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2020年07月06日01:10

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7月6日の日記

今日の出来事:1221年−承久の乱が終結、1615年−古田重然(織部)自害、1790年−寛政の改革:寛政異学の禁がはじまり、昌平坂学問所で朱子学以外の学問の教授が禁じられる、、1868年−戊辰戦争:真岡代官所襲撃、1868年−会津戊辰戦争:第五次白河攻防戦、1945年−第二次世界大戦:千葉空襲、甲府空襲、1949年−下山事件、1957年−谷中五重塔放火心中事件、2019年−百舌鳥・古市古墳群がユネスコの世界文化遺産に登録

今日は、承久の乱が終結です。鎌倉幕府3代将軍・源実朝が甥の公暁に暗殺されました。これにより、鎌倉の政務は源頼朝の正室・北条政子が代行し、執権である弟・北条義時がこれを補佐する事となりました。摂関家の九条道家の子・九条頼経を第4代将軍として迎え、執権が中心となって政務を執る「執権体制」となりました。一方、後鳥羽上皇は多芸多才で「新古今和歌集」を自ら撰するなど学芸に優れるだけでなく、武芸にも通じて狩猟を好む異色の天皇でした。それまでの北面武士に加えて西面武士を設置し、軍事力の強化を行いました。内裏守護の源頼茂(源頼政の孫)が、将軍職に就く事を企てたとして後鳥羽上皇の指揮する兵に在所であった昭陽舎を襲撃されました。源頼茂は応戦して抵抗しましたが、仁寿殿に籠って火を掛けて自害し、子の頼氏は捕縛されました。朝廷と幕府の緊張は高まり、後鳥羽上皇は討幕の意志を固めました。後鳥羽上皇は「流鏑馬揃え」を口実に諸国の兵を集め、北面・西面武士や近国の武士、大番役の在京の武士1700余騎が集まりました。その中には有力御家人の小野盛綱、三浦胤義も含まれていました。幕府の出先機関である京都守護の大江親広(大江広元の子)は上皇に強要され、やむなく京方に加わりました。同時に親幕派の大納言・西園寺公経は幽閉されました。京方の藤原秀康が率いる800騎が京都守護・伊賀光季の邸を襲撃しました。伊賀光季は僅かな兵で奮戦して、討死しましたが、下人を落ち延びさせて変事を鎌倉に知らせました。鎌倉へは、西園寺公経の家司・三善長衡と伊賀光季からの上皇挙兵の急報が届けられました。三浦胤義からの密書を受けた三浦義村は使者を追い返し、直ちに密書を幕府に届けました。後鳥羽院の近臣で、挙兵に反対していた一条頼氏が鎌倉に逃れてきました。上皇挙兵の報に鎌倉の武士は大いに動揺しましたが、北条政子が頼朝以来の恩顧を訴えて上皇側を討伐するよう命じた声明を出すと、動揺は鎮まりました。北条政子が鎌倉武士を前に、「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深いはずだ。逆臣の讒言により非義の綸旨が下された。藤原秀康、三浦胤義を討ち取り、亡き三代将軍の遺跡を全うせよ。院に味方したい者は、直ちにその旨を述べて参じるが良い」と涙ながらの演説を行い、北条義時を中心に御家人を結集させました。北条義時、北条泰時、北条時房、大江広元、三浦義村、安達景盛らによる軍議が開かれ、箱根・足柄で徹底抗戦をする慎重論に対し、大江広元は京への積極的な出撃を主張しました。北条政子の裁決で出撃が決定されると素早く兵を集め、軍勢を東海道、東山道、北陸道の三方から京へ向けて派遣しました。急な派兵であったため、東海道軍は当初18騎で鎌倉を発向しました。北条泰時は途中で鎌倉へ引き返し、天皇が自ら兵を率いた場合の対処を北条義時に尋ねました。北条義時は「天皇には弓は引けぬ、ただちに鎧を脱いで、弓の弦を切って降伏せよ。都から兵だけを送ってくるのであれば力の限り戦え」と命じました。幕府軍は道々で徐々に兵力を増し、最終的には19万騎に膨れ上がりました。