は二人の結婚を認めました。めでたく夫婦となりましたが夫婦生活が楽しく、織姫は機を織らなくなり、夏彦は牛を追わなくなりました。このため天帝は怒り、二人を天の川を隔てて引き離しました。しかし、年に1度の7月7日だけ天帝は会う事を許し、天の川にどこからかやってきたカササギが橋を架けてくれて会う事ができました。しかし、7月7日に雨が降ると天の川の水嵩が増し、織姫は渡る事ができず夏彦も彼女に会う事ができません。星の逢引である事から、七夕には星あい(星合い、星合)という別名もあります。また、この日に降る雨は催涙雨とも呼ばれます。催涙雨は織姫と夏彦が流す涙と言われています。

今日は、武田信虎追放です。武田信虎は、武田氏の第17代当主・信縄の嫡男です。武田信昌の嫡男・信縄とその弟・油川信恵が対立し、甲斐一国は内乱状態に陥っていました。1505年に武田信昌、1507年に武田信縄が相次いで死去し、14歳で家督を継承して18代当主となりました。信虎の叔父・油川信恵は弟・岩手縄美、栗原昌種や甲斐東部郡内の領主・小山田弥太郎を味方にして信虎に対抗しました。武田信虎は1508年の「坊峰合戦」で勝山城を急襲し、油川信恵、岩手縄美、小山田弥太郎ら油川信恵方の大半を討ち取り、信虎によって武田家が統一がされました。1509年には郡内へ侵攻し、小山田氏を従属させて当主・小山田信有に実妹を嫁がせました。勝沼には弟・信友を配しました。その後、甲斐北西部の国衆・今井氏を従わせましたが、駿河の今川氏に属していた河内の穴山信懸、西郡の大井氏と争いました。武田信虎は大井信達・信業父子の拠る西郡上野城を攻めました。今川氏は大井氏救援の為に出陣し、甲駿国境を封鎖しました。大井氏・駿河今川氏との抗争は続き、今川氏は甲府盆地や都留郡にも侵攻し、武田信虎や小山田氏との合戦が展開されました。1517年に今川氏と和睦、1520年に大井氏と同盟して大井信達の娘(大井の方)を正室に迎えました。そして、武田氏歴代の居館であった石和より西の甲府へ移り、川田に館を置きました(川田館)。その後、府中(甲府市古府中)に躑躅ヶ崎館を築き、城下町を整備しました。その後も、国人領主・今井氏や信濃の諏訪氏と争いました。1521年に今川氏親の配下で土方城主・福島正成が率いる今川軍が、富士川沿いに甲斐に侵攻して甲府へ迫ると、甲府館北東の要害山城へ退きました。そして、今川軍を「飯田河原の戦い」で撃退しました。この直後に、要害山城で嫡男・晴信(後の信玄)が産まれました。しかし、すぐに再び侵攻して来た今川軍と「上条河原の戦い」で激突し、原虎胤が大将・福島正成を討ち取りました。今川軍は駿河へ敗走しました。この福島正成の子・勝千代が、小田原に落ち延びて北条氏綱の保護を受け、やがて北条綱成と名乗ります。そして氏綱・氏康を支えた北条家の中心武将となるのです。1524年、関東における両上杉氏と北条氏の争いに介入し、「猿橋の戦い」で北条氏綱を破りました。その後、駿河の今川氏親と和睦しました。1528年に諏訪攻めを行いましたが、「神戸・堺川合戦」で諏訪頼満・頼隆に敗退しました。1531年には諏訪氏の後援を得て甲斐国人・栗原兵庫、飯富虎昌らが反旗しましたが、「塩川河原の戦い」で今井信元ら国人連合を撃破しました。そして、今井信元の浦城を攻撃して降伏させました(浦城の戦い)。こうして、武田信虎によって甲斐は平定されました。1535年に今川攻めを行い、国境の万沢で合戦が行われました。今川と姻戚関係の北条氏が籠坂峠を越えて山中湖へ侵攻し、小山田氏や勝沼氏が敗北しました(万沢の戦い)。ここで弟・勝沼信友が戦死しました。その後、駿河で今川氏輝の死後に発生した「花倉の乱」で梅岳承芳(後の今川義元)を支援しました。1537年に長女・定恵院を今川義元に嫁がせると、今川氏の仲介で嫡男・晴信の室に公家・三条家の娘(三条の方)を迎えました。