北条義時は捕らえていた上皇の使者に、宣戦布告の書状を持たせて京へ追い返しました。幕府軍の出撃を予測していなかった後鳥羽上皇らは狼狽しました。藤原秀康を総大将として幕府軍を迎え撃とうと、1万7500余騎を美濃国へ差し向けました。上皇方は美濃と尾張の国境の尾張川に布陣しましたが、少ない兵力を分散させてしまいました。甲斐源氏の武田信光・小笠原長清が率いる東山道軍5万騎は、大井戸渡に布陣する大内惟信が率いる上皇方2000騎を撃破しました。藤原秀康と三浦胤義は支えきれないと判断し、宇治・瀬田で京を守るとして早々に退却を決めました。北条泰時、時房の率いる主力の東海道軍10万騎が尾張川を渡河し、墨俣の陣に攻めかかった時には退却した後でした。山田重忠のみが杭瀬川で奮戦し、熊谷直国(熊谷直実の孫)を討ち取りました。上皇方は総崩れになり、大敗しました。北条朝時が率いる北陸道軍4万騎も砺波山で上皇方を撃破して、加賀国に乱入して京を目指しました。美濃・尾張での敗報に上皇方は動揺して洛中は大混乱となりました。後鳥羽上皇は自ら武装して比叡山に登り、僧兵の協力を求めましたが、上皇の寺社抑制策が禍して比叡山はこれを拒絶しました。上皇方は残る全兵力をもって宇治・瀬田に布陣し、宇治川で幕府軍を防ぐ事に決め、公家も大将軍として参陣しました。上皇方と幕府軍は衝突しました。上皇方は宇治川の橋を落とし、雨のように矢を射掛けて必死に防戦しました。幕府軍は豪雨による増水のために川を渡れずに攻めあぐねましたが、佐々木信綱を先頭に強引に敵前渡河し、多数の溺死者を出しながらも敵陣の突破に成功しました。上皇方は潰走し、幕府軍は京へなだれ込みました。敗走した上皇方の藤原秀康、三浦胤義、山田重忠は最後の一戦をせんと御所に駆けつけましたが、上皇は門を固く閉じて彼らを追い返しました。後鳥羽上皇は幕府軍に使者を送り、この度の乱は謀臣の企てであったとして北条義時追討の院宣を取り消し、藤原秀康、三浦胤義らの逮捕を命じる院宣を下しました。上皇に見捨てられた藤原秀康、三浦胤義、山田重忠ら上皇方の武士は東寺に立て籠もって抵抗しました。三浦義村の軍勢がこれを攻め、藤原秀康、山田重忠は敗走し、三浦胤義は子・胤連、兼義と共に奮戦して自害しました。山田重忠は敵15騎を討ち取る奮戦をしましたが手勢のほとんどが討ち取られ、嵯峨般若寺山に落ちのびて自害しました。嫡子・重継も幕府軍に捕らえられて殺害されました。藤原秀康は捕えられ、弟・秀澄とともに京で斬られました。首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流されました。討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流されました。後鳥羽上皇の皇子の六条宮、冷泉宮もそれぞれ但馬国、備前国へ配流になりました。仲恭天皇は廃され、行助法親王の子が即位しました(後堀河天皇)。親幕派で後鳥羽上皇に拘束されていた西園寺公経が内大臣に任じられ、幕府の意向を受けて朝廷を主導する事になりました。討幕計画に参加した上皇方の「合戦張本公卿」と名指しされた一条信能、葉室光親、源有雅、葉室宗行、高倉範茂ら公卿は鎌倉に送られる途上で処刑され、坊門忠信らその他の院近臣も各地に流罪になったり、謹慎処分となりました。佐々木経高は自害、後藤基清は幕府方についた子の基綱に処刑されました。河野通信は、捕虜となって陸奥国江刺に流罪となり、子・通政は斬られ、所領の多くは没収されました。大江親広ら御家人を含む上皇方の武士が多数粛清、追放されました。この「承久の乱」の後、朝廷は幕府に完全に従属しました。六波羅にあった旧平清盛邸を改築して役所にし、北条泰時・北条時房の二人が六波羅の北と南に駐留してこの作業にあたりました。西国の御家人を組織し直して、京の警備・朝廷の監視・軍事行動などを行わせました。これが「六波羅探題」の始まりとなりました。