今川氏とは和睦して「甲駿同盟」を結びました。さらに北条氏とも和睦しますが、「甲駿同盟」は「駿相同盟」の破綻を招き、今川と北条は抗争状態となりました(河東の乱)。諏訪氏とは諏訪頼満の孫・諏訪頼重の代になると和睦し、三女・禰々を嫁がせました。そして、1541年に武田信虎が信濃から凱旋して、娘婿の今川義元と会う為に河内路を駿河に赴いたところ、嫡子・武田晴信は甲駿国境を封鎖して信虎を強制隠居させました。板垣信方、甘利虎泰ら譜代家臣の支持を受けた晴信一派によって、河内路を遮られて駿河に追放されました。事件の背景は諸説あります。武田信虎が嫡男・晴信を疎んじて次男・信繁を偏愛し、廃嫡を考えた「親子不和説」、晴信と重臣、今川義元との「共謀説」、信虎の可愛がっていた猿を家臣に殺されて、その家臣を手打ちにした等の「家臣団との関係悪化説」。こうして武田晴信は武田家家督と甲斐守護職を相続しました。この後の武田信玄による武田家大躍進は、武田信虎が基礎を築いた事により、成し遂げられたのです。
以下は武田信虎に粛清された家臣です。
加賀美虎光:武田信虎の重臣、勘気に触れ斬首。
馬場氏:馬場虎貞は、信虎が一族の加賀美虎光を討った事を諌めた為、勘気に触れ処刑される。信玄が馬場氏を再興し、教来石景政に名跡を継がせて50騎持の侍大将となる。「馬場信房」と名乗り、後に「馬場信春」と改名し、武田四天王となる。
山県氏:山県虎清は、信虎が一族の加賀美虎光を討った事を諌めた為、勘気に触れ処刑される。信玄の嫡男・武田義信と傅役・飯富虎昌が謀反を起こして成敗され、弟・三郎兵衛尉が飯富虎昌の赤備え部隊を引き継ぐ。この時、山県の名跡を与えられて山県昌景と名を改め、山県家を再興して武田四天王となる。
内藤氏:内藤虎資は駿河出兵に反対した為、信虎の勘気に触れて誅殺されて内藤家は断絶。この時、一緒に誅殺された重臣・工藤虎豊の次男・工藤祐長は難を逃れて武田家から出奔し、諸国を流浪。信虎が信玄によって追放された後、召還されて工藤氏の旧領と家督を継ぐ事を許される。信玄は父の罪を謝罪した上、金子を与えて50騎持の侍大将に抜擢。その後、信玄は内藤家を再興し、工藤祐長は「内藤昌豊」と名乗り、武田四天王となる。

次に、天正壬午の乱:武田旧臣一揆です。1582年、織田信長の「甲州征伐」により、武田氏を滅亡させました。織田信長は武田遺領を家臣に分与しました。天正壬午の乱は、「本能寺の変」によって空白地帯となった旧武田領を巡って、周辺の大名である徳川家康、北条氏直、上杉景勝が争った出来事です。さらに真田昌幸を始めとする武田の遺臣や、地元の国人衆が復帰や勢力拡大を画策したために情勢がより複雑化しました。河尻秀隆は、美濃出身の土豪の一族で、織田大和守に仕え、後に織田信秀に仕えました。16歳で織田信秀に従って「第一次小豆坂の戦い」、「第二次小豆坂の戦い」に参加しました。織田信秀の没後は、織田信長に仕えて黒母衣衆の筆頭を務めました。1558年、信長が弟・信行を謀殺するために清洲城へ呼び寄せた時、殺害を実行しました。「桶狭間の戦い」、「美濃攻め」に参加、美濃・猿啄城攻略で武功を立てました。美濃「堂洞合戦」では天守に1番乗りを果たしました。「伊勢北畠氏攻め」、「姉川の戦い」、「志賀の陣」にも参加しました。1572年、信長は美濃・岩村城の城主で縁戚の遠山景任が病死した為、織田信広、川尻秀隆らを派遣して5男の坊丸(織田勝長)を遠山家の養子に据えました。しかし、川尻秀隆らが引き上げた後、岩村城は信玄の西上作戦に伴って秋山信友の攻撃を受けました。織田信広、川尻秀隆らは再び援軍として派遣されましたが、「岩村城の戦い」で秋山信友に敗北を喫しました。岩村城は秋山信友の求婚に応じた事実上の城主で、信長の叔母で遠山景任の正室・おつやの方が開城し、坊丸は人質として甲斐に送られました。1574年、元服を終えたばかりの信長の嫡男・信忠の補佐役となりました。「伊勢長島一向一揆攻め」にも参加し、「長篠の戦い」では織田信忠を補佐して指揮を執りました。織田信忠が岩村城を落城させた際は、信長の命令に従って投降した城兵を処刑し、捕らえた秋山信友とおつやの方を美濃に送りました。この時、岩村城5万石を与えられました。1579年、織田信忠に従って荒木村重の「有岡城攻め」に参加しました。「甲州征伐」では織田軍先鋒として岩村口から武田領に侵入し、軍監として織田信忠家臣団を統率しました。その功績により、甲斐22万石と信濃・諏訪郡を与えられ、甲府を居城としました。「本能寺の変」が起こると、旧武田領の各地で武田遺臣による国人一揆が起こりました。森長可、毛利秀頼は領地を放棄して美濃へ帰還しましたが、川尻秀隆は甲斐に留まりました。徳川家康は、本多信俊を使者として送りました。本多信俊は、三河譜代の家臣で「桶狭間の戦い」後に徳川家康が独立する過程で、牧野氏などの豪族の調略などで功績を挙げました。初名は光俊でしたが、織田信長の使者として赴いた際に気に入られて「信」の1字を与えられて「信俊」と改名しました。本多信俊は、武田遺臣に不穏な動きがあるから美濃に帰るように促しました。しかし、川尻秀隆は応じずに1582年6月29日、本多信俊を殺害しました。享年48。川尻秀隆は、その後に発生した「武田旧臣一揆」に抗し切れず、甲斐からの脱出を試みましたが、7月7日に岩窪で武田遺臣・三井弥一郎に殺害されました。享年56。川尻秀隆の死により、甲斐をはじめとする武田遺領は、北条氏直との「天正壬午の乱」を制した徳川家康が領しました。子・秀長は羽柴秀吉に仕えて転戦しましたが、「関ヶ原の戦い」で西軍に付いて討死しました。三井弥一郎は武田氏に仕えた家臣で、父は武田信玄の重臣・山県昌景の同心として赤備えの一員を務めていました。1571年に父が討死した事で、家督を継ぎました。「長篠の戦い」で山県昌景が討死しましたが、当時17歳の三井弥一郎は参加していませんでした。その後、武田家の家臣となり、織田信長の「甲州征伐」で武田家が滅亡すると、甲斐にしばらく雌伏していました。「本能寺の変」が起こって織田信長が死去すると、初鹿野昌次ら武田家の遺臣を集めて「武田旧臣一揆」を起こしました。織田信長から甲斐を任されていた河尻秀隆を殺害、徳川家康が甲斐に侵攻して来ると降って家臣となり、井伊直政の同心として付されました。1584年の「小牧・長久手の戦い」が起こると、三井弥一郎は家康に従って従軍しました。長久手で池田恒興や森長可らの別動隊と戦って討死しました。享年26でした。

その次に、盧溝橋事件です。盧溝橋事件は、「日中戦争」の導火線となりました。日本軍支那駐屯軍所属の豊台に駐屯していた第3大隊および歩兵砲隊は、北平の西南端から10余キロにある盧溝橋東北方の荒蕪地で演習を実施しました。夜間演習を実施中、永定河堤防の中国兵が第8中隊に対して実弾を発射しました。事態を重視した日本軍北平部隊は森田中佐を派遣し、宛平県長・王冷斉及び冀察外交委員会専員・林耕雨等も中佐と同行しました。これに先立って豊台部隊長は直 ちに蘆溝橋の中国兵に対しその不法を難詰し、同所の中国兵の撤退を要求しましたが、交渉中に龍王廟付近及び永定河西側の長辛店付近の高地から集結中の日本軍に対し、迫撃砲及び小銃射撃を以って攻撃してきました。日本軍も自衛上止むを得ずこれに応戦して龍王廟を占拠し、蘆溝橋の中国軍 に対し武装解除を要求しました。この戦闘において日本軍の損害は死傷者10数名、中国側の損害は死者20数名、負傷者は60名以上でした。その後、衙門口方面から南進した中国兵が協定を無視して龍王廟を占拠し、引き続き蘆溝橋付近の日本軍を攻撃したため牟田口部隊長は逆襲に転じ、徹底的打撃を与えて龍王廟を占領しました。この戦闘において日本側は戦死6名、重軽傷10名を出しました。蒋介石は「最後の関頭」演説を公表して、抗戦の覚悟を明らかにしました。以降、「郎坊事件」、「広安門事件」を経て、日中両軍の全面衝突が開始されます(日中戦争開戦)。