次に、古田重然(織部)自害です。古田重然は、茶人・古田織部として知られています。「織部」の名は、従五位下織部正の官位に叙任された事に由来しています。千利休が大成させた茶道を継承し、大胆かつ自由な気風を好み、茶器製作、建築、庭園作庭などにわたって「織部好み」と呼ばれる一大流行をもたらしました。古田氏は美濃国の守護大名・土岐氏に仕えていましたが、1567年に織田信長の美濃進駐で家臣として仕え、古田重然は使番を務めました。翌年の織田信長の上洛に従軍し、摂津攻略に参加しました。1569年に摂津・茨木城主・中川清秀の妹・せんと結婚しました。1576年には山城国・乙訓郡上久世荘の代官となりました。1578年、織田信忠の播磨・神谷城攻めに使番として手柄を立て、荒木村重の謀反「有岡城の戦い」では義兄・中川清秀を織田方に引き戻すのに成功しました。その後、羽柴秀吉の「播磨攻め」、明智光秀の丹波攻め「黒井城の戦い」、「甲州征伐」に中川清秀と共に従軍しました。織田信長の死後は羽柴秀吉に仕えて、「山崎の戦い」の前に中川清秀に人質を出す事を認めさせました。1583年に伊勢亀山城の滝川一益を攻め、「賤ヶ岳の戦い」でも軍功を挙げました。この時、中川清秀が討死しました。古田重然は中川清秀の長男・秀政の後見役となり、翌年の「小牧・長久手の戦い」や1585年の「紀州征伐」、「四国征伐」にも中川秀政と共に出陣しました。豊臣秀吉が「関白」になると、古田重然は今までの功績を賞されて「従五位下織部助」に任ぜられました。この時、義父・重安の実子で義弟に当たる重続を美濃から呼び寄せて、長女・せんを中川秀政の養女とした上で配偶して中川家の家臣としました。この重続の子孫は、古田重然の正系が絶えた後も中川氏の家老として存続しました。その後、「九州征伐」、「小田原征伐」に参加し、「文禄の役」では豊臣秀吉の後備衆の一人として150人の兵士を引き連れて名護屋城東二の丸に在番衆として留まりました。1582年頃から千利休と知り合い、弟子入りしました。後に「利休七哲」の一人となりました。「利休七哲」とは、蒲生氏郷(筆頭)、細川忠興(三斎)、古田重然(織部)、芝山宗綱(監物)、瀬田正忠(掃部)、高山長房(右近/南坊)、牧村利貞(兵部)の七人です。また、織田長益(有楽斎)、千道安(利休の実子)、荒木村重(道薫)を加えて「利休十哲」と呼称されます。1591年に豊臣秀吉によって千利休の追放が決まると、利休と親交のあった諸将が豊臣秀吉を憚って現れない中、古田重然と細川忠興のみが堂々と利休の見送りを行いました。千利休切腹後は、天下一の茶人となりました。1600年の「関ヶ原の戦い」では東軍に与しました。古田重然は、茶の湯を通じて朝廷、貴族、寺社、経済界と様々な繋がりを持ち、名実ともに「天下の茶人」として全国の大名に多大な影響を与える存在で、2代将軍・徳川秀忠の茶の湯の指南役にも抜擢されました。1615年、「大坂夏の陣」で古田重然の茶頭・木村宗喜が豊臣氏に内通し、京への放火を企んだとされる疑いで京都所司代・板倉勝重に捕らえられました。古田重然も「大坂冬の陣」の頃から豊臣氏と内通し、徳川方の軍議の秘密を大坂城内へ矢文で知らせたなどの嫌疑をかけられ、大坂落城後の1615年7月6日に切腹を命じられました。古田重然はこれに対し、一言も釈明せずに自害しました。享年73でした。木村宗喜も処刑されました。後に古田重広も切腹し、古田家は断絶しました。茶道の師・千利休と同様に反骨精神が旺盛で、江戸幕府の意向を無視する事がありました。また、茶の湯を通じて朝廷、貴族、寺社、経済界と様々な繋がりを持ち、全国の大名に多大な影響力を与える存在となったため、幕府から危険視されたためと考えられています。

その次に、寛政の改革:寛政異学の禁です。江戸幕府の朱子学を中心とした儒学政策は、徳川家康による林羅山の登用に始まり、徳川綱吉の湯島聖堂建設で最高潮に達しました。しかし、徳川吉宗は理念的な朱子学よりも実学を重んじ、古文辞学や古学などが流行した事もあって朱子学は不振となり、湯島聖堂の廃止が検討されました。松平定信が老中となると、田沼意次時代の「天明の大飢饉」を乗り越え、低下した幕府の指導力を取り戻すために、儒学のうち農業と上下の秩序を重視した朱子学を正学として復興させ、当時流行していた古文辞学や古学を「風俗を乱すもの」として規制をしました。松平定信の「寛政の改革」の一つとして、「寛政異学の禁」が出されました。柴野栗山や西山拙斎らの提言で、朱子学を幕府公認の学問と定め、聖堂学問所を官立の昌平坂学問所と改め、学問所においての陽明学・古学の講義を禁止しました。この禁止はあくまで学問所のみにおいてのものでしたが、諸藩の藩校もこれに倣ったため、朱子学を正学とし他の学問を異学として禁じる傾向が次第に一般化していきました。この異学の禁に反対した儒者5名(亀田鵬斎、山本北山、冢田大峯、豊島豊洲、市川鶴鳴)は「寛政の五鬼」と呼ばれる事になります。