その次の次に、第二次世界大戦:サイパンの戦いです。マリアナ諸島は、アメリカ軍の新型爆撃機B−29が展開すれば、東京など日本本土の大部分を攻撃圏内に収める事ができる位置にあるため、戦略的に重要でした。マジュロ環礁にアメリカ軍のサイパン攻略艦隊は集結しました。サイパン島の日本軍守備隊は玉砕しました。しかし、大本営はアメリカ軍はサイパンを襲わずパラオを襲うと予想し、パラオ方面の防衛力を増強しました。アメリカ軍艦載機1100機によるサイパン島に対する奇襲的な空襲が行われ、戦艦8隻、巡洋艦11隻を含む上陸船団を伴った艦隊がサイパン島に接近、砲弾合計18万発もの艦砲射撃が開始されました。これにより水際にあった日本の陣地は半壊し、サイパン基地の全150機の航空機を失いました。在泊中の日本艦船は脱出を図りましたが、第4611船団は全滅しました。このサイパン島への侵攻は、パラオ方面への侵攻を予想していた日本軍を驚かせました。小畑英良・軍司令官は急いでサイパンの軍司令部へ帰還しようとしましたが、既にサイパン島周辺はアメリカ軍の制空権下となっていたため不可能で、グアム島から指揮を執る事になりました。第31軍司令部は、井桁敬治・参謀長が責任者となって作戦指導を行いましたが、少将の井桁参謀長が中将の斎藤義次・第43師団長を指揮する変則的な形となりました。日本海軍は、アメリカ軍がサイパン攻略目的である事を確信できませんでしたが、「あ号作戦」を発動しました。日本の第一機動艦隊は、米機動部隊を迎撃する為にマリアナ諸島へ向かいました。アメリカ軍主力の海兵隊8000名が、サイパン島西の海岸に上陸しました。日本軍は水際撃滅のため、反撃を開始しました。しかし、サイパン島の海岸は見晴らしが良く、空と海からの猛烈な砲爆撃に晒された守備隊は消耗しました。米軍2000人を負傷させましたが独混47旅団、戦車第9連隊第4中隊などが全滅しました。アメリカ軍は幅10km、奥行き1kmの橋頭堡を確保し、海兵隊2万名以上を上陸させました。その夜、日本は水際作戦のため主力を海岸に結集し、一斉に反撃を開始しました。米軍の優勢な火力により2個大隊と横須賀第1陸戦隊はほぼ全滅し、島の北部へ退却しました。第27歩兵師団の部隊が上陸し、アスリート飛行場へ進撃しました。間に広がるサトウキビ畑の中に日本兵が潜み、奇襲攻撃が加えられました。そのため上陸米軍は、火炎放射器で畑を焼き払い、日本兵が出てきた所を攻撃する作戦に出ました。作戦は成功し、第27歩兵師団は飛行場に到達しました。日本軍は戦車第9連隊を含む約8000名が総攻撃を開始しましたが、1時間に野戦砲800発、機銃1万発という米軍の圧倒的火力により全滅しました。斎藤義次中将は飛行場を完全に放棄しました。そのため南部に残された日本軍は完全に孤立しました。攻勢の失敗に加え、水際撃滅作戦の為に日本軍の陣地は海岸付近に集中しており、敵の艦砲射撃や空襲の的となりました。このため守備隊は早々に壊滅、水際作戦を指示した大本営の晴気誠・陸軍参謀は責任を感じ、サイパンへの派遣を志願しましたが却下されました。彼は1945年の8月17日に自決しました。この戦訓は後の「硫黄島の戦い」や「沖縄戦」で生かされる事となります。「あ号作戦」で出撃した日本機動部隊は「マリアナ沖海戦」で大敗を喫しました。艦載機400機を失い、日本海軍航空部隊は無力化されました。これによりマリアナ諸島の日本軍は、救援の望みを絶たれました。陸上でも日本軍は組織的な反撃が不可能なほど戦力が減少したため、斎藤義次中将は島の中部の山岳地帯にあるタポチョ山に防御線を敷き、洞窟を利用した持久戦へ移行しました。海戦での敗北後も日本軍上層部はサイパン島の奪回を検討しましたが、大本営は奪回の見込みなしとしてサイパン島の放棄を決定しました。この時点での日本側兵力は、斎藤義次の指揮する第43師団が4000名、他部隊は2000名まで減少していました。重装備は戦車が僅かに3両で、野砲は全損していました。食料や水、医薬品が欠乏し、負傷者は自決しました。それでも日本軍は断固として抵抗を続けたため、米軍の進撃が進まず、第27師団長のラルフ・スミス少将が更迭されました。日本軍主力が防衛する島中央部で戦闘が開始されました。アスリート飛行場が運用可能になり、偵察機や爆撃機の使用が開始されました。空からの援護でアメリカ軍は防衛線を突破、占領地は島の70%に達しました。しかし、この日占領した住居地域では、倒壊した住居跡に残るトタンの下に日本軍が隠れており、掃討にかなりの時間を要しました。日本軍の独立歩兵第317大隊600名は、アスリート飛行場奪回の為に夜襲をかけましたが、米軍に包囲され全滅しました。日本軍は完全に追い詰められました。斎藤中将は残存部隊約3000名に総攻撃を命じ、陸海軍による「バンザイ突撃」が行われました。米軍は日本兵の捕虜からこの情報を得ており、陣地を築いて待ち構えていました。この戦闘で米軍に死傷者658名の損害を与えましたが、日本軍出撃部隊は全滅しました。翌日戦場は「死の谷」と呼ばれるほど、両軍の死体が累累と積み重なっていました。南雲忠一中将・中部太平洋方面艦隊司令長官、矢野英雄少将・中部太平洋方面艦隊参謀長をはじめ、斎藤義次中将ら高級指揮官は自決しました。一部の日本兵は降伏し、事実上サイパン島の日本軍は全滅しました。ターナー中将はサイパン島の占領を宣言しました。この「サイパンの戦い」で、25000人が戦死し、5000人が自決しました。

そのまた次に、第二次世界大戦:清水空襲です。1945年7月7日午前0時33分から午前2時10分までの間に、「B−29」133機が静岡県清水市を攻撃しました。1033トンの焼夷弾が投下され、市街地の半分が焼失しました。死者351人の被害を出しました。

最後に、日本初のファミリーレストラン・すかいらーく国立店が開店です。1962年、東京都北多摩郡保谷町(現・西東京市)のひばりが丘団地に、横川端、茅野亮、横川竟、横川紀夫の「横川4兄弟」が食料品を取り扱うスーパーとして「ことぶき食品」を創業しました。地域に根ざしたスーパーとして住民の支持を得る事に成功し、店舗も増えて経営は軌道に乗り掛けました。しかし、高度経済成長時に大駐車場を完備した大型店舗の巨大スーパーの進出が経営を直撃、大幅な客数減少、売上低下で店を開け続けるだけで赤字の状態となりました。 経営規模の違い過ぎる価格競争が続く食品スーパー事業から他業態への転換を模索している中で、ペガサスクラブのアメリカ視察に参加しました。アメリカでは既にモータリゼーションが進み、郊外型のレストランが繁盛している点に着目しました。日本でもマイカーブームが急速に進み始めているところに商機を見出し、マイカーで移動するファミリー客を主体としたレストランが考案されました。スーパーからの転業を決断し、新興住宅地として開発が進んでいた東京都府中市の甲州街道「国道20号」沿いに土地を確保し、日本の郊外型ファミリーレストランの先駆けとなる「スカイラーク1号店(国立店)」を創業しました(創業時はカタカナ表記)。当時の店舗外観は、大きな三角屋根に天井まで張られたガラス窓といったアメリカンなものでした。店名には創業地のひばりが丘団地に因み、ヒバリの英語名「skylark」が採用されました。オープン当時のメニューには洋風レストランの一番人気であるハンバーグを発展させた「ハンバーグ&エビフライ」、「ハンバーグ&カキフライ」などがありました。