その次の次に、戊辰戦争:真岡代官所襲撃です。真岡代官・山内源七郎は、真岡で世直し一揆が発生すると逃亡しました。そして、宇都宮で新政府軍・香川敬三に嘆願し、新政府配下として真岡に戻りました。しかし、会津藩に内通して食糧などを会津へ送ったという風聞が流れました。実際に日光奉行と謀って今市の御蔵米を日光山に隠匿した事、「結城騒動」で武器を援助した事などから、土佐藩と佐賀藩の藩兵によって7月6日に真岡代官所を襲撃され、山内源七郎は「会津賊兵嚮導」の罪で斬られました。この時、真岡代官所下役・三沢昇四郎、松野栽右衛門、平田義助も一緒に斬られました。

そのまた次に、会津戊辰戦争:第五次白河攻防戦です。伊地知正治が率いる隊が白河城に籠ってましたが、新政府軍の増援隊が白河城に入りました。土佐藩四小隊に、薩摩藩の部隊です。列藩同盟軍は白河奪還を目指し、攻撃を掛けました。しかし、また撃退されてしまいました。

そのまた次の次に、第二次世界大戦:千葉空襲、甲府空襲です。
千葉空襲:1945年7月6日午前1時39分から3時5分にかけての夜間空襲で、B29・124機によって行われました。この空襲によって、省線千葉駅、(旧)京成千葉駅のほか椿森や作草部等にあった鉄道第一連隊、気球聯隊、陸軍高射学校などの軍事施設に被害が出ました。また、千葉市街地を目標にした129機のB29による焼夷弾などにより千葉市中心地のほとんどが焼け野原となりました。1679人の死傷者がでました。
甲府空襲:1945年7月6日深夜11時43分から7月7日1時43分までの間に、甲府市、西山梨郡玉諸村、西山梨郡山城村、西山梨郡住吉村、西山梨郡甲運村、中巨摩郡昭和村、中巨摩郡玉幡村、中巨摩郡竜王村、中巨摩郡池田村、東八代郡石和町、東八代郡柏村、東八代郡富士見村、東山梨郡岡部村、東山梨郡春日居村、東山梨郡神金村がアメリカ軍爆撃機「B−29」138機により、大規模な空襲を受けました。甲府市は市街地の74%が灰燼と帰しました。死者1127人、負傷者1239名、被害戸数18094戸の被害を出しました。この空襲は、その時間から「たなばた空襲」とも呼ばれています。

さらに次に、下山事件です。下山事件は、国鉄三大ミステリー事件の一つです。日本国有鉄道(国鉄)の初代総裁に就任したばかりの下山定則は出勤途中、運転手に日本橋の三越に行くよう指示しました。「五分くらいだから待ってくれ」と運転手に告げ、急ぎ足で三越に入りそのまま消息を絶ちました。失踪事件として捜査が開始されました。翌7月6日午前0時30分過ぎに足立区綾瀬の国鉄常磐線北千住駅 - 綾瀬駅間で汽車に轢断された下山の遺体が発見されました。失踪後、下山総裁らしき人物は、まず三越店内で、次に営団地下鉄(現東京地下鉄)銀座線の浅草行き列車内で目撃されました。三越店内では、数名の人物たちを伴っていたとの目撃証言があります。午後1時40分過ぎに、轢断地点に近い東武伊勢崎線五反野駅改札で改札係と話を交わしました。その後、午後2時から5時過ぎまで、同駅に程近い「末広旅館」に滞在しました。午後6時頃から8時すぎまでの間、五反野駅から南の轢断地点に至る東武伊勢崎線沿線で、服装背格好が総裁によく似た人物の目撃証言が多数得られました。下山総裁は、東武伊勢崎線ガード下の国鉄常磐線下り方面(水戸方面)線路上で、付近を0時20分頃に通過した下り貨物列車第869列車(D51 651号牽引)により轢断されたことが判明しました。他殺とも自殺とも結論を出せないまま、1949年12月31日に「下山事件特別捜査本部」は解散となります。他殺の線で捜査を続けていた警視庁捜査二課も、1950年に、捜査員が突然転任されるなどして大幅に規模が縮小され、事実上捜査は打ち切られました。そして、1964年7月6日に殺人事件の公訴時効が成立しました。この下山事件から約1ヵ月の間に国鉄に関連した「三鷹事件」、「松川事件」が相次いで発生し、3事件を合わせて「国鉄三大ミステリー事件」と呼ばれる事になります。

さらに次の次に、谷中五重塔放火心中事件です。7月6日早朝に東京都台東区の谷中霊園内の五重塔が、心中による放火で焼失した事件です。この五重塔は、天王寺より当時の東京市に寄贈されたもので、幸田露伴の小説「五重塔」のモデルにもなりました。東京の名所のひとつで、谷中霊園のシンボルになっていました。午前3時45分ごろ火の手が上がり、火の粉は塔から50m離れた地点にも降り注ぎ、心柱を残してすべて焼け落ちました。焼失後、焼け跡の心柱付近から男女の区別も付かないほど焼損した焼死体2体が発見されました。わずかに残された遺留品の捜査で2人は都内の裁縫店に勤務していた48歳の男性と21歳の女性である事が判明しました。現場には石油を詰めた一升ビンとマッチ、睡眠薬が残されておりました。捜査の結果、男女は不倫関係の清算を図るために焼身自殺を図った事がわかりました。その後、五重塔は再建されず、現在は礎石だけが残るのみです。

最後に、百舌鳥・古市古墳群がユネスコの世界文化遺産に登録です。百舌鳥・古市古墳群は、大阪府堺市、羽曳野市、藤井寺市の3市にまたがる4世紀後半〜5世紀後半の45件49基がにある古墳群の総称です。2019年7月6日の第43回世界遺産委員会で、世界文化遺産に登録されました。以下が登録古墳群です。
百舌鳥古墳群:大仙陵古墳、上石津ミサンザイ古墳、ニサンザイ古墳、田出井山古墳、御廟山古墳、いたすけ古墳、長塚古墳、永山古墳、丸保山古墳、銭塚古墳、大安寺山古墳、竜佐山古墳、収塚古墳、旗塚古墳、茶山古墳、孫太夫山古墳、菰山塚古墳、七観音古墳、塚廻古墳、寺山南山古墳、善右ヱ門山古墳、銅亀山古墳、源右衛門山古墳
古市古墳群:誉田御廟山古墳、仲ツ山古墳、岡ミサンザイ古墳、市ノ山古墳、墓山古墳、堂城山古墳、白鳥陵古墳、古室山古墳、大鳥塚古墳、二ツ塚古墳、はざみ山古墳、峯ヶ塚古墳、鍋塚古墳、向墓山古墳、浄元寺山古墳、青山古墳、鉢塚古墳、東山古墳、八島塚古墳、中山塚古墳、誉田丸山古墳、西馬塚古墳、栗塚古墳、野中古墳、助太山古墳、東馬塚古墳

今日の誕生日:山名宗全、ニコライ1世、ミヤコ蝶々、ジャネット・リー、遠藤実、ダライ・ラマ14世、長塚京三、シルヴェスター・スタローン、ジョージ・ウォーカー・ブッシュ(第43代アメリカ合衆国大統領)、高峰圭二、瀬川瑛子、旭富士正也(第63代横綱)、太田光代、角野秀行(TUBE)、とよた真帆、大西結花、小倉隆史、宝積有香、石田たくみ(カミナリ)、ランボー

今日の記念日:サラダ記念日、公認会計士の日、ピアノの日、ゼロ戦の日、記念日の日、ワクチンの日、セコムの日、ナンの日

今日の「今日訓」:本日は、俵万智の歌集「サラダ記念日」(1987年)より「サラダ記念日」、その「サラダ記念日」にちなんで「記念日の日」、1948年に「公認会計士法」が制定された事で「公認会計士の日」、1823年にシーボルトが初めて日本にピアノを持ち込んだ事で「ピアノの日」、1939年、「零式艦上戦闘機(ゼロ戦)」の試作機の試験飛行が始まった事を記念して「ゼロ戦の日」、1885年、フランスの細菌学者のルイ・パスツールが開発した狂犬病ワクチンが少年に接種された事で「 ワクチンの日」、7月5日、6日で「7(セ)5(コ)6(ム)」の語呂合わせで「セコムの日」、「7」と「6」で「ナン」と読む語呂合わせで「ナンの日」となりました。
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