当時のレストラン業界で初めて同じ皿に盛り付けて登場したハンバーグ&エビフライは、一般的なレストランメニューでは発想されない異質なメニュー商品と思われましたが、利用客からの評判は良好でした。「ハンバーグメニュー」では当時の競合レストランが実施していた加熱した鉄板で提供する工程を廃止し、普通のミート皿で盛り付けを行いました。これにより、厨房とフロアー従業員がより効率よく料理の提供・バッシング(終了した食器の下げ物作業)を行えるようになりました。こうして、日本全国に展開していく事になります。現在では、洋食ファミリーレストラン「ガスト」、和食チェーン「夢庵」、イタリアンレストラン「グラッチェガーデンズ」、中華料理チェーン「バーミヤン」、コーヒーショップレストラン「ジョナサン」、和食の「藍屋」、和食チェーン「夢庵」、sushi花館「小僧寿しチェーン」を経営しています。

今日の誕生日:井伊直亮、グスタフ・マーラー、マルク・シャガール、栗林忠道、円谷英二、近江俊郎、塩野七生、リンゴ・スター(元ビートルズ)、上田正樹、百武裕司、研ナオコ、大川隆法、横山剣(クレイジーケンバンド)、ナンシー関、堤真一、藤島康介、MISIA、片岡明日香、滝沢沙織、原田夏希、生田衣梨奈(モーニング娘。)、土生瑞穂(欅坂46)、北斗星司、南夕子、秋本・カトリーヌ・麗子、月島きらり

今日の記念日:七夕、小暑、ゆかたの日、川の日、竹・たけのこの日、乾麺デー、ギフトの日、香りの日、冷やし中華の日、世界遺産の日、笹かまの日、ポニーテールの日、アルティメットの日、赤しその日、カルピスの日、恋の日、エンゲージメントデー、ドリカムの日

今日の「今日訓」:本日は、五節句の一つ「七夕」です。古くは「棚幡」と表記されました。「七夕」とはお盆行事の一環でもあり、精霊棚とその幡を安置するのが7日の夕方である事から7日の夕で「七夕」と書いて「たなばた」と発音するようになりました。明治6年(1873年)の改暦後は、お盆時期が7月と8月に分かれました。「七夕」もグレゴリオ暦(新暦)の7月7日に行う地域と、旧暦(お盆の8月7日、東日本、特に東北・北海道に多い)に行う地域とに分かれました。また、本日は「二十四節気」の一つ「小暑」です。「大暑来れる前なればなり」とあり、「梅雨明けが近付き、暑さが本格的になるころ」という意味です。「七夕」と「織女祭」から「ゆかたの日」、織姫や浴衣姿にポニーテールがよく似合う事で「ポニーテールの日」、「七夕」と「天の川」から「川の日」、「七夕」に素麺を「天の川」に見立てて食べる事から「乾麺デー」、「七夕」は牽牛と織女が年に一度出会う日という事から「ギフトの日」、七夕にちなみ「化粧品を買ってプレゼントしよう」と「香りの日」、七夕にちなみ「一年に一度、大切な人との結びつきを思い出し、あらためて伝え、願い、それを重ねていく日」という事で「エンゲージメントデー」、「七夕」に「笹の節句」という呼び名がある事から「笹かまの日」、しそは「紫蘇」と書き、蘇るもので「七夕」の織姫と彦星伝説の1年に一度蘇る事に通じるため「赤しその日」、「七夕」で遠距離恋愛の二人(織姫と彦星)が1年に1度再会出来る事で「恋の日」、「七夕」の日は「夢が叶う」日にとの思いから「ドリカムの日」、二十四節気の「小暑」となる事が多く、夏らしい暑さが始る頃である事から「冷やし中華の日」、かぐや姫が竹の中から生まれた日が7月7日である事から「竹の日」、「世界遺産条例」で定められた記念日「世界遺産の日」、アルティメットが7人対7人で行う競技である事から「アルティメットの日」、1919年7月7日、日本初の乳酸飲料「カルピス」が誕生した事を記念して「カルピスの日」となりました